長編 魏

□18
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李典18


翌朝、二日酔いで重い頭を揺らされつつ馬に乗り遅い登城をした李典は、馬屋を出て暫く歩き、自らの室を目指していた。すると、賑わう一角があった。張遼が戻ったようだとは、特徴的な帽子ですぐに分かる。辺りを探せば香織の姿は張遼のすぐ後ろにあり李典の眉間に皺がよった。だめだと思いつつも視線を逸らすことが出来ず、遠巻きから二人を見ていると香織の少し先を歩き出した張遼が思い出したかのように香織を振り返った。
何かを話し香織の髪に張遼が手を当てて、手を離せばそこには光る何か。 香織の表情は伺えなかったが、嬉しそうにしていると李典には見えた。

「不愉快なものを見ちまったぜ俺ぇ」

男は度胸。そう朝から何度も唱えて香織と話す気持ちを高めていた李典には不愉快な光景であった。
再び視線を向ければ、張遼は報告に行くのだろうか、香織をおいて城の奥へと1人歩みを進めている。
香織は見送るためその場に留まり、ぼんやりとしていた。今しかないと思った李典は、急いで反対の棟に駆け寄り、廊下の手すりを飛び越えて香織の前に着地すると、香織の腕を握った。

「話がある。時間はあるよな。」

「り、李典様」

「時間、あるよな。」

香織は驚いて声を失うと、李典の押しに飲まれるように数回首を縦に振った。香織が首を振るたびに、挿したばかりの簪が不安定に揺れて李典には目障りだった。
共に歩いていながらも内心は引き摺られているような気分で、香織は李典の執務室へと入った。
しんとした執務室内は2人きりのようだ。李典は香織の背後に回り扉の前へ立って退路を経つと、寝る前に何度も練習した言葉を口にした。

「昨日…。あー、俺が簪を投げ捨てた事を謝りたいんだ。すまなかった」

「良いのです。お気になさらないでください。」

香織の声は震えている。李典はその反応を見ていたくなくて、言葉をかぶせる様に続けた。

「いーや、謝らせてくれ。張遼の事は俺の問題であってあんたにどうこう言うことじゃなかった。それにだな、あー…俺の気持ち、分かるだろ?」

「李典様のお気持ち…、ですか。」

香織は首を傾けさっぱりですといった具合に李典を見上げた。
李典はその反応を見て全身から力が抜けた気がした。官渡出陣直前に簪を送った時の李典の緊張たるや初陣の様相を呈していたというのに、これでは肩透かしも良いところだ。
李典は裏切られる以前に何も始まっていなかったことを知り、扉の前にしゃがみこんで頭を掻いた。

「李典様、あの、私…」

「あー、いやいい。…あんたは俺の予感の話を知ってるよな。」

「は、はい。」

香織から、はいという答えが降ってきて少しだけ救われた様な気持ちになった李典は、男は度胸…と本日何度目かの独り言を心の中で呟いた。

「その予感によるとな、俺とあんたはうまくいく気がするんだ。実際、良い感じだっただろ、俺たち。」

「李典様、あの、まさか…」

上ずった香織の声に再び顔をあげれば、顔を赤くして信じられないと言った具合に視線を彷徨わせている。口元に添えた手が思いの他小さくて握りたい、と不埒な事まで考えてしまった。これでやっと伝わったのかと李典は一安心しかけたが、肝心な事を言い忘れたと勢い良く立ち上がった。

「あいつの事だけどな、あの女…なんつったか…」

「鈴麗さん…でしょうか。」

香織がまっすぐ視線を合わせて問うた。その堂々とした様子に、鈴麗は関係ないのかとの考えが過ぎったが、ひしひしと迫るような自分の予感を信じることにした。

「あぁ、そいつだ。あいつ…あんたに何を言ったのかは知らねーけどな、気にすんな。俺があいつに惹かれたことなんて一度もない。」

真面目な顔をして真剣に話す李典の言葉は香織の心にまっすぐ突き刺さった。あいつに惹かれたことはない…つまり香織には惹かれているということだ。それは鈴麗の言葉で萎縮した香織の気持ちを解き放つに充分な言葉で。

「あの、ありがとうございます。李典様。」

「鈴麗は配置換えでもして二度とあんたを傷つけないようにする。本気だぜ俺。」

李典はそう言って冷酷な表情を見せた。香織はその雰囲気にひやりとして両手を握ると、懇願するように言葉を吐いた。

「お待ちください!どうかそのようなことはなさらないでください。」

「でも、あんたが嫌な目に合うのは嫌だぜ俺」

李典の冷たい瞳が香織へと降りてくる。これが敵を見る将の視線なのだろうかと思うほど鋭いそれは香織の恐怖心を煽っていたが李典はそれに気付かない。


「ですが、よ、欲擒姑縦(よくきんこしょう)と言いますとおり、相手を追い詰めすぎるのは……、その、今すぐ配置換えをされるのは尚早かと。」

「まぁ……そうだな。窮鼠猫を噛むって奴になっても困る。」

李典は前のめりになっていた自分が恥ずかしくなってがしがしと頭を掻いた。香織の発言はもっともだった。確かに鈴麗は李家にとって良い縁談相手で、香織が現れなければ娶っていた可能性もあるほど。今すぐ家同士の交渉に持ち込まれ、香織と鈴麗が李家の天秤にかけられるようなことがあれば、若い自分の意見など受け入れられずに鈴麗と婚姻することになるだろう。

「情けねぇぜ俺……。」

家に対してもっと発言力があれば、すぐにでも鈴麗を香織の前から取り除く事が出来たと思えば、年長者に依存してきた今までの家内運営を後悔した。

「そうだ、あんたは俺のことどう思ってんだ。俺としては嫌な予感はしないけどな…だろ?」

上から降りてくる視線は自信に溢れていた。感というのは厄介なものだと香織は目尻を下げ、こくんと1度頷いてお慕いしておりますと言えば、ふわりと体が浮き上がり李典の癖の強い髪が顔の真横にあった。

「これで晴れて両想いって奴だな!」

嬉しそうにそう言った李典の髪へ額を当てて同意を示すと、香織はですが、と口を開いた。まさかの否定を意味する言に訝しんだ李典は、香織の体を抱き上げたまま顔を覗き込むと先を促した。

「どうか私たちの関係は内密にしていただけませんか。」

「な、何でだよ。」

「職務に専念するためです。」

香織の言にはいくらかの嘘があった。職務に専念とは表向きの理由で、本当の理由は関係が壊れた時の
予防線。自分が傷付くだけならまだしも両親や弟妹へ被害が及ぶような事は避けたかった。家族への被害は李典がどうこうするのではない、周りが貶めるものだ。

「わ、分かったぜ。まったくあんたは真面目だな!」

李典は何も疑わず、香織の言葉を信じた。こうして2人の密やかな関係は始まったのだった。

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