長編 魏

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李典26



昼前だというのに城はがらりとしていた。
今回の出陣で兵はほとんど残っていない。まるでそれはこの戦で天下を決するつもりなのだと思うほど攻めに重点を置いた出兵で、守りを放棄してしまったかのように守備兵たちは専ら雑談にいそしんでいる。残された者の中に優秀な兵はいないようだった。


香織は一人徐庶の執務室で竹簡を読んでいた。
髪には母から貰った簪と、李典から貰った簪を1本ずつ着けている。李典の言いつけ通り、地味な出で立ちで過ごしている。
六韜の中身は中々に面白く、次々と読み進めるうちに一巻を終えてしまった。二巻以降が気になるが、書庫の六韜は女官の閲覧が認められていない。読めなければ仕方が無いと読み終えた竹簡をくるくると巻いて棚に戻す。視線の先、不意に見つけた隣の竹簡の札には地形図の文字があって、興味本位に開けばここに来てすぐ徐庶が書き写したらしい地図が乗っていた。書庫から原本の竹簡を持って来たのは香織なのですぐに理解できたその内容は夏口と烏林のあたりの地形図である。間には長江らしき川が通り、真ん中に書いてあるのは赤壁の文字。以前の香織には聞きなれない土地だったが、今回の戦場としてよく聞いたその名を忘れてはいなかった。


「……あの人、凄いじゃない。」

つまり徐庶は魏国へ降った時には既に次の戦場が夏口や烏林のあたりだと読んでいたのだろう。魏国は水軍に穴がある事も承知の上だったようだ。香織は静かで根暗な主に身震いがした。曹操を支える軍師の才とはこういうものを言うのかと、初めて知った瞬間だった。





徐庶の部屋を後にして女官長の所へ行き雑務を貰うと、久し振りに林杏と顔を合わせた。冬に向けて食物を干していくという単純作業は本来屯田兵の仕事であり、戦の最中にある今は人員不足だった。

「久しぶりね。今日は外に行くから新しい刺繍の図案が思いつきそうだわ。」

「ええ。実りの良い秋の図柄も良さそう。」

香織と林杏は互いに話しながら歩みを進めていく。城下の畑には沢山の食物が干され始めていた。毎年の光景ながら近くで見れば圧巻だ。

「香織さん、郭嘉様と噂になって以降に顔を合わせないから、噂の真相が聞きたくて聞きたくてうずうずしていたの。」

「そんなこと…噂は噂に決まってます。棟が変われば会えないものね、今は徐庶様の元で働いてるのだけど、なんだか弟のようで可愛くて。何か言いたいことがあってももごもごと言い淀むのだもの。」

「典韋様もそういう時があるわよ。」

二人が主の話をしていると、周りの女官も自分の主はこうだああだと話を始める。

「楽進様ははっきり物をおっしゃられるけれど、やはりいつもお優しいわ。」

「楽進様の所にいるのが羨ましい!于禁様はお仕事熱心でいらっしゃるから…」

「許チョ様は外出されることが多くてお話が出来ないけれど会えば必ず甘い物をくださるのよ」

皆が話す内容はどれもすぐに想像出来るもので。やはり個性の強い軍だと思った香織は他の女官の話に聞き入った。

「人は見かけに寄らないものよね。夏侯惇様もああ見えてお優しいのよ。執務が長引くとわざわざ宿舎まで送ってくださるの。」

「そういえば香織さん、賈ク様もお優しいのね、見た目はお厳しい印象だったけれど。」

すっかり聞き側に回っていた香織へ急に話題をふられる。懐かしい情景を思い浮かべつつ、ええと答えた。香織は賈クの下にそう長くいたわけではないが、優しいという言葉に賛同出来る程には親切にされた記憶があった。

「降将だから…と思っていたけれどお優しかったわ。とても面白くて頭の良い方だもの。」

「そういえば、徐庶様はどういう方なの?」

突然口を挟んだ林杏の質問の内容によく考えてみた香織は、ここ数日で知り得た徐庶の様子を思い出した。


「偉そうじゃない、文句言わない、自立してる…頼み事はちゃんとお伺いを立てるし、今のところ一番理想的な主かもしれない…。」

そうぼそりと口にした香織を周囲はくすくすと笑った。主に対する評価としてはあまりにも酷い言いようだ。今日も明日も会うことの出来ない人々の事を思いながら、香織は野菜を干す作業を手伝っていった。










城内は静かに時が流れている。
稲穂の揺れる様子を黄色の糸で表現し、空の橙色に溶け込ませるように針を刺していった。
香織は林杏と二人、卓を挟んで向かい合っていた。二人の中に会話は多くなくどちらも贈る予定の人が戻って来るまでに仕上げたいという一心で熱中している。
どうやら今回の出兵は長期間でないらしいと女官長が教えてくれたのは今朝の事だった。まだ3か月ほどしか城を空けていないが、来月末には戻られるでしょうという具体的な話が出たという事は、勝機を得たか戦線が落ち着いた事を意味していた。

