長編 魏

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李典27


鈴麗がその話を聞いたのは、香織が風邪で寝込む数日前のことであった。
もうすぐ出兵した兵士が帰還するとあって、城内は慌ただしくなっている。それなのに鈴麗の心は沈んだように重苦しかった。理由は明白で、香織と李典の関係が気になって仕方がないのだ。香織が郭嘉と共に酒を飲んだと聞いた鈴麗は香織が郭嘉へと心変わりしたものとばかり思っていたのだが、実際はそうではなかったらしい。ただの噂かもしれないという望みを捨て切ることが出来ずに、鈴麗は名目上李典の女官である事を利用して李典の執務室へと足を運んだが、そこで目にしたのは香織に譲ったはずの簪であった。それを目にしてしまえば事実を受け入れざるを得ない。香織と李典は何らかの関係にあって、その関係は執務室内で簪を外すほど親しいものだという事実を。








二日の後に先頭の部隊が帰還するという予報が届いた頃のことであった。香織は朝からやけに体が熱くなるなと思っていたら、風邪をひいてしまったらしい。すぐに休むよう指示が出て室内に戻ったが、皆が忙しくしている中で寝ているのは大層申し訳なかった。しかし休みを与えられたのは他者に移さないようにという意味でもあって出勤するわけにもいかず。寝ている日々は退屈で苦痛なことこの上なかった。さらには帰還が始まったらしく、宿舎の前を歩く女官の話し声に見知った将兵の名が出てくれば尚の事である。香織は間が悪い自分に溜息を吐いて布団に潜り込んだ。すると、扉を叩く音がして人が入ってくる。今この部屋に入ってくるのは侍女として近くの宿舎で働いている女性くらいだ。食器のぶつかる音がするため食事か何かだと判断して顔をあげれば、香織の予想通り食事が用意されていた。しかしながらそれを運んできたのは香織の期待していた仲の良い侍女ではなく鈴麗である。香織は彼女の顔を見るなり、自らの地味な私室に恥ずかしさを覚えた。

「お加減はいかが?」

「少しずつ治ってきているのですけれど…お手を煩わせてごめんなさい。」

「良いのよ。気にしないで。感冒に効く麻黄湯(まおうとう)を持ってきたから。苦いけれど飲んでね。」

そう言って優しげに笑う鈴麗は香織の弱り切った心に暖かさを染み渡らせた。一人寂しく食事を取った後、深めの茶碗に入っている良薬口に苦しという言葉の通り苦そうな薬を蓮華で掬う。薬湯の味も分からない程に味覚が薄れているので問題なく飲み干して再び牀に横たわればすぐに眠ることができた。


麻黄湯の効きは早く、咳はすぐに収まった。しかし今度は食欲が湧かずに体が怠くなってくる。鈴麗を始め女官仲間や顔見知りの侍女が毎日の食事を運んでくれるが、一向に良くならなかった。彼女達の話に寄ると出兵していた将兵の帰還が完了したらしい。もう5日も寝込んでいるのだから当然の事ではあったがその話を聞いて香織はさらに病状が悪化したような気がした。暫くは内部での戦勝の宴が続き、次に下々の者を招いての会を開くらしい。今回の宴は一月近く続きそうだと、皆が口を揃えて言うほどに賑わっているようだった。徐庶はもちろんのこと楽進や郭嘉、そして誰よりもまず最初に李典に会いたいと思った香織は早く治そうとより必死になった。


その日、香織が思い至ったのはなんとなくであって、女官長が立ち寄ったのも偶然であった。よく眠り食事もしているのになかなか治らない病状を怪しんだ香織は食事の粥を小皿に移し、枕の横に置いている李典から貰った銀の簪を粥の中にゆっくりと突き刺した。すると簪の輝くような銀はみるみるうちに黒く変色していき、簪は瞬く間に二種類の金属で作られたかのような色合いへと変貌した。香織の読んだ事のある書物に書いてあった通りならば銀の変色は毒物の存在を意味するものであるが、まさかと香織が息を飲んだ瞬間、扉を開けて入って来たのは女官長であった。
女官長は、香織が小皿に簪を突き刺したまま時が止まったかのように固まっているのを扉の前で訝しむと、静かに室内へと足を踏み入れた。
香織の元へ近付けば、銀の簪が粥の中で変色しているのが分かる。

「あ、あのこれ、」

「香織さん、静かに。」

慣れていることなのか、女官長はやけに落ち着いた様子で香織の手元から粥の入った小皿を取りあげ卓に置くと、香織の肩を押して牀の上へと座らせた。驚愕のあまりに手が震えている香織を一瞥して近くを歩いていた侍女を呼び出し駆けつけた薬師に粥の成分を判別させる指示を出した。解毒薬の必要な毒かどうかをまずは見なければいけない。次に香織の主である徐庶への報告を行い犯人の操作をするのかどうか、判断を仰ぐのだ。女官の食事を担当している給仕の仕業ではないだろう、そう女官長は推測していた。毒の混入などは数年に一度起こる事なので年若い女官には慣れない事であってもかつて漢王朝に 勤めていたことのある女官長はよく経験した事であった。香織は口元を抑えて一点を見つめている。まさか自分の食事に毒が盛られるとは、その言葉だけが頭の中で繰り返されていた。

