長編 魏

□17
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李典17

香織は翌日、早速簪を付けることにした。
二本目の簪を髪に挿せば、確かに華やかな気分になる。

「今日は騎兵部隊の調練へ行く故、明日まで城へは戻らぬ。」

「承知致しました。お怪我などなさらないで下さい。」

香織が答えると、張遼はハッとしたように目を香織の髪へ移した。

「初めて見る飾りだな。そなたはもう少し華やかでも良いと思っておったのだ。とても似合っている。」

「まぁ、ありがとうございます。」

香織は張遼のこういうところを気に入っていた。寡黙で武人然としているが、褒める時はまっすぐに褒める。その言葉に偽りや脚色はなく。

「では、行って参る」

張遼の背へと供手した香織はしばらくその場でぼんやりとしていた。
こうして急に城を出られると、何をしようかと考える必要があるのだった。基本は将に付き従っているのが女官の仕事のため、ぽっかりと穴が空いたようにやることがなくなってしまうのだ。

「女官長の所へ行けば何かあるわよね。」

香織はそう言って張遼の室を出ると、南へ向かい女官長の部屋がある棟を目指した。




李典は朝から落ち着きがなかった。
今日こそは香織に何を考えているのか問いただすのだ。手に汗握るという言葉があるが、握らなくても汗が出ているのが分かった。
運良く今日は張遼が演習で外出するという。昼に出かけて戻ってくるのは明日。目的は夜間の騎兵訓練だろう。ご苦労な事だと思い、そろそろ香織が執務室の前を通ると睨んで扉を開けた。

「感が冴えてるぜぇ俺。」

測ったように北側から香織が歩いてくる。庭を眺めつつ静かに歩く姿は李典の元へいた頃と変わらなかった。李典の勧めで詩を読むようになった香織は、季節の移ろいや草花の儚さを今まで以上に深く感じられるとよろこんで報告してくれたのだ。

「なぁ、ちょっと話さないか。」

「李典様、」

スッと逸らされた視線に、朝から続く嫌な予感が現実味を帯びて来た。
自分の室では流石に怯えさせると思い、いつもの四阿へと向かう。香織は静かに後を歩いてきた。

「な、何用でしょうか」

「その簪、まだ使ってくれてるんだな。」

はい、と気まずげに簪を触る香織は昨日の会話を聞かれたとは思っていないようだ。盗み聞きがバレてはこちらの印象が悪くなると、李典は安堵した。

「あんた、なんで張遼の所にいるんだよ」

「賈ク様から言われたのです。任命されれば行かずにはおれません。」

「そうか…自分で行ったわけでは無いんだな。」

「はい、ですがとても素敵な方ですね。張遼様は。」

李典の前で張遼を褒める香織は、はにかむような笑顔で。彼女が幸せそうに働いているのは良いことのはずなのに、相手が張遼であることを考えると許せなかった。

「でも、注意しろよな。呂布の元にいたんだ、何を考えてるかわかったもんじゃねぇぜ。」

「はい、ですが張遼様は別です。書にご興味もおありのようですし、木蓮の音を聞いた事が無いと申しましたら、いつか私を邸に招いてくださると張遼様が。」

「あんた、平和ボケすんのも大概にしておけよ。」

李典の中で何かが切れる音がした。

「呂布の元にいた張遼だぞ、警戒してもし過ぎることはないだろ。それを邸に呼ばれたと喜ぶなんてな、そんなに軽薄な奴だったとは思わなかったぜ。」

「李典様も張遼様を信頼していらっしゃらないのですね…。」

香織の悲しむような表情。両手を前で強く握る仕草は、拒絶の心理を表している。

「あたりまえだぜ。呂布と共に好き勝手してた奴、そんなすぐに信じられるわけ、」

「この乱世では敵方が味方になることもあると教えてくださったのは李典様ですよ!」

香織の叫ぶような発言には李典を責める意図があった。まるで張遼の肩を持つかのようなそれに、李典は我慢ならず。

「そうかよ。そこまで言うのならもう、話すことはねぇな。」

香織の髪へ手を伸ばすと、簪を抜き取って四阿の床へ投げ捨てた。何かが欠ける音がしたのを聞くと、李典は香織との関係に一区切り付けられた気がした。きっとそれは、李典だけが感じていた一方的な関係で。