香織の針が布に潜って、玉止めされた糸は優しく切られた。ぷちん、と良い音がしたのに気付いた林杏は羨ましそうに向かいの香織を見た。

「もう少しで終わりそうね。私もあと少しだわ…早く帰ってきてくださらないかしら。」

「そうね、雪が積って足元が悪くなる前には帰還して頂きたいものよね。」


香織は祈るように布地を見下ろした。李典は見ることのなかった秋の実りの景色がそこに刺繍で描かれている。香織が窓の外へ視線をやれば、雪が降るまであと少しというところだった。
林杏は香織の優しげな視線に恋をする香織の満たされた内を読み取ってそれに満足した。初めのころに怯えた様子で勤めていた香織が、将に想いを抱きそして通じ合っている。穏やかそうな顔は当時の香織と同じ人物には思えなかった。

「ずいぶんと幸せそうね。」

林杏の声に頷いた香織は、躊躇いがちに答える。

「私、こんなに満ち足りた気持ちになれるとは思わなかったの。初めの頃は勤めを果たして早く家に戻りたくて…でもそれを変える切っ掛けくださったのは李典様だし、今こうして会いたいと思うのも李典様なのよね。」

「良いご縁に恵まれたのね。」

「えぇ。でもまだちゃんとこの思いを伝えていないから…。」

林杏はえ、と言葉につまり、香織を見れば気まずそうな顔をしている。

「色々あって関係を秘密にしているし、その…釣り合わないでしょう?だから怖いのだわ。一歩踏み出してしまえばもう戻れないような気がして。」

香織は刺繍された糸に目を向けた。黄色い糸が作り出す稲穂はたわわに実っているが、雨風に晒されて耐え凌ぐ姿を想像すれば、物悲しくもあった。

「李典様は何とおっしゃっているの?出自を理由に秘密にしたいだなんて、」

「いいえ。そういう事を気になさる方ではないから。だから、私の問題なの、よね…。」

刺繍を見つめたままつぶやく香織の思いつめた様子に、林杏は黙って見守る事にした。










李典は前方で佇む徐庶を見ていた。今回の彼の活躍は目を見張るものがある。冷たい風が辺りを一斉に撫で上げて徐庶の長い裾もひらひらと舞い上がった。長江を見下ろすことのできる絶壁で頭巾を被り一人で遠くを見渡す徐庶へと、李典はゆっくり近寄った。

「よぉ、何してんだ?」

「ああ、これは李典殿」

律儀に拱手されては答えるしかなく、李典も拱手し彼の隣に並んだ。
李典も徐庶と同様に見下ろせば、戦の後の悲惨な様子は隠されることもなく長江を赤く濁らせていた。回収されることのないまま水面に浮き上がる死体の多さに呼吸を忘れるが、水を吸って重くなった木綿の衣と共に沈んでいる死体の数はもっと多いと予想してぞっとした。

「これで勢力間の力関係は明らかになりました。もはや魏国相手に対抗する意思はなくなるはずです。」

実質的には二カ国を相手にしたと言っても良いこの戦で圧倒的勝利を収めた魏に対抗するには、相当な時間をかけて再度兵馬を育てなければいけない。孫呉はまだしも劉備にその力はなく、孫呉の政権内もおそらくは揉めているはずだ。孫呉の政権は連合政権であり、外圧を加えれば脆くも散りじりになる事は容易に予想できた。

「今後は残党狩り…って事か」

「えぇ。ですが暫くは何もないでしょう。あとは…そうですね、国内の動きに注視すべきかと。」

戦が終わるということは、国内の勢力図も入れ替わるという事で。武官中心の今の国内勢力図は文官寄りに移行して行くはずだった。

「欲擒姑縦(よくきんこしょう)、なぁ…。」

李典はいつかの言葉を思い出していた。武官の地位が低くなっていけば、机仕事にも強い己の立場は李家の中でも堅実になり意見も通りやすくなる。あの時香織の求めに応じた待ちの判断は正解だったらしい。

「李典殿?何かおっしゃいましたか。」

「いや、こっちの話。それより徐庶殿の活躍、驚いたぜぇ俺。まさか敵の軍師を前線で黙らせちまうなんて。」

「いや、俺は大した事をしていない…それよりも郭嘉殿の策が功を奏したのです。あの人は…素晴らしい才をお持ちだ。羨ましいかぎりだ。」

はは、と目深に被った頭巾の上から頭を抑え自嘲する姿は、躊躇うことなく前線へ突っ込んで行く軍師のそれとはとても思えず。

「謙遜すんなって!おっ、ピンと来た!あんたはきっとすげぇ地位を得ると思うぜ、俺!」

李典は徐庶の背中を叩いてニッと笑った。遠慮がちな笑みが返ってくるが、李典の発言は冗談ではなく勘は本心だった。

「君たちは、…とても似ているんだな。」

「……?」

「あぁ、いや…李典殿と香織殿はその、恋仲だと香織殿から聞いて。俺の知人夫婦もそうなんだ。似た者同士で助けあっていて…。さぁ、戻ろう。」

断ち切るように会話を終わらせた徐庶はくるりと後ろを向いて歩みを進めた。
李典は徐庶が香織を知っている理由が分からず首を傾げたが、陣営に戻る徐庶を無理に引き止める必要もないだろうと後ろを付いて行く。




李典はもう一つの勘を口にしないことにした。徐庶という男と自分はどこか似ていて気が合うと勘が告げている。けれど、変に意識させる必要はない気がしたのだった。



乱世は終わりを迎えようとしていた。

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