長編 魏

□22
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李典22


新野での戦況は思いの他芳しくなく。賈クと郭嘉の知恵でもって、曹仁の敷いた八門金鎖の陣へ援軍を送ることとなった。

「郭嘉殿、あまり無理をせんでくれ」

「おや、賈クにしては珍しく、心優しい女性のようなことを言うね。何処かで聞いた言葉だけど、そのお願いは聞けない…かな。」

賈クの注意を冗談で流した郭嘉は、自らも陣の中へ入ると言った。どうやら白狼山での不調はかなり良くなっているらしい。香織の心配する顔が浮かぶも、大丈夫そうだとかき消した。

「まぁいい、ここは俺に従ってもらおうか。先に向こうの知者を叩こう。これ以上撹乱させられるのは迷惑だ。」

賈クは八門金鎖の陣の入り口でそう宣言すると、曹仁のいる中央を素通りして南へ向かってしまった。曹仁の持久力は流石のもので、李典も焦ることなく救出に成功した。

李典の目の前には捉えた敵方の軍師と、その徐庶という男について話す2人がいる。夏侯惇はうんざりした表情で賈クに何かを告げると、本陣へ引いてしまった。曹操も引き入れると決断すれば後のことは部下任せだ。もはや2人の軍師によって徐庶の命運は握られているといっても相違なく、もしものために李典は2人の後ろに控えていた。

「また新入か。相変わらず、曹操軍は人材豊富だな。」

「うん、面白い。そろそろ張遼殿も皆に信を得たことだし、次の新入りが必要な頃合いだと思っていたんだ。」

2人は李典の目の前で楽しげに話をする。李典は過去を振り返った。賈クも敵軍から引き入れられた身で、郭嘉も元は袁家にいたという話を聞いたことがある。張遼は言わずもがなであって、次は目の前の男なのかと思えば、叔父の代から曹魏に使える自分は中々の古参だとむず痒くなった。それにしても自分の登用具合といえばあまり高くなく、叩き上げの楽進より低い事も合間って少し落ち込む程だ。

「そうだ、賈クはそろそろ香織殿が恋しいのではないかな。」

「何を馬鹿なことを。あれには期待している。次の新人も頼む予定だ。」

「香織殿が可哀想…かな。」

「あははぁ、案外楽しんでいそうだが。」


香織という言葉が李典の耳に入って、香織は自分をどう思っているのだろうかと頭に浮かんだ。だが、むしろ目の前で話す新参の人々と親しくなっていることを思い出した。あぁこれでは、自らの古参という価値が足を引っ張っているようではないかと思ったが、戦場においてさえ前のめりになることなく冷静な性格なのは出自の高さと安定さに起因してはなくも関係していることは確かであって、やはりその強みを活かしきれていない自身の不肖故の登用具合であると納得するに至った。

「え、……香織?」

李典はそこまで思案して、何故二人の会話に香織が出てくるのかといった疑問が浮かんだ。新野の戦場にあって香織の出る幕などないはずだった。

「李典殿?置いて行ってしまうよ?」

「あぁっ、すみません郭嘉殿、俺も行きます!」

軍師二人の会話は既に終わってしまったらしい。話の中身は気になるが、たとえ二人にはばれていても、香織と李典の関係は誰にも言っていないのだから香織の話題を問いただすわけにも行かなかった。李典が張遼の女官について詮索する資格はないのである。




魏軍は劉備を追う者と城に引き上げる者の二隊に分けるといった戦術を取った。李典は劉備を追う隊を任され、更には伏兵の任に着いた。楽進は先に行って伏兵として長坂にて待ち受けている。李典は久しぶりに2人揃っての出陣となって嬉しくなった。郭嘉と賈クは一旦引きあげる。賈クは援軍を必要とする時のために城へは帰還せずに途中で陣を張り、郭嘉は完全に城へ戻るのだ。








「あぁ、香織殿。良いところにいた。」

郭嘉は早めに帰還した割りに疲労も見えない元気な様子で、香織へと声をかけた。香織の記憶では郭嘉が城へ戻ったのは一月以上前になる。それまで会うことがなかったのはおそらく休暇を取っていたのだろうと思い、それと同時に顔色のかなり良くなった郭嘉の表情を見て嬉しくもなった。


