長編 魏

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李典25


朝、香織は昨日貰ったばかりの簪を手にして髪に挿した。身に着けているのは母から貰った簪を左に、李典からの贈り物である銀の簪と昨日のそれを右にの三本。
ぼんやりと写る鏡の中でやけに地味に仕上がったような気がした。仕方がないので母から貰った簪を外し、鈴麗から貰った中でそこそこ華やぎのある1本を左に挿す。


香織が宿舎から執務室のある棟へと歩いていると、やけに場内を兵士がうろうろしているのを目にした。あぁ戦が始まるのだと自然と認識できるほどに香織はこの殺伐としつつも活気のある光景を経験している。
徐庶の執務室には誰もいなかったが、先に来ていたらしい、昨日香織が片づけた竹簡の棚が動いており、そのうち1本は逆向きに収納されていた。

「あ、六韜。」

香織は懐かしい文字を見て広げた。読んだことのないそれは、武経七書のうちの一つ。
そこにあったのは六巻のうちの初めの巻。太公望が周の武王文王に兵法を説くといった様子で書かれたそれは、兵法でもあり人生の指南書でもあった。

「あぁ香織殿、早いな。」

「おはようございます。徐庶様。」

徐庶は笑顔であいさつの言葉をかけた後、香織の手元に竹簡が開かれているのを見て何を見ているのかと訝しんだ。
女官が手先となって将の情報を仕入れるのは良く使われる情報収集方法だ。魏軍に入ったばかりの自分には機密情報は流れてこないが、いつどこに相手の知りたい情報があるともしれない。
それに徐庶が噂で聞いた話では、香織は郭嘉のお気に入り。よく見れば今日身に着けている簪も中々華やかなもので、恐らくは郭嘉からの贈り物だろうと思えた。

「申し訳ありません。六韜…見た事あるものが置いてあったので、つい。」

「六韜?あぁ、そういえばそこに置いたんだった。恥ずかしいな、そんな基本書を読んでいるなんて…笑うかい。」

確かに賈クの棚でも見たそれは手を付けられる事無く置かれた綺麗な状態だった事を思い出した香織は、読むというより暗記するものなのだという事を知って感心してしまう。賈クの頭の中には入っているのだろう。

「いいえ、笑うだなんて。私も読んで良いですか?」

「もちろんだよ。それは昨日の夜に書き写したものだから俺の字だけれど、それでも良ければ。」

書き写すほど気に入っているのかと竹簡の中身を除けば、一か所だけ他よりも墨の濃くなっている部分があった。香織は疑問に思って声に出してしまう。

「善を見て怠り、時…至りて疑い、非を知りて居る?良いことだとわかっていても実行せず、好機がきても決断をためらい、悪いことだと知りながら改めようとしない…どうしてこれだけ濃く書かれているのですか?」

香織は単純に疑問に思って竹簡から顔を上げた。その視線の先には徐庶がいたが、徐庶は香織を見ていなかった。徐庶の視線は垂直に落ちているのではないかというほどだ。
徐庶の視線の先を追うと、裾の部分が解れているのを見つけてしまった。全く持って身なりを気にしないのだなと香織は一人納得した。

「ええと…なんと言えば良いかな、大事なところだと、思って…」

「大事なところ?そうなんですか?」

香織は納得していないといった風に返事をしたが深くは気にしないことにして、これから仕事が始まると思い直し手元の竹簡を丸めて棚に直した。

「徐庶様?出陣はいつになるのでしょう?裾の部分が解れていらっしゃいますから、お時間があれば縫い直しを致しますね。」

「あぁ、すまない。ええと、出陣は今晩から始まるんだ。俺も今晩出陣して布陣や船の状態を見に行くから、今から縫い直して貰えないか。急な話だけれど。」

それは急がないと、と香織は執務室を出ていった。裁縫箱を持ってくるのだと思い、徐庶は軍袍を脱いで椅子に置き、書簡の出陣の準備に取り掛かる。香織は暫くて戻ってくると、裾を繕い始めた。しんと静まる室内には外から兵の掛け声が聞こえてくる。

