長編 魏

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お慕いしておりますの一言は香織自らの口から出た言葉。その言葉は頭で考えたものではなく、どちらかといえば反射的に出た言葉であった。けれど、香織の読む詩に描かれているような、心を締め付けるような思いや相手のために人生を掛けたくなるような熱は未だ感じていなかった。



李典との隠れた逢瀬は数日に一度の間隔が定着した。やる事といえば今までと変わらず、共に書を読む事だった。香織の右肩に背の高い李典の左腕が当たる。執務室の卓に並んで座り、それぞれの気に入った書を読んだ。香織のお気に入りである詩経は李典の執務室にあり、共に書を読む時は詩経を借りることが多かった。一月はこうした逢瀬を重ねているが、張遼は香織が何をしているのか気にしていないようだ。今日も朝から日が暮れるまでは鍛錬場にいる予定であった。

「李典様、私はそろそろ戻ります」

「ああ、またな。」

香織の声に顔をあげた李典はふわりと笑って見送ろうとして、そういえばと竹簡を渡してきた。

「今日は郭嘉殿のところに持っていく物しかないぞ。平気か?」

「はい。ありがとうございます。」

関係を怪しまれないように、李典の室から出る時はなるべく竹簡を持って出ることにしていた。数本をまとめて預かる事もあれば、一本だけのこともある。




「郭嘉様への竹簡をお持ち致しました。」

「あぁ、これはこれは香織殿。」

珍しくも郭嘉が1人きりで執務室にいた。扉を開けた瞬間に目的の人がいて、香織は肩をなでおろした。それは鈴麗でなくて良かったという安堵感。

「お久しぶりでございます。こちらは李典様からの竹簡でございます。」

「あぁ、ありがとう。」

差し出された竹簡を受け取る手に目が釘付けになった香織は、郭嘉の目を見ることが出来ないでいた。香織は自身に置き換えた。どんなに食事制限をしても、短期間であそこまで痩せることは出来るだろうか。節くれだった手の甲。以前酒を共にした時はもっと綺麗な手をしていたはずで、綺麗だった爪には縦にヒビが入っていた。

「張遼殿との仕事は慣れたかな?」

「はい。とてもお優しく、働きがいもあります。」

「そうか、それは良かった。」

郭嘉の笑顔や優しい言葉は以前と変わらず。やっとの思いで上げた視線に写った表情からは体調の悪さだとか熱っぽさだとかは見て取れない。しかし、あまりにも酷い手の荒れ方は香織の脳裏に焼き付いていた。



「白狼山…ですか。初めて聞く地名です。」

「うむ。あまり人の住むこともない山奥だ。出陣は少し先のこと故、急ぐ話ではないが…部隊を任された。暫く仕事が増えるやもしれぬ。」

「はい…あ、あの。その戦、郭嘉様も出陣なさるのでしょうか。」

張遼の話を聞いて伝えるなら今だと思った香織は、郭嘉の手の事を張遼に話した。手が荒れている、それだけの話ではあまり効果がないように見えたが、張遼は最後まで香織の話に耳を傾けた。

「軍師殿も武人。故に体調を他人に心配されるのは不本意であろうな…だが無視も出来ぬ。注視しておこう。」

張遼はそういって騎兵部隊の調整に取り掛かった。書簡でのやり取りは道のりの確認、席を外せば部隊との連絡に奔走している。白狼山は袁家との最後の戦いだった。とどめを刺す時はとことんやり尽くす。禍根を残すことは許されない。


そうして出立の日は迫り、張遼を初めとした多くの兵は許昌を離れていった。






「失礼いたします。李典様、…あら。」


机に伏して眠る李典は今回城の守りを命じられている。昨日は遅くまで城内警備の配置を見直していたらしかった。香織は仮眠用の寝台から掛け布を取り李典の元へと静かに歩み寄ると、起こさないように気をつけながら肩へかけた。自らはその隣へ腰掛け、ふわふわの髪へと手を当てた。撫でるように手を動かせば、うぅ、と息が漏れる。すやすやと眠る男が一軍の将だとはとても思えず。香織も同じく伏して、外から差し込む陽の温もりを背中に受けつつ顔を李典へと向ければ、穏やかに呼吸を繰り返す姿が陽の光に溶け出すかのように馴染んでいる。暖かく、幸せだ。まるで国が出陣の最中にあるとは思えない雰囲気に、香織は二人だけの世界にいるようだと思った。二人だけの世界であれば、周りを気にして会う必要もなく、香織の胸に燻る気持ちももっと愛として育つはずだった。しかし、どこかで家族や自らの役目が気になっている。優しくて、一緒にいると楽しい人という認識から抜け出し相手を求める事が恐ろしくなっていた。李典を見れば暖かく幸せな気持ちになれるのに、愛しさに浸りきれない自分も確かに存在する。香織は最も自分の内心を詠んだ詩があるのを思い出し、唱えるように口にした。

