長編 魏

□21
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李典 21

城詰めの人々が増えてから数日が経っていた。鈴麗も実家から戻り職務に当たっている。香織は李典から貰った簪を付けているため、なるべく彼女と合わないようにと気を使っていたが、運良く会うことなく仕事を進めていた。しかしながら李典と会うこともなく、香織はふとした瞬間に寂しくなることが増えて、一日一日がやけに長く感じられた。一日千秋という言葉が頭の隅に浮かんだが、こういう意味なのかどうかはもはや調べようもない。




少し先に帰ってくる一団があると聞いて、まさかと思った香織ははらはらとしていた。あのかさつきやつれた手の甲が気になって仕方が無い。まだかまだかと帰りを待つ内に何故だか周りには張遼の帰りを待っているのだと思われたが香織が心配している相手はその人ではなかった。

普段使うことのない正門を潜り抜けた一団を目にした香織は、出迎えの人混みの中じっと目的の人物を見た。金に輝く髪に気品溢れる装束のその人は、優雅に馬に跨っている。あぁ良かった無事だったのだと思えば、郭嘉が馬を降りる前に人混みを抜けて城の中へ戻った。城に戻れば大丈夫だろう。苦い薬を飲み毎日眠ればきっと元気になるはずだと、こみ上げてくる涙を堪えて思った。張遼は恐らく後続の部隊か、もしかするとまた殿を勤めるかもしれない。香織は再び雑務が山のように積み上がっているはずの女官長の元へ足を運び、指示を仰ぐのだった。






それから十日もしないうちに張遼が帰還した。大した怪我もなく変わらぬ姿に安堵していると、戦場での郭嘉の体調はやはり良くなかったという。自らの事だけでなく郭嘉の事にもよくよく気を配ってくれたのだと思うと嬉しくなって、香織は何度も何度も礼を言った。



「お久しぶりです郭嘉様。お加減は如何でしょうか。」

「あぁ、香織殿。調子は良いよ。数日休ませて貰ったから、もう仕事だって出来るのに…中々やらせて貰えなくて退屈してるくらいだ。」

香織が張遼からの報告書を郭嘉の元へ運べば、一人窓辺の卓で寛ぐ姿があった。どうやら他の者は別のところに出てしまったらしい。

「急ぎではないそうです。まだゆるりとお休みください。」

香織は竹簡を手渡しつつ、その手をちらりと盗み見た。いくらか健康的になったようで、血色が良くなっている。関節の目立った手も少しばかり丸みを帯びて、武人の手まではいかずとも若い男性らしいそれに近づいて来ていた。

「あぁ、やはりあなたか。」

「え、」

「張遼殿と私は殆ど関わりがない。それなのに白狼山では真っ先に彼が駆け付けてくれてね。行軍の最中に失態を犯したわけでもないのに、おかしいと思ったんだ。貴方が張遼殿に私の不調を伝えた…そうだね?」

郭嘉の読みには寸分の狂いもなかった。まさか竹簡を渡す自分の視線さえも観察されてるとは思わず、香織は体が硬直してしまいなかなか返事を出来ないでいた。

「あ、の、…申し訳ありません。」

「いや、謝ることではないよ。人生は思い通りにならないことばかりだ。貴方のおかげで私も荊州に出陣できるのだから、感謝しているんだよ。」

「あの、お言葉ですが、また出陣されるのですか?荊州…次は南方なのですね。」

香織が思い描いた地図は大雑把な物で、先日の白狼山が北東にあり荊州が南西あたりだという程度だった。それでもよく分かるのは、正反対の方角で距離もあること。まるで療養する気のないその計画に香織は不安になる。折角の療養期間だというのに、これでは出陣前に鋭気を養っただけだ。

「声東撃西と言うでしょう。白狼山の直後に荊州を攻めるとは劉備も想像しないはずだ。それに、劉備を荊州で野放しにするのは良くないと思ってね。…どうしてか分かるかな?」

「いえ、」

「荊州には知恵物が多い、といえば良いかな?」

「……智を得て増長する前に正面から撃つのですね。分断が必要な兵力になる前に。」

笑みを浮かべた郭嘉はとても楽しげで。新野から戻った暁にはまた観月会を開こうかなどと軽口を吐く始末。これは何を言っても療養など無理だと思った香織は早々にその場を辞した。新野に出陣する将が誰なのか分かり次第郭嘉の体調を気にするように伝えたいがそこまでしても良いものかと自制を考える自分もいて。香織は悩んだ結果李典の室へと寄り道をする事にした。