「お久しぶりでございます郭嘉様。新野でのご活躍、お喜び申し上げます。」

香織は張遼の執務室へ戻るところだった。郭嘉は香織が両手に抱えた竹簡のうち数本を黙って取り上げ帰路を共にする意思を示して隣に並んだ。

「観月会のお誘いをしに来たんだ。7日後は如何だろう。」

「郭嘉様、お体に触りますからお酒は…」

「平気だよ。昨日も飲んだんだけれど、ね」

微笑む姿は城内のどの女性より儚く見えたが、竹簡を抱える手は男らしいそれにすっかり戻っていた。

「承知いたしました。では7日後に。」

張遼の執務室へ帰るなり郭嘉から酒宴に誘われた旨を張遼に伝えた。元々仕事を時間通りに終える張遼には伝える必要もなかったが、念のためにと予定を伝えることにした。

「そうか。郭嘉殿もだいぶ元に戻られたのだな。」

「はい。張遼様、本当にありがとうございます。」

「いや、当然の事をしたまで。」

張遼は竹簡を開きつつ答えたが、開いた竹簡には5日の後に先遣隊が帰還する旨が記されていた。つまり本隊は7日後には帰還を完了することが予想される。そのような忙しい時期に何故かという疑問が湧き、ただの観月で無いことを示していた。

「そういえば張遼様、徐庶様という方にはお会いしましたか?新野で魏軍に入られたそうですが、郭嘉様はいらっしゃるのに徐庶様にはお会い出来ていなくて。」

「いや、まだだな。どういった者なのか検討もつかん。」

張遼は二本目の竹簡を開く前に大方の予想が着いてしまった。つまりそれは香織を張遼から離し次の新入りへと付ける提案をする主席。香織の様子を見るに本人は気付いていないようだ。

「そうだ。香織殿、そなたに褒美の簪を送ろうと思っておったのだが、商人が城へ寄るのは明日のになりそうだ。この際、観月会へ向けた簪を選んではいかがか。」

「褒美…。よ、よろしいのですか?」

「あぁ、構わぬ。殿に郭嘉殿救援のお褒めの言葉を頂いたのはそなたの力添えあってこそ。遠慮はいらぬ。」

香織が城にくる商人から簪を買うのは始めてのことである。曹家御用達、といっても過言ではない商人が持ってくるものは輝かしいものばかりで、簡単に手が出せるものでもなく。観月会を理由に派手なものを付けて見るのも良いと思った香織は、嬉々として褒美を受け取ることにしたのだった。





李典は城に戻るなり香織を探していた。長坂での伏兵は成功を治め、劉備は長江を南下していった。
李典が戦で長期間城を空けたのは久しい事で、恐らくすぐにまた戦になるだろうことは勘が伝えていた。それにも関わらず、李典のささやかな願いも空しく香織の姿は見えず、探し回る前に自らの体力も限界を超えて城下の居所へ戻る事となった。
その上翌日には香織が郭嘉と月見の宴を楽しんだばかりか華やかな簪と綺麗な衣に身を包んで相当な気合の入れようだった事を女官の噂話で耳にし、一気に落ち込む事となった。

「がーくしん、もうだめだ俺。」

「何を落ち込んでいるのですか?」

噂話など全く耳に入れることがないらしい楽進へと、李典は知りえた話を全て伝えた。李典の話を聞くとすぐ、楽進は小首を傾げる。

「それはまた可笑しな話ですね。」

「だろぉ。ってか、俺聞いちまったんだよな。軍師さん達が新野で香織の話をしてるの…さ。」

「なんと…。」

負けが決するまで諦める事のない楽進にも分かってしまうほどの圧倒的劣勢だった。曹操の寵を得る郭嘉と、後を継いだ形で使える李典。
他の軍では仕える帰還が長ければ長いほど優遇される地位も、魏軍では少し異なる。

「このままではダメです。香織殿が心変わりした理由を聞いてみましょう!」

「振られる前提じゃないかよ俺…」

「李典殿はこちらでお待ちください。」


楽進は気合を入れて執務室を出ると、香織を探すために張遼のいるだろう鍛錬場へ向かったのだった。

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