李典が大股で四阿の階段を降りて行くのを見ていた香織は、思い出したかのように涙が溢れ出て来た。

「っ…」

拭っても拭いきれないそれを半ば諦めて、床に叩きつけられた簪を拾い上げると髪に刺す方の先端が欠けている。幸運にも玉は無事らしかった。

信じられない事だが、軽薄な人間だと蔑まれた気もする。今だ整理のつかない頭でぼんやりとしたまま張遼の執務室へ向かっていると、途中の室の扉が開き、その先には楽進がいた。

「香織殿!いったいどうされたのです。」

「楽進様……」

楽進のまっすぐに心配する様子は今の香織にとって暖かすぎるもので。
再び溢れ出した涙を拭っていると手首を掴まれてしまった。腫れてしまいますよ、そう言った楽進の父親のような優しさには香織の心を癒す力があった。

「楽進様、私…私」

「ゆっくりで良いのです。何があったのか、聞かせてくれますね?」

とんとん、背中を撫でながら諭されると、香織はついに楽進の胸元へ顔を寄せて涙を流した。楽進は香織の父に頼まれた事を果たす時が来たと、香織の心を開くことに専念する。




「そのような事が…」

誰もいない廊下の隅で、香織は起こったこと全てを楽進に話した。
賈クの指示によって張遼の元で働くようになったこと、他の女官だけでなく李典までもがそれを蔑むような発言をしたこと。香織はそれが我慢ならないこと。
楽進は話を聞くうちに李典の気持ちを考えても尚やり過ぎではないかと思ってしまった。彼らしくない、冷静さの欠ける行為。

つまりそれは、叔父を殺された以外にも李典の怒りの原点がある事を表していて。

「お怒りが収まらなかったのでしょう。先日下さった簪を、床へ投げ捨てて立ち去られました。」

「…お待ちください。その簪、李典殿が?」

「はい。あの頃はかように感情の起伏の激しい方だとは思いもしませんでした…」

香織の瞳に李典を非難する色が浮かんで来たのを見た楽進は、これ以上2人の距離を離してはいけないと、李典の叔父の話をすることにした。



「ということは、張遼様は李典様にとっての仇…なのですか、」

「ええ。そういうことになります。だからこそ、感情が抑えられなかったのかと。ご存知の通り、本来穏やかな方ですから…李典殿は。」

香織の瞳に後悔の色がにじみ出てくる。代わりに怒りはなりを潜めた。
人に後悔をさせて喜ぶなどあってはならないが、怒りに任せて2人の間をむやみに遠ざける訳にはいかないと、楽進は良心の呵責をぐっとこらえた。

香織が落ち着いたのを見計らって彼女を張遼の室へ送り届けると、楽進は内庭の反対側で李典がこちらを見ているのを発見した。
急いで向かい合うようにして建っている反対側の棟へ渡り、李典へ話かける。

「李典殿、今夜は何かご予定がおありですか。」

「今夜は妓楼に行く予定だぜ。あんた苦手だろ、残念だったな。」

「ご一緒します。」

楽進は妓楼が苦手なはずだった。女と遊ぶという行為がどうにも自身に合わないと思っていたのだが、今日はそんなことを言っていられない。
驚き呆れる李典を無視して、では後ほど、と言い置くとそのまま離れて行った。


赤を基調とした室内では白粉、香、そして酒の匂いがせめぎ合うように充満していた。

李典は左隣に付いた女の肩を抱きながら、もう何度目ともしらない酒を煽り続けている。向かい側の席で普段より格段に早い酒の進みに顔をしかめる楽進へと、挑むかのように口を開いた。

「こんな所まで付いて来たのにだんまりかよ。いったい何だってんだ。」

「今日、香織殿が泣いておられました。」

「ふん、そうかよ」

李典は再び盃を傾けた。一度で全てを飲み干し、再びこぼれそうになるまで満たす。楽進は酒にも肴にもほとんど手を付けていない。

「李典殿が原因ですよ。ご存知のはずです!」

「…知ってるならこんなとこまで来ずとも慰めてやれば良いだろ、廊下で抱きつかれてたんだからそのまま部屋にでも連れ込んでやれば良かったじゃねーか。心配する割には冷たい奴だぜ。…なぁ?」

李典は女を抱き寄せ、その髪に口付けた。挑発するその行為に、楽進はまんまと乗せられるのだった。

「何をおっしゃるのですか!私と香織殿はそのような関係ではありません!」

楽進の怒りに李典の視線もきつくなる。2人の武人のただならぬ様子に、妓女は不安げだ。今日は上客が来たと、店番にはそう聞かされていたのに。席を外そうにも、李典の手が肩を抱いているため席を離れることも出来ないままで。

