長編 魏

□16
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李典16

李典は不機嫌極まっていた。
楽進に誘われるまま、普段通りに鍛錬場を訪れた所まではまだマシだったが、
鍛錬場中央で手合わせをしている張遼と徐晃を目にしてからは急降下。
その上、鍛錬場の端で香織が2人を見ている事もわかってからは垂直落下である。

「李典殿!今日は私たちも槍を使いましょうか!」

「あぁ。」

楽進は自分が誘ったのだからと槍を取りに行く。
楽進は周りで誰が鍛錬しているのかなど気にしてはいなかった。

「李典殿!ではこちらを!」

「あぁ。」

その上、無愛想に答える李典の事も気にしてはいなかった。






香織が鍛錬場へ足を踏み入れるのは初めての事である。許可がなければ入ることが許されない場所であり、見学をしていて怪我をすることさえある場所。近寄らないに越したことはなかったので興味もなく。

「宴の余興のような感覚で見ておれば良い」

張遼はそう言い置いて行った。
手にしている武器は二本の刀とも槍とも言えないもの。香織ははらはらとしながら手合わせを見守るが、次第になれてきたのか楽しめるようになる。
上段の攻撃を受け止めては流し、半身に構えた徐晃の腹部へ一撃を狙う。
それはまるで人殺しの技とは思えないほど綺麗な動きであった。
女子にはつまらぬでござろうと先程まで申し訳なさそうにしていた徐晃も、無心になって打ちあっている。



香織が鍛錬場を出たところで、丁度林杏と出くわした。 3日間乾燥させた花を籠二つ分も持った彼女は、今から茶葉と混ぜるという。
香織は籠を一つ預かり手伝う事にした。春らしい色取り取りの花は茶の香り付けによく使われる。

「さぁ、早く行きましょう」


香織と林杏が道を急ぐ後ろには、2人を尾行する男の姿があった。
彼の目的は香織だけなのだが。


香織達の目的の部屋の中では茶と花びらを混ぜる作業が行われている。香織と林杏もゴミを取り除いたり、欠けた花を処分したりといった作業は夕刻まで掛かった。
そろそろ執務室へ顔を出さねばと部屋を出て廊下を数人で歩いていると、ふいに声をかけられた。 声の主は鈴麗であった。

「そういえば、香織さんとお会いするのは久しぶりね。郭嘉様の所に竹簡を持っていらっしゃらないけれど、いったいどこにいらっしゃるの?」

「先日から張遼様の元で働いているのですよ。武官の職務が増えたので典韋様や于禁様の室には伺うけれど。」

「香織さんって主に恵まれないのね。前回も今回も、敵から降ったばかりの将へ付けられるなんて可哀想だわ。」

あからさまに蔑んだ言葉をかけられ、流石の香織も顔を歪めた。その上くすくすと周りから笑われれば、怒りの沸点を超えるのは簡単であった。

「賈ク様はもちろんのこと、張遼様もそのように言われるような主ではありません。才のある人を引き入れるのは曹操様意向ですよ、その発言は国主の意向に反するのでは?」

「曹操様のご意向に異を唱えるわけではないわ。あなただけ大変な職につかされているから、心配したまで。」

「あぁもうほらほら。そこまでにして室に戻りましょう」

2年勤める林杏の言葉は中々の影響力らしく、女官は散り散りに帰って行った。その場に残ったのは香織と林杏。

「許せないわ。張遼様のこと、あの様に悪く言うなんて。」

「あらあら、新しい主にすっかりご執心ね。」

「そういうわけではないけど。お優しいし、張遼様はとてもお強いのよ。曹操様が重用されるのも間違いないと思うもの。それなのに…」

ぶつぶつと文句を言い続ける香織に林杏はため息をついた。下手な愚痴よりも達が悪い。よほど主に好意的なのだろうと思い、またそう思える香織を羨ましく思った。


「そういえば、頂いた簪はどうしたの?」

「思うところがあって使わないことにしてて。」

「まぁ勿体無い。似合っていたし、物に責任はないのに。簪は指す数を減らすと途端に貧相になるのよ。」

そう言われてしまっては使っていないのを後悔した。貧相になっているのだろうかと思っていると、元から飾り立てる趣向でない香織はかなり地味な部類に入るらしく、その後も分かれ道に着くまで貧相だ貧相だと言われ続ける事となった。


香織と林杏が武官の棟へと歩みを進めた後ろには、先ほどの男の姿があった。
立ち尽くし、全身から苛立ちをにじませている。

「なんだよそれ…なんであいつ、張遼の事…。」

李典は両手を強く握りしめた。
確かに官渡へ出陣する前は良い関係だったはずだ。それが綻んだのは、話の内容を加味しても尚、張遼の出現によるものとしか思えず。

「思うところがあって使わないことにしてて。」

その言葉の指し示す意味を知りたくはなかったが、違うという言葉が欲しかった。
明日には何としても話をしようと、李典は自らの室へと戻って行った。

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