「あの、私は死ぬのでしょうか。」

「いいえ、きっと平気よ。この事は私に任せてくれるかしら。成分がわかり次第最善を尽くすから安心して。ほら、まずは横になりましょう。今は何も食べたくないでしょう?」

こくこくと頷いて震えながらも布団に入る香織に優しく微笑むと、笑みを浮かべたまま女官長は室内を出て行った。香織は恐怖のあまりに眠れないと思っていたのだが、よほど体調が優れないようで意外なことにすんなりと眠りについた。






杏仁(きょうにん)。
薬師の調べた毒の成分は食事にも薬にも用いられる材料で、過剰に摂取すれば体調を崩し死に至るが香織の場合は暫くすると治るほど軽い量らしかった。女官長が徐庶へ報告するなり犯人を探せとの指示が下り、数日後にその犯人は身近な所から見つかる事となる。








徐庶は香織の容体を朝夕の二回も女官長へ問うた。少しずつ良くなって来ていますよと笑われると、安心したように息を吐いて丁寧に拱手をして去っていく。今日も戦勝の宴が開かれていたが、女官長に聞いた話が頭から離れない徐庶は全く酒を飲む気になれず、楽しめなかった。

「おそらくは女官の仕業かと」

その時の女官長の鋭い視線を思い出せば、犯人に目星が着いているようだった。女官内での争いであれば恐らくは父親の官位争いか恋慕によるものだろう事は想像できるが、香織の父親は下級文官だという話を仕入れたので官位で争うことはまずあり得ない。残る可能性は男に関するものであった。徐庶は酒の席で今日何度目か分からない程に遠く離れた李典を注視した。李典というよりはむしろ李典の周囲の女性を、である。先ほどから李典と視線が交わってしまうことが幾度かあり、落ち着いて行動出来ないほど怒りに触れていることを認識せざるを得ない。徐庶は目の前の盃を手の中で弄び香織の事を考えた。犯人を見つけるには李典の力を借りるのが良い。けれど、香織はそれを望むだろうか。李典を巡っての色恋沙汰で毒を盛られたという話を、香織は李典に聞かせたがるのか。

「なぁ、俺に何か用か?」

「あぁ、李典殿。」

どうやら随分と考え込んでいたようで、気付けば李典が徐庶の側へ来ていた。彼を取り巻いていた女性達は適当にあしらわれたらしく、不貞腐れているようだ。李典は徐庶の盃に酒を注いで自らのそれも満たした。今回の帰途で親しくなった二人は、言葉も砕けて友人のように話す間柄へと変わったのだった。

「いや、人気なんだなと思ってね。」

「あぁ…まぁな。大方狙い目だと吹聴されてるんだろ。…なぁ、香織の容体はどうなんだ?」

「香織殿は良くなって来ているらしい。女官長から聞いただけだけれど。」

徐庶はそう言って宴の席の中を見渡せば、女官長がこちらを見ている視線にぶつかった。何か言いたい事があるらしく、手でさりげなく外を指差している。

「なんでこんな時に体調崩すんだろうなぁ…。まったく。」

「はは、それは仕方が無い事だよ。そんな事より、他の女性に囲まれていた事を香織殿へ報告されたくなかったら、しっかりと断っておいてくれ。彼女が可哀想だ。」

「当たり前だろ…って、どこ行くんだよ?」

徐庶は半ば捨て台詞のように李典へ言葉を投げると、場を辞して外へと歩いていった。楽師の奏でる音楽と舞を舞う女の賑わいに隠れるように外へと向かう姿を、李典は首を傾げて見送った。






「あぁ、そうか。あなたの読み通りですね。」

「いえ。…徐庶様、鈴麗を処分をなさいますか。それとも…」

廊下に人の姿はなく、二人の話は暗闇の中で行われた。鈴麗の所まで調査の手が伸びたのは数日後の事だったが、犯人の処断は軽いものへと留める事となったのは香織の意向を予測した徐庶の判断だった。
そしてそれを香織に伝えるのは女官長の仕事であって、香織にそれとなく犯人を伝えるとやはり香織は処刑も投獄も望まないようで、西方の拠点への左遷に留めた徐庶へ感謝をしたいという言葉を残して何度目かの涙を流す。

「毒が弱いもので本当によかったわ。彼女は香織さんを戦勝の宴に出したくなかったそうなの。殺すつもりはなかったと言っていたわ…だから少量の杏仁を使ったのね。貴方が無事で、本当に良かった。」

「…やはり私が身の程を弁えなかった事が報いとなったのですね。」

「そんな、貴方は何も悪い事をしていないのよ。」

香織は誰を責めるでもなく自らの行いを恥じていた。城へ来た最初の頃に決めた事柄を貫いていれば、安全に女官の業務を終えられていたのだ。悔いてもどうしようもないが、後悔せずにいられなかった。



「女官長、あの…、体調不良を理由にお城を出る事は可能でしょうか。私、もう仕事が出来そうになくて。」

香織が涙を流しながら懇願する内容は、決意の表れのようで。毒を盛られた人間を働かせ続けるほど、女官長は厳しくはなれなかった。今すぐに家へ返してやりたいという気持ちを抑えつつ横たわる香織の髪を撫でる。今すぐに返してやりたいが、しかしながら判を押す権限は徐庶にある。香織の言葉で徐庶へ伝えるように言うと、まずは外出に耐えられるよう、体調を戻すように言い置いて室を出た。

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