「そういえば徐庶様、船の様子を見るという事は、次の戦は長江で行われるのですね。」

「あぁそうだよ。魏軍はあまり水上戦の得意な軍ではないから、準備を怠らないようにしないと。」

「そうなんですか、だから早めの出立になるのですか?」

うん、と頷いた徐庶はまだ何か言いたそうにしていたが、言いにくそうに押し黙った。香織は頭を傾けて先を促すも、視線を反らされてしまう。はっきりと言えば良いのに…と思った香織はこの気持ちに覚えがあって、そういえば昨日の李典もこうだったと思い出した。
そしてそれは先ほど書かれていた六韜の大事なところとやらにぴったりと一致する。

「善を見て怠り、時至りて疑い、非を知りて居る…大事なところなのでしょう?」

香織がそう口にすると、徐庶ははぁと溜息を吐いた。これでは母上に怒られているみたいだと思ったのだが、今それを思い出すと余計に悲しくなるような気がしてやめた。

「大したことではないのだけど、俺は向こうの軍師と同門なんだ。だから、何かしら気付くことがあると思って…だから先遣隊に加わらせて貰ったんだよ。でも迷いもあって…その、仲間だったから。」

香織はあまりにも複雑な悩みに言葉をなくした。確かに同門の人間と争うのは気が引けるだろう。でも、魏軍にいる以上魏軍に尽くさなければいけないという気持ちもあるはずで。

「それでは直前まで悩みぬくしかありませんね。私に難しい事はわかりかねますけれど、悩んで決めたことがきっと正解です。」

曹魏への反逆ともいえる言葉を聞いても怒る事もなく答えた香織へ、徐庶は不思議に思った。

「君は…郭嘉殿の寵愛を受けた女官なんだろう?そんな事を言って良いのかい?」

「私が?違います。それは単なる噂で、お酒を共に飲んだだけですよ。もう、変な噂を信じる所も似てるんだから。」

香織は結んだ糸をぱちんと切って繕いを終えると、軍袍を徐庶に返した。徐庶は誰に似ているというのか興味があったが、軍袍を受け取り黙って身に着けていった。

「私は李典様と恋仲なのです。郭嘉様ではありませんから。」

「李典殿か…あぁそれなら、今日はやる事もないし李典殿の所に行ってくると良い。彼も今晩出陣なんだ。」

李典の出陣を聞いてはっとした香織の表情を見て、彼女は間諜に向かないなと徐庶は思った。もっと感情を隠せる人間でないと、身元が分かってしまう。
香織は徐庶の執務室を後にすると、李典の元へと急いだ。途中兵士と何度かすれ違ったけれど、皆忙しくしているようで香織へ視線を向けることもない。

「予感的中!絶対来ると思ってたぜ!」

李典は明るい表情で香織を迎え入れ、さっそくという風に自らは椅子へ腰かけて香織を横向きにしたまま膝の上に乗せた。香織は今夜出陣だという事を聞いた直後だからか、寂しくなって李典の背に両手を回して抱きしめた。

「ん?積極的だな、どうした。」

「今夜が出陣だそうですね。お気を付けてください。夜の外出は禁じられているので、お見送りは出来そうにありません。」

「おう、ちゃんと帰ってくるから気にすんな。俺って強いんだぜ。」

李典は普段と同じ軽口を吐いて、それから香織の髪を見れば見慣れない華やかな簪を見つけた。左側に挿されているそれを抜けば、銀の地にところどころ金が混ざっていて、高価なことが伺える。

「これが張遼に貰った奴か?」

「え?…それは鈴麗さんから頂いたものです。」

香織は李典の肩口に埋めていた顔を上げるなりそう答えた。李典の声が少しばかり低く聞こえたのは仕方ない事として聞き流した。
李典がひらひらと降るたび、先に垂れ下がった小さな玉が遠心力を受けて回転する。香織が手にしそうにないそれは鈴麗のものだったのかと納得しそうになって、引っかかった。

