長編 魏
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李典15
戦場から帰還した兵の疲労は酷く、長きに渡った戦の過酷さを物語っていた。
香織は賈クの元で働く最後の日として、精一杯勤めを果たすつもりであったが、早くも新しい女官が執務室へ配属されていたためにそれも叶わなかった。
引き継ぎ…などというほどの事はなく、あまりにもあっけない最終日に香織が落胆していると、賈クはニヤリとした人の悪い笑みを浮かべて今生の別れでもないのだからと軽くあしらった。
賈クの評判も上がったものだ。2人の新しい女官は賈クに怯えることなく初日を楽しんでいた。賈クは来る者拒まずといった具合に楽しそうに雑談をしている。
香織はそれらを横目に執務室を辞し、一人でふてくされながら女官長の所へ足を運んだ。賈クが受け入れられるようになったのは、香織が楽しそうに仕事をしていたのも一端をになっているはず、それにしてはあっさりとし過ぎた別れ方で。
女官長の所へ行くのは明日から務める執務室の場所や、張遼という将の人柄を聞いておく必要があったからだ。
「武人ですし、私の印象では寡黙な方だと見受けました。」
「徐晃様のような方、でしょうか…。」
「ええ、どちらかといえば。」
女官長は香織のためにと張遼の人となりを伝えてやったが、こればかりは直接会うまで分からないのだとも念を押した。
もしかしたら根は明るい人間かもしれなければ、気難しいかもしれない。
そんなことを会う前から気にしていては良くないのだが、気になる気持ちも十分に理解できた。
「賈ク様の執務室での業務は終えたのでしょう?今日は早めに帰っておやすみしたら?」
「張遼様の事が気になってしまいました…申し訳ありません。」
「いいのよ。…仕事熱心なのと変わらないわ。」
女官長には休むように言われたが気になる気持ちを抑えられる事もなく。香織は教えられた執務室を覗こうと、遠回りをして帰ることにした。
少し覗くだけであれば、問題ないだろう。
武官の棟は何度も足を運んだことのある場所で。当然だがそこには李典の執務室もある。
香織は李典に会わないようにと慎重に周りを警戒していた。会って困る事のは、簪を使っていないから。
どうやら執務室は奥まった所にあるらしい。
「あった…ここだわ。于禁様のお部屋が近いわね…気を引き締めなければ。」
香織は一人ぶつぶつと呟きながら執務室の前までやってくると、周囲を見渡した。1番近いのは北に位置する于禁の室。その少し先には徐晃の執務室がある。南側は楽進の室もあった。李典の執務室はそれよりさらに南にある。
「奥まっているここならあまりすれ違うこともないし、明日からも気にせず勤められそう…」
「何を気にするのですかな?」
背後から突然かけられた声に香織の肩が上がる。今まで1度も聞いたことのない声に、香織はすぐに声の主が分かった。
「し、失礼致しました。」
慌てて振り返り供手をすれば、想定していた通り初見の顔…というわけでもなく、関羽と一緒にいた帽子が印象的な将が立っていた。
「いや、こちらこそ急に声をかけて驚かせた。何か用でも?」
「明日からこちらに参ります、香織と申します。場所の確認にと参ったしだいで…。」
「そなたが。」
張遼はそういえば、と記憶を手繰り寄せた。帰還次第、女官を配すると言われていた気がする。それと共に執務が本格的に始まるのだった。先ずは自らの戦後報告書からであるが。
「ならばついでに入っていかれるか。女子の好く物など特にはない部屋だが。」
「良いのですか…」
招かれるままに部屋に入ると変な感じがした。全くと言って良いほど物がないのに埃っぽい空気であった。
入り口から2歩入っただけで立ち止まった香織の隣へ、張遼も並び立ち止まる。
「数ヶ月ぶり故、埃っぽいな。」
「たった今お戻りになったのですか?」
「ああ。殿(しんがり)を勤めた故、帰るのは最後になったのだ。」
当たり前のように口に出したが、帰ってきたばかりにしては疲労の色が見られない。もっとぐったりとしていても良さそうな物なのだが。
