長編 魏
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李典23
観月会とは言っても季節は夏。暗くなるにはまだまだ時間があった。
空気の乾燥していない季節の月に見応えはなく、まして中秋の名月でも満月でもない今日の月は平凡なものだった。招かれたのはいつかの庭先で、視線は月よりも庭の花へと移っていく。郭嘉しか利用できないというそこは夏の花が咲き誇っていた。
郭嘉に教えてもらったノウゼンカズラという花は香織が以前挿していたヤブカンゾウと同じ橙色をしていて庭を華やかにしていたし、遅咲きの睡蓮は今が見頃とあって手入れの行き届いた透明な池に浮かび上がっているようだった。
「うん、とても良い。香織殿、やはり女性は着飾るものだね。」
「……あまり見ないでください。お恥ずかしいです。」
「困ったね、自然と目が奪われてしまうな。」
香織が張遼に褒美として頂戴した簪は蝶を立体的に模した銀の簪だった。蝶には玉が飾られており、香織の髪で蝶が羽を休めているかのようだった。
酒の進みは緩やかだった。あまり早くに酒を進めようとすれば、香織が悲しげな顔をする。郭嘉はそれが少しおかしくて、表情の変化を楽しんだ。
香織が酌をするために手を動かせば、長めの肩掛けがきらりと光った。蒼に銀糸が織り交ぜられているそれは無地だけれども光沢がありしなやかに香織の背を覆って女性らしいたおやかな体の線を引き出していた。香織が控えるように少し離れて座った郭嘉との距離を今すぐにでも縮めたくなるほどだ。
「簪はどうしたの?初めて見るものだけれど。」
「ご褒美として張遼様に頂きました。この肩掛けは、なぜか一緒に買ってくださると言って…その時に。」
郭嘉にとって張遼は女官に贈り物をするような男には思えなかったが、なるほど意味のある贈り物である事が予想できれば、違和感も消えていった。
「あぁ、覚えているかな。前回香織殿は劉邦の一節を用いて私を張良だと例えた。蕭何は賈クでなく荀ケ殿だとね。」
「は、はい」
「では、韓信は誰だと思うのかな。あの時は聞けなかったけれど。」
「韓信…ええと…」
香織の感覚では勇猛果敢と言えば楽進、典韋という名が浮かんだが、両名とも百万の兵を用いるというよりは自ら先に突撃していくという話での勇将であった。
「わ、わかりません…夏候惇様、でしょうか…」
「あはは、難しかったかな。私はね、張遼殿かなと思うのだけれど」
張遼の名を聞いて、確かにそういった話を聞いたことがあるのを思い出した香織は、郭嘉の瞳を見て大きく頷いた。一度見た鍛錬場での様子でも一心不乱に武を競う様子は勇将のそれであった。
「降将である以上、裏切るかもしれないという心配があったわけだけど…。それもなくなって今は信頼しているんだ」
「裏切る…」
郭嘉が酒を煽り空になった盃へ香織が酒を注ぐと、生暖かい空気にふわりと風が揺らいだ。香織は自らの主がやはり信頼されていなかったのだと思い、視線を池の睡蓮へとやった。
郭嘉は隣に座る香織を横目に見た。黒い髪に留まる蝶が儚げで、暗んできた景色に飲まれてしまいそうだった。
「あなたは賈クと張遼殿の元で働いてきたわけだけれど、それに不満はあるかな。」
「不満…ですか、不安はありましたが、不満はありません」
女官の着任先を断れる事を教えられなかったりと、小さな事で不満を抱いたことはあったが主に対する不満はなかった香織は、きっぱりと否定した。
「そうか、賈クは流石というべきだ。あのね香織殿、頼みたい事があるのだけれど、あなたにはまた新しい将の下について貰いたくて。」
「は、はい。……へ?」
深刻な表情から一気に呆けた顔になった香織へ、郭嘉は耐えられないといった具合に口元を隠した。
これで三度目の移動だ。まるでたらい回しのようなそれに不満を抱かずにはいられないだろうと郭嘉が様子を伺うようにして覗き見れば、香織は未だ呆けたまま。
「あの、張遼様はどうでしょう。私、こういったお話があるとは知らず、何もお伝えしておりません…」
「あぁ、彼は良いというだろうね。その肩掛けも餞別の意味だろうし。」
香織は両手で肩掛けを握り、目をぱちくりと瞬かせた。先ほどから話に集中して酒は進んでおらず、盃は卓の上で腰を落ち着けている。
「肩掛けが餞別なのですか?」
「うん。だっておかしいでしょう。未だ慌ただしい城内で観月会だとか、張遼殿が女官に衣を送るのも腑に落ちない。」
「言われてみれば、そうですね…私何も気付きませんでした。」
あはは、とそう楽しそうに笑う郭嘉は純粋に香織の反応を楽しんでいるようだった。酒の量が過ぎているようでもなく、そこまで酔ってはいないにも関わらず楽しげだった。
「私は香織殿には酷だと思ってね。こうしてお誘いしたんだよ。」
「酷、ですか。」