「いや待て、なんで鈴麗があんたに物をやるんだよ。」

「私の恰好が地味だからでしょうか…?鈴麗さんのお部屋はとても綺麗でお姫様の私室のようでした。」

香織の全く人を疑っていない言葉に、李典は嫌な予感がした。確かに地味ではあるが、それだけで贈り物などするだろうか。

「俺はあんたの方が心配だぜ。頼むから変な争いに巻き込まれたりするなよ?戦から帰ってきたのにあんたがいないなんて事になったら、どうすれば良いかわかんないぜ俺…。」

「え?き…気を付けます。」

いなくなる、という言葉はさほど非現実的な話でもなかった。城から追い出されるならまだしも殺される事だってあるのだ。
自分の地位や欲を満たすために他人の命を奪うやり方は、選択肢のうちの一つ。誰かの思惑に乗ってしまったり邪魔をしてしまったり、特に将軍職や軍師の周りは権力に縋ろうという競争が苛烈だった。
李典は香織の簪を机上に置くと、自身の胸元から別の簪を取り出した。それは地味な木製のもので、香織が母親に貰ったものよりも玉が付いていない分寂しくなるほどの品。

「笑い事じゃないぞ。俺にとってあんたは楚の西施みたいなもんだ。これをやるから、それはここに置いて行け。良いな?」

李典は厄を払うかのように鈴麗から貰ったという簪を香織から遠ざけた。過保護ではないかと思ってしまうほどの心配具合に、香織は心がじんわりと暖まるようで嬉しくなった。

「李典様、お酒の席で郭嘉様が私を王昭君になぞらえたのですが、私今、それでも良いかもしれないと思いました」

「はぁ?王昭君って最後は自害するんだぞ…って、郭嘉殿と酒飲みながらどんな話をしてんだ。」

李典は信じられないといった風に言葉を返した。実際、郭嘉は詩を好んでいるわけではない。曹操から勧められた詩を読むことはあるようだが、話で聞いた限り得意ではなさそうだった。
しかしながら王昭君になぞらえられた香織の立場は、李典から見ても王昭君の人生に近くもあり。

「私の境遇と似ているからですよ。でも、王昭君は誰にも愛されませんでしたけれど、私には李典様がいます。だから、私は出自が良くなくて困難に巻き込まれても幸せなのです。」

幸せだという香織の瞳に引き込まれるかのように、李典は香織をじっと見つめた。李典を見上げるまっすぐな瞳。李典の中から湧き上がるような熱いものが次から次へと生まれてくる。それは李典が幼い頃に町中で子犬を抱き上げた時に感じたものに似ていた。
大切に、優しく守りたい。李典の腕の中に収まり李典を信頼しきった小さな存在を、自分の中に閉じ込めて守ってやりたいと思った。
香織はそんなことを李典が考えているとも知らず、見つめ返される視線に困惑して首を傾けた。すると香織の開かれた肩口へ李典の額がぶつかって、まるで何かを我慢するかのようにきつく抱きしめられた。

「…李典様?」

「あんたほんと…、本当に好きだ。頼むぜ、俺がいない間はそこの竹簡を読んで大人しく待っててくれよな」

「…はぁ、私、六韜も読むことにしていますし、忙しくなりそうですね。」

「あぁ、兵法書でも詩でも良いから変な事に巻き込まれないよう大人しくしてろ。頼むぜ俺…」

李典はそれからしばらく香織をきつく抱きしめ、地味な簪を付けろだとか部屋も地味なままで良いだとか、香織が執務室を後にするまで、まるで香織の父親のような事を言って時を過ごした。










風向きが変わった赤壁では、魏軍と連合軍のにらみ合いが続いていた。

「敵はこの風を使ってくる。だから私たちは数で攻め込まないといけないかな。」

「ええと、郭嘉殿。お話が…。敵軍の軍師には俺の同門がいるんです。だからその、俺も先鋒に入れてください。きっと作戦を見破ってみせます。」

「徐庶殿がそういうなら、お任せしよう。」

東南の風は湿り気を帯びて暖かく、夜風の吹く秋にしてはじんわりと汗ばむ。李典は張遼に負けじと敵兵を撃つ覚悟を決めて、車旋戟を握りしめた。

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