「香織殿は李典殿を怒らせてしまったと悲しんでおられました。」

「命があって良かったよな。将に意見して斬られるなんてよくある事だぜ、」

「お言葉ですが、そのようなことは私が許しませんから!」

「さっきから聞いてれば、あんた香織のなんなんだよ。あんなに縋り付かれても部屋に連れ込むわけでなく、その癖やけに肩を持つんだな」

李典の声が更に大きくなり、もはや怒鳴り合いへと流れ込む目前。
妓女は怯えるように黙して流れを見守った。
2人は互いに短刀を持っているが、ここでそれを振り回すことだけはやめて欲しかった。

「私は香織殿のお父上に香織殿の事を頼むと言われているのです。たとえ李典殿であろうとも、香織殿を傷つけることは許しません。」

「……」

李典は意外な事実に口を開けた。自らが嫉妬していたのを恥ずかしく思うほど楽進の気持ちに恋愛感情などというものは見当たらない。純粋な親心のような物でただただ心配しているだけのようだ。

「…本当にそれだけなのか。」

「そうですよ、邪な心などありません。香織殿のお父上には昔お世話になったのです。ですから私が香織殿の心配をするのはお父上への恩返しのようなもので…李典殿、聞いてますか」

ここまで素直に言葉を並べられては、怒りも収まるしかない。冷静に考えれば、楽進が女関係で李典と揉めるなどあり得ないはずだった。楽進にとってこの話は、香織のためではなく香織の父親への忠義を果たすための行為である。楽進と香織が抱き合っていた所を見て、想いを酒で忘れようと思った李典にとっては肩透かしを食らったような気分だった。

「まだ話は終わっていませんよ。張遼殿の事で香織殿に八つ当たりをするのはやめて下さい。彼女は仕事を全うしているのですから。」

「あー…それは分かってるんだぜ俺。でも、あの2人が仲良くしているのはどうにも気に食わないんだよな…」

李典の視線は気まずいと言わんばかりに床を彷徨っている。
左手は女の肩を抱いたまま、右手の中で盃を弄んでいる。
李典としては、色恋など全く興味のなさそうな男に知られることだけは避けたかった。

「お気持ちを伝えるべきかと。簪を送られたのでしょう。ご自分の想いには気付いておられるはずです。」

「あんたなんで知って…っ」

「香織殿から話を聞きました。今日はその簪を床へ投げつけられたそうですね。」

責める様な視線に、ついに妓女の肩から手を離して頭を抱えた李典は、もはや守りを固める事も出来ず。
妓女はそそくさと部屋を辞して行ったが、もはや二人とも妓女を気になどしていなかった。

「物に当たるなどあってはならぬ事ですよ。しかも女人の前でなど。」

「あぁ…なんでそんな事まで話したんだあいつ…」

髪を2度かいた李典は反論する事も出来ず、再び盃に口を付けた。ちびちびと飲み進める様子に落ち着きを取り戻したと判断した楽進は、自らも酒を煽り仕切り直す。

「香織殿は李典殿を優しい方だとおっしゃっていました。官渡へ出陣する前の事、ですが…」

「そうなんだよな、遠征するまでは上手くいってたはずなんだぜ…帰って来てから様子がおかしくなっちまって…やっぱり張遼が原因だろ。」

「張遼殿はその様な御仁ではありません。他に何か心当たりはないのですか?」

再び張遼を引っ張り出す李典を一蹴した楽進は、酒の勢いもあって普段より強気になっている。でなくば他人事に首を突っ込むような事をするはずがなかった。

「他にって…なんもしてないぜぇ俺。」

「得意の感はどうしたのです。思い当たる人物は誰かいないのですか?」

「そうは言っても女官の人間関係なんてわっかんねーよ………あ。」

女官の人間関係という言葉で思い出したのは、自分が寝床で冷たくあしらった女の名前。楽進は様子の変わった李典へと視線を合わすことなく肴を口に運んでいく。必要以上に口を挟まない事は、相手を信頼している表れであった。




「妓楼の食事は美味しいものなのですね。」

「楽進、あんたいつも緊張してて味わえてないもんな…」

その日二人は深夜まで酒を楽しんだ。

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