長編 魏

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李典20

生花を渡すためとして毎日執務室へ通わせることに成功した李典は、次の日もその次の日も生花を香織の髪へ挿した。軍師の元で色々と知恵を付けたはずなのに、どこか抜けているのか何の疑いもなく花を受け取りに来る香織が愛おしい。香織の白い肌に橙色の花は良く似合い、血色を良く見せあどけなさを引き立てると共に、少し大人しすぎる印象を見事に補っていた。香織の心からの笑顔が李典の前で披露されていない事は父親と再開した時の香織を思い出せば分かることで、隠されるものこそ見たくなる心理は李典の心中に根ざしていった。無理に見られるものではないそれが高価な宝玉に勝るとも劣らないように思えてくるのは香織への愛ゆえだろうと、李典は花器に挿された花を見て1人笑う。

花は夜の間に城門付近で採取して水に浸しておけば良く、簡単な事だった。藪萱草(ヤブカンゾウ)の花言葉は悲しみを忘れるとも憂いを忘れるとも言い、香織の中にあるものを取り除く意味も込めての選択だった。

「まさか家族絡みとはなぁ。先は長いぜ俺。」

先日耳元で聞こえた將仲子の一節が香織の本心である事は間違いない。棚から詩経の一巻きを取り出せば、そこには詩の全文が載っている。鈴麗に言われた内容も恐らくは家や立場に関するもので有ることは容易に想像出来た。すぐに解決出来る話ではない事は百も承知だが、分かっているからこそもどかしい。






久しぶりに付けた銀の簪は当然生花よりも重く、香織には違和感があった。李典に正直な感想を述べれば、重さに慣れるしかないと苦笑いされ、ありがとうございますという礼に李典は頭をかいて答えた。どうやら恥ずかしいと頭をかく癖があるらしいとはここ一ヶ月で学んだ情報であって、香織はたまにわざと困らせることを言っては反応を見て楽しんでいた。

「なぁ、簪を付けてさらに花も付けるってのはどうよ?」

「それはいくらなんでも派手すぎます。仕事中なのですから。」

「良いだろ〜。口煩い奴もいねぇし、皆それなりに羽伸ばしてるじゃねーか。」

「だめです。皆がしていても私はしません。」

鏡を覗く香織の腰掛けている椅子の背もたれへ、李典は両肘をついた。手に顎を乗せ前かがみになって香織の後頭部へと声をかければ、手厳しい返答が待っていた。

「相変わらず硬い奴だなぁ。あんた、于禁殿の女官もやっていけるぜ、保証する」

「于禁様の女官になりましたら、こうして毎日お会いすることもなくなりますね。」

香織が少し唇を突き出してそう言ったのを目にした李典は、数日のうちに縮まった距離を嬉しく思った。数日に一度の逢瀬を毎日へと変えるには、毎日会う習慣を作るしかなく、生花の効果はなかなかのようだ。

「白狼山の戦況がいよいよ決しようとしてるって伝令が今朝きたばかりだ。この日々もそのうち終わっちまうな。」

「左様でございますか……。…では、あの、休みを取っている城詰めの人数が増えるまで、毎日通ってもよろしいでしょうか…。」

城詰めの人数が増えれば鈴麗もまた戻ってくる。戦へ出ている者達の帰還よりも早くにこの日々が終わるのは必然だった。

香織は後ろを振り向いて、様子を伺いつつ小さな声で提案した。毎日会っていては李典の仕事に支障をきたす可能性もあるが、李典の場合少々の無理をしても拒否することはないだろうと香織は思っていた。香織が毎日通いたいと望むことは、李典の仕事時間を増やすことに他ならない。ただ、毎日同じ時間を過ごす生活を手放したくないのも事実であった。生花を貰うためと言い訳をして通った3日間は、自制心を容易く崩していった。朝起きて仕事に赴き、合間に李典と時を過ごす。そして日が暮れ、夜を迎える。その流れを明日から変える自信が無かった。

「もちろんいいぜ。じゃあ花もついでに、」

「もうっ、お花はいけません。」

再び鏡へと向いてしまった香織へ、李典は鏡越しに笑いかける。曇った鏡越しでは分かるはずのない香織の表情が、なぜか分かる気がした。照れて嬉しそうにしている鏡越しの香織に目を奪われ、後ろから恐る恐る肩に腕を回せば拒否される素振りはない。椅子の背もたれが理性の関門となり変な気にはならなくとも、一呼吸毎に感じる香織の匂いに酔いしれている自分がいた。








それからも共に書を読む毎日の逢瀬は続いた。
香織は背中に感じる李典の温もりに自然と口角をあげた。書を読んだ後、椅子に腰掛けた李典に抱きかかえられるようにして座り時を過ごすのが唯一の変化だった。後ろから抱き込むように抱えられた李典の腕は、香織の前で緩く握られている。最初こそ緊張で硬くなっていた香織も、今はこの場所に居心地の良ささえ感じている。

「明日からは暫くお会い出来なくなりますね」

「そうだな…あー、いっそ俺から配属願いでも出すか…。」

「いけません。公私混同はよくありません。」

「…あんたはそういう奴だよなぁ。楽進といい勝負だぜ。」

李典は深いため息を吐いたあと、香織の肩口へ額を当てた。李典の触れることが出来る現時点での極致。明日からの事を考えれば気が重かったが、諦めるしかなかった。

「全くお会い出来なくなるわけでもありませんし、ね」

香織の寂しげな声が李典の間近で聞こえ、李典は答えるように額を肩へ擦り付けた。

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