「あの、お疲れなのでは…」
「いや、殿といっても休息を中ほどで取ることができ、特に疲れては…。魏国はやはり強国だ。呂布殿の行軍とは待遇に格段の違いが…すまぬ。」
急に謝られた香織は何のことだろうかと張遼の言葉を反芻したが、謝られる事などやはりなかった。
「戦の話など、女子にすることではなかった。」
「いえ……」
そんなことかとぼんやり考えていると、張遼は思いついたかのように外へと顔を向けた。
「殿の所へ帰還の報告へ参る途中であった。すまぬがここで失礼する。」
「あ、あの!これから少し掃除をしてもよろしいでしょうか。」
「かまわぬ…が、そなたの勤務は明日からであろう。」
「はい。ですが今日は何もすることがなくて。」
暇な理由を正直に話すわけにもいかず、香織は困ったように笑った。
お願いすると言葉を残し、張遼は外へと出て行く。
香織はうっすらと埃の積もった棚や床、扉の堀を拭きあげると備品の一輪挿しを用意し、棚へ置いた。
掃除がなされていないのはやはり、敬遠されているからに他ならない。降将の待遇など、誰に対しても変わらないようだ。
香織が懐かしい気持ちを思い出していると、良い頃合いに張遼が戻ってきた。
「おかえりなさいませ」
「うむ…短時間で綺麗になる物だな。」
「物がありませんので掃除が楽でした。そういえば、関羽様はご健勝ですか。張遼様と共に先陣を切られたのですよね。」
香織の問いに口を開きかけた張遼は、少し顔を反らせると押し黙った。まさか軍神が斬られたのかと、香織は目を見開いたのと同時に張遼は口を開いた。
「関羽殿は劉備の元へ戻られた。劉備の元が関羽殿の居場所なのであろうな…」
「まぁ…」
「それ故、殿が気落ちしておられる。関羽殿は曹魏にとっても必要な武をお持ちであった。殿の落ち込みも相当であろうな」
「関羽様は古巣に戻られたのですね…。」
香織は先日話した時の関羽を思い出していた。長い髭を撫でる仕草、落ち着いた話し方。堂々とした風貌は軍神と言われるに相応しいものだった。
「殿のお気持ちを励ます上でも、我ら武人は多くの武功を上げねばならぬ。私は邸に戻るが、そなたはいかがするか。」
「私も宿舎へ下がらせて頂きます。」
香織のちょっとした寄り道は思いのほか時間を要したが、収穫は上々。
翌日からの勤務にも十分期待の出来る結果となった。
李典は官渡から帰還した後、数日経っても香織とすれ違う事がなかった。
帰還当日に期待した出迎えもなく、翌日四阿を覗いても姿が見えず。
先日戦中報告書を賈クへ持って行った際にも会うことが叶わなかった。その上賈クの執務室には顔の知らない女官が2人待機しており、香織だけがいない。
賈クは李典の抱いた疑問を分かっていながらも、何も口に出さなかった。
何かある、と思った矢先であった。自身の宿敵とさえ思っている張遼の後を香織が歩いているのを目にしたのは。
同道しているだけではない、香織は数歩後を歩きつつ、張遼の言葉へ明らかな笑みを浮かべていたのだ。まさかと思いつつも、李典は賈クの部屋へと向かった。
あの性悪軍師ならば何か知っているに違いない、それは予感というよりむしろ確信。
「あははあ、あんたもやっと気付いたと見える」
「なんで何も言わねえんだ…あんた」
「自分の女官がどこに移ったかなど、他の将にいちいち話す必要はないから、だろう」
賈クは李典を笑顔で迎えて一部を伏せつつ事実を話した。
賈クと郭嘉の思惑は置いておいて、香織が張遼へ付いている事実は隠す必要がない。
話を進めるうちに李典の顔に怒りの色が浮かぶが、賈クに不都合はなかった。
「そう怒る必要はない、嫁に行ったわけでもあるまいし」
「当たり前だろ。ったく、どこまでも気に食わない奴だぜ」
「そういいなさんな。張遼殿が指名したわけでもないのは分かるだろう」
李典は不機嫌面を隠そうともせずこれ以上情報が得られないと分かると部屋を後にした。
賈クはやれやれと頭を書き、何事もなかったように執務に戻る。
李典の心が穏やかになる日はそれから長い間訪れなかった。