「將ふ仲子
我が園を踰ゆる無かれ
我が樹ゑし檀を折ること無かれ
豈に敢へて之を愛しまんや

人の言多きを畏るるなり
仲も懷ふ可きなれど
人の言多きも
亦た畏る可きなり」

(お願いですからあなた、わたしのところの庭園に来ないでください、わたしが植えたマユミの枝を折らないでください、でもそれを惜しんでいるわけではありません

わたしは人々の噂を恐れているのです、あなたのことも勿論思っていますが、人々の噂もまた、気になるのです 詩経国風 : 將仲子)

人は自分の気持ちだけで生きてはいけない。大切にしたい家族がいて、仲を壊したくない友人がいて。そうして過ごす毎日の中で自由を請い憧れるのだ。しかし、どんなに自由を請うても、1番大事なのは家族や友人。香織はそれらを捨てて愛に生きる自由を選ぼうとは思わなかった。

香織は李典の髪から手を離し、突っ伏していた体を起こした。椅子の背もたれに背を預けた瞬間、李典がこちらを向いて、香織と視線を合わせ口を開いた。

「 兼葭蒼蒼たり
  白露霜と為る
  所謂伊(こ)の人
  水の一方に在り
  溯して之に從はんとすれば
  道阻にして且つ長し
  溯游して之に從はんとすれば
  宛として水の中央に在り」

(葦が青々と茂り、白い露が霜になった、評判のこの人は、河の向こう側に住んでいる、河の流れに逆らって訪ねたいと思っても、水路は険しくかつ長い、河の流れに従って訪ねたいと思っても、なかなか行き着かず河の中ほどでうろうろするばかり 詩経国風 : 蒹葭)


李典の口から出た詩は、香織の詠んだ詩と同じ詩経の中のひとつ。評判の娘に会いたいけれど会えない男の切ない思いを詠んだ詩。もどかしい気持ちが痛いほど伝わる詩だった。

「…よく寝たなぁ俺。徹夜明けにこの日差しはこたえるぜ。」

「ふふ、ぐっすり寝ていらっしゃいましたね。」

李典も香織も何事もなかったかのように取り繕った。李典は立ち上がり棚の花瓶に挿された花を一輪手にした。

「そうだ、これ。」

「…花、」

「あんたに渡した簪…先を修理するから借りてるだろ?それまではこれで。」

李典が香織の結い上げられた髪に手を伸ばし、左耳のすぐ上へ花を挿した。ふわりと花の香りが漂ったかと思えば、近くに寄った李典の焚き染めている香の香りもする。

「明日の分はまた明日な。」

「明日も頂けるのですか。」

「おう。明後日出来上がるから、明後日まではそれで我慢してくれ。」

それと言われ、耳元の花へ手を伸ばせばかすかに橙の花びらがゆれた。生花など、身に付けるのはいつぶりだろうか。妹と散歩した時が最後かもしれなかった。自然と零れる香織の笑みに、李典は嬉しくなった。

「落とさないように気をつけます。ではそろそろ、失礼致します。」

生花を髪飾りにするのは派手なのではないかと廊下を歩きつつ香織はふと思ったが、于禁の不在にかこつけて皆思い思いに着飾っていることも事実であり浮くことはなさそうだった。


「あら、可愛いわね。」

「…林杏!」

香織は後ろからかけられた声にひやりとした。今日は竹簡を持たず、その上髪に花までつけて李典の室から出てきたとあれば、怪しまれるのは確実であった。現に林杏も香織が出てきた李典の室の扉へ目をやり、ニヤリとした。他人の恋ほど面白い話はない。あぁ、質問攻めは確実だと身構えた香織へ、思わぬ言葉がかけられた。

「何か悲しいことでもあったの?藪萱草なんて付けて。」

「いいえ、どうしてそう思うの」

悲しいというより嬉しい気分だった香織は純粋に分からなかった。どこにも悲しみを感じてはいない。

「藪萱草の花言葉は悲しみを忘れるというのよ。物を忘れてしまうほど美しい花だから…だったかしら。」

「そうなの?でも、特に悲しいことはないわ。」

「そうみたいね。」

再び李典の室を振り返り、林杏は小さく笑った。良い関係なのは知っていただろうが、逢引するまでとは予想していなかったらしい。甘い話などなく、聞かれても話す事がなくて困ると香織は視線を避けて廊下を歩き出した。

「仲良くするなら今よ。鈴麗は実家に帰っているみたいだし。人が少ない分噂も立ちにくいでしょうしね。」

林杏はどうやら、冷やかす気は無いらしい。自らの恋を実らせた林杏には、香織の恋をからかうほどの暇がないようだ。今度共に贈り物の刺繍を作る約束をして、2人はそれぞれの行き先へと別れた。

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