「李典様、香織です。あの、お話が。」

返事がない扉を開けるのに戸惑っていると、重たい音をたてて扉が開いた。扉の先にいるのは李典ではなく、香織がよく見知っている賈クの姿がある。

「おや、これはお邪魔かな。」

「賈ク様。お久しぶりです。あの、李典様は、」

ひょこっと音がするかのような動作で扉から顔を覗からせれば、李典は部屋の奥にいた。特に機嫌が悪そうでもないが、良くない時に来てしまったと帰るための口上を考え出した香織へ賈クが救いの手を差し伸べた。

「急いで来たんだろう。入るといい。俺の用事は終わったから帰るつもりだ。」

「あの、急いでいたわけでは、でもあの、その、新野には賈ク様もお出になるのでしょうか。」

こそこそと問いかけた香織にどこからそんな情報を…と、賈クは驚き香織を扉の内側へ招き入れた。新野への出陣は先方の曹仁に任せており、ここに来て曹操が出陣する事は決まったばかり。たった今李典へ出陣の命令を伝えに来たばかりで、これからすぐに準備に取り掛かり数日後に出陣の予定だった。

「誰から聞いた。」

「郭嘉様からです。あの、私、郭嘉様のお身体が心配で、私…」

「…張遼殿に郭嘉殿の体調を伝えたのはあんただな?」

賈クは一を聞いて十を知る男だった。香織は張遼の名前さえ出していないのに全てを理解して納得したように問いかけた。こくりと頷き、香織は李典へと気まずい視線を流す。できればこの部屋でその名前を声には出したくなかった。

「なるほど…あんたを張遼に付けたのが思わぬところで功を奏したってわけだ。」

「はぁ…」

「いや、分かった。郭嘉殿の体調は俺たちも気を配ろうと思っていたところだ。それでは俺は失礼する。」

香織は気まずい気分のまま取り残された。賈クは扉の向こうに消え、室内にはまだ一言も言葉を発してない李典がいる。

「あの、李典様」

「あー。大丈夫だと思うぜ。」

思いの他落ち着いた声が投げかけられて、香織は少しずつ歩み寄った。張遼の名前が出た割には不機嫌ではないらしい。

「俺の勘だけどな。大丈夫だろう。用心するに越したことはないから、郭嘉殿の事はよく見ておく。」

「ありがとうございます!」

寄り道して良かったと、香織は李典の元へと駆けて胸にしがみついた。久しぶりの抱擁は覚えているままの香りがして、前回の出陣で渡したお守りの香りも仄かにしてきた。

「また御守りを作りましょうか。中身を入れ替えて香りを新しくしますね。」

「あー、それは困る。このままで良いぜ。」

「困る?どうしてですか。なくされたわけではないですよね?」

すんすんと匂いの元をたどれば李典の左胸から香りがしてくる。間違いなくそこにある御守りを鎧越しにじっと見れば、李典は視線を逸らしながらそれを胸元から出した。

「あ、開けてしまったのですか!」

糸で閉じていたはずの御守りの上辺は綺麗に開けられていた。中身の種子は別布で包まれているが、布に書いた詩は御守りのすぐに内側に入れた事を香織は思い出した。

「いや、ほら…最近中々会えなかっただろ、ちょーっと間がさして開いちまった…」

「酷いです…封された中を見るなんて。恥ずかしいから念入りに封をしましたのに!」

「すまなかった…って、でもこんな風に思ってくれてたって知ったら嬉しくなったぜ、俺…」

李典は香織の髪へ口付けた。

「詩はそのままの意味ではなく、大切な人を戦場に送るという意味で書き写したのですよ。」

「戦場の夫君を思う妻の気持ちに似てるって事か。…俺たち結構前から通じてたんだな。」

李典は勝ち誇ったような顔でそう言い、香織の額にも口付けた。
香織は額を抑えて顔を赤くし、睨みつけるように李典を見上げたがまるで気にしていない様子であった。鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気に、戦場で油断すると死を招きますよと精一杯の捨て台詞を吐いて、香織は逃げるようにその場を後にした。




曹操を初めとした大群が新野へ向かったのは、その数日後のことであった。

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