「うん。私は詩に明るくないけれど。これではまるで、かの有名な王昭君のようだから。」
王昭君は西漢元帝の時代に父親の勧めで後宮入りした女性だ。親和政策の一環として野蛮な匈奴の王呼韓邪単于(こかんやぜんう)に嫁ぐ事となった哀れな女性。
選ばれた理由は実家の地位が低く、賄賂を贈れなかったために肖像画を醜く描かれたためだというのは有名な話で。
「私の父は、下級文官ですから…」
元はと言えば、香織が将に付く任を得られたのが不思議な話だった。悲しそうな顔をする香織へ、郭嘉は髪を撫で頬に手を当てて優しく包み込んだ。
「それだけではないけれど。あなたは気転の効く女性だし、賈クも私も信頼しているんだ。」
「……まぁ、嬉しいです。」
「うん。あのね、新野ではっきりと言っていたよ。あなたには期待しているって。」
まぁ、と香織は頬を染めた。それはまるで幼子が母親に褒められた時のような反応で。賈クに褒められて素直に喜ぶ人間はきっと魏国内でも香織だけだろうと思った郭嘉はまたしても静かに笑った。
賈クの狭くも深い人望が少しだけ羨ましくなった。郭嘉にとって以前は刹那を楽しむためと気にしていなかったことも、生き長らえたことによって気になり出し始めていた。
「徐庶殿に付いて貰える…かな」
「はい。私、頑張ります。」
「あぁ、とても良い。彼も軍師だから、色々と学べると思うよ。」
月が舞台袖に追いやられた観月会はその後も夜更けまで続いたのだった。
楽進は予想した通り、鍛錬場で張遼を見かけた。
「張遼殿!」
「楽進殿か、如何した。」
「恐縮ですが、香織殿はどちらに。」
突然の質問に、張遼はどう答えれば良いのかと戸惑ってしまった。香織は午前中に張遼の執務室を片づけ、午後からは新しい軍師の元へあいさつに出ているはずで。
無理に戻ってこずとも良いと告げたため、張遼の下に戻ってくるかどうかは不明だった。着任日は明日だそうだが、張遼自身の時と同じように前日から仕えることもあり得ない事ではなく。
「ん?あれは、香織殿ではありませんか?」
「……あ、あぁ。そのようだ。」
楽進の視線の先、張遼の背後の遠くで、香織が知らない男と歩いていた。鍛錬場の外に位置するそこは、許可を取れば見学をする事も可能な区域だった。
知らない男と何事かを話している香織は、張遼と楽進の存在に気付かないまま鍛錬場を後にしようとしている。
「し、失礼いたします!」
楽進は後を追うため、さっと拱手してその場を去った。風のようにいなくなった後、残された張遼は気にするほどの事でもあるまいと鍛錬に戻る事にした。
「香織殿!香織殿お待ちください!」
「あ、楽進様!徐庶様、こちらは楽進様です。魏軍の一番槍を担う方ですよ。」
「そしてこちらは徐庶様です。えっと軍師を務められる予定で…新野から魏軍に加入されたのです!」
楽進が慌てて徐庶に拱手をすれば、徐庶も拱手し深く頭を下げた。楽進が徐庶へ初めましてと声をかければ、こちらこそ初めましてと弱弱しく返ってくる。
香織の様子がいつもより楽しそうに見えて、楽進はまじまじと香織を見た。何やら普段以上に張り切っているようで声に切れがあった。まるで新兵のようだと思った楽進は、その理由を探れないでいた。
「あの、香織殿?恐縮ですがお話がありまして…」
「申し訳ありません楽進様。私は徐庶様へ城内の案内をしておりますので、要件は他の女官へお願い致します。」
「ええと、俺の方こそ後回しでも…」
きりりとした様子で断られては二の句が継げなくなった楽進は、香織が拱手して徐庶の腕を引き先へ進む姿を見送るしかなかった。
「いったいどうされたのでしょうか。」
楽進のぼやきは廊下の欄干から空高く抜けて行き、誰にも聞かれる事はなかった。
楽進が執務室に戻れば、李典は卓の上に肘を置いて頭を抱えている。何の解決も出来なかった楽進は声をかけるのに戸惑ったが、李典の方から声をかけてきた。
「ピンときた…何も得られなかったんだろ…」
「も、申し訳ありません。」
「あー。俺どうすりゃ良いんだ…何が足りなかったんだ?」
楽進に問いかけられても、楽進にこそ女心など分かりようがない。女官に相談しようにも李典と香織の交際は秘密で打ち明けることも出来そうになかった。
秘密だからこそ香織は郭嘉へと流れ、秘密だからこそ対応に苦慮する。李典は頭を掻き毟り、突如立ち上がると扉へ向かいだした。
「李典殿、どこへ行かれるのですか!」
「今日は暇だし、城下に下りてくるぜ。何か香織に渡して、もう一度話をしてみるぜ俺。」
「あの、香織殿ならば徐、…行ってしまわれました。」
李典は城下で手に入れた簪数本を香織のためにと大事に持ち帰った。しかしながら、翌日もその翌日も、香織が執務室の前を通る事はなく。
李典は日に日に焦りを覚え、ついには宿舎へ帰る道にて香織を待つことにしたのだった。