長編 魏

□14
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李典14

朝日が登り、あたりを照らし始めた。
松明の火を消し、隅々まで陽の恩恵を受けた大地では出立の準備が尚のこと進められて行く。


「積荷の確認、完了致しました!」

「歩兵の隊列、出陣準備致しました!」

「騎兵、出立できます!」

李典の元へ続々と報告が上がってくる。
返事を出しながらも、視線はちらちらと周囲を彷徨っていた。

「李典様、香織殿でしたら南側の壁沿いにいらっしゃいますが…」

護衛部隊の一人が耳元へ来てそう囁いた。
李典はあからさまに硬直した。
普段軽口を言い合うことはあっても香織の話をすることはない。
なぜ探していると分かったのかと護衛兵の顔を見ると、
先日村へ同行した者のうちの一人であった。
下邳から帰還後、香織から治療を受けた時に名前を知ったのだと先日そう言っていた。

大股で歩みよれば、周りの官は数歩下がった。

「あ〜っと、見送り感謝するぜ」

李典は右手を頭の後ろに持って行き、なるべく普段通りに振舞った。

「李典様…あの、お渡ししたい物が。」

こちらを、そう言った香織の小さな手の平からさらに小さな物がでてくる。
そこに書いてある文字は

「御守り…?」

「あ、ありきたりですが。こちらの香りには心を落ち着ける効能がございます。どうかお気を付けて。」

真剣に伝える表情は心からの言葉で。
李典は頭をかき、深く呼吸をすると自らの胸元から一本の簪を出した。
銀で出来た軸の端には濃紺の玉が着いている。
玉の台座は植物の葉らしき物を模している銀が支え、透き通るような玉が未だ低い位置から光を照らす太陽の光を反射している。
急な反射光に目を瞑った香織のおでこへ、李典は簪の玉をコツンと当てた。

「大丈夫だ、強いぜぇ俺。ま、これ付けて待ってろよな。」

李典の声に呼応して、香織の瞳がゆっくりと開かれた。
身長差のある分香織は見上げるようにして李典と視線を絡ませる。
半歩もない距離で香織を見たのはあの夜以来。思えば、暫くぶりの出来事であった。

「こ、このような物、頂くわけには…」

「あんたに買ってきたんだ。受け取って貰えないと悲しいぜ」

遠慮の言を押し返した。何としても受け取って貰わないと困るのだ。
左手を香織の肩へ置いて動きを封じ、右手で簪を香織の髪へ挿した。
華美な装いが禁じられている女官の衣装であっても、許される程度の華やかさ。
故に、毎日使われている簪の隣は確保したも同然だった。

「あの、ありがとうございます。」

「ああ、んじゃ、俺はこれを大事に持っておくぜ。」

懐に忍ばせると、ふわりと嗅いだことのない香りがした。
再び大股で歩き、兵の元へ戻る。
行軍開始の合図を送って、李典はすぐに出立した。






運ぶ予定の兵糧は大量にあり、足が鈍るのは当然で予定していた行程が長引いて行く。
馬車の馬を急かしてもすぐに使えなくなるだけで、決して早くはならない。
李典は足を止めた。合流した本隊が敗走していては兵糧も意味を成さなくなる。
なんとかして早く到着する術を考えなくては。
胸元から取り出したのは香織からの御守り。
握りしめて鼻に近付ければスッとした香りが広がった。
遠くに目をやる。落ち着いた心で周りを見渡すと、先ほどまでとは違う景色が見えてきた。

「あれは……川だ。水路…なんだか良い予感がするんだよなぁ。」

水路を使う事は命令にはなく。
その上、川は迂回しているので若干遠回りになってしまう。
陸路よりも早く着ける見込みを主張しているのは、己の感だけだった。

「後方の憂いを絶つよりも、今は兵糧輸送が先だってな。俺の感が言ってるぜ!」


得てして日程を10日も早め、兵糧は送り届けられたのだった。







陣に着いて3日後、李典が呼ばれたのは軍議であった。
兵糧の収納は部下に任せ、軍議に顔を出せば何時もの面々が顔を付き合わせている。
どうやら早期に決するようだ。
兵の指揮が上がった今が最高の機会になったらしい。
少し後ろで参加していると、陽動の作戦を誰が担当するのかという議論になった。そんなものは決まっている。ここ1番というところで手を上げるのはもちろん。

「いいねえ、楽進殿。よくぞ名乗りを上げてくれた」

「い、いえ…。私ならば捨て駒になってもいいかと思い…」

「いやいや、捨て駒は困る。そこが崩れたら敵は曹操殿に一直線だ」

話はとんとんと進んでいく。
楽進は、賈クの人を食ったような言葉に腹も立てず、計られた事にも気付かないで本心から捨て駒を担おうとする。
己にその度胸がないのはよく分かっているが、分かっているからこそ楽進が眩しく映った。

「李典殿!」

「がーくしん、あんたほんと凄すぎだぜ。」

李典の発した賞賛に、含むものは何もない。
心に燻っているのは己へ向けたものであって、楽進への嫉妬ではなく。

「……李典殿、今日は何か良い香りがしますね…」

「そ、そうか?」

すんすんと鼻を鳴らしながら嗅ぎ回る様子はさながら犬のようだ。

「李典殿は東方へ行かれるのですよね。」

「おぅ。こっちは任せておけ。あんたは大役を果たすんだぜ。」

「はい!」

笑顔で応じる姿に、嫉妬心など抱けるはずもなかった。


延津はやはり主戦場。
眼下に広がる敵は倒しても倒しても減ることがないほど。


「敵の数が半端じゃねえ…。郭嘉殿、こいつらほんとに勝てるのか?」

「袁紹は育ちの良さゆえか果断さに欠ける。そこを突けば、勝機は得られるはずだよ」

郭嘉は穏やかに答えた。
李典は郭嘉の言葉を信じる他ない。
自分の勘も悪い方向には向かっていないが、おびただしい数の敵を前にすれば勝ち戦を信じるのは困難だった。

「おや、李典殿から良い香りがするけれど。」

「そ、そうですか?」

「あぁ、そうか。これもある意味残り香…かな。」

目ざとく感じ取った香りの出処に間違いはなく。
まさかそこまで判断されると思っていなかった李典は、一瞬目を見開いた。

郭嘉はただ微笑み、眼下の様子を砦から覗いている。









手元の竹簡がこすれ合って乾いた音を立てる。
香織は立ち止まり、四阿を遠巻きに見ていた。右手を頭にやれば、丸い玉の付いた簪。
銀の細工も今まで見たことないほど細かいもので、きらびやかな光は触れるのを躊躇うほどだった。
木製の物しか使ったことのない香織には、手入れの方法さえ分からない。


「李典様…どうして優しくしてくださるのかしら。」

両手に抱え直した竹簡が再び音を立てた。
同時に後からの足音がする。この先は書庫になっているため、人通りは少なかった。

「李典様は誰にでもお優しいのよ。私にもお優しくしてくださったのだもの。」

香織が振り向いた先には鈴麗がいた。いつも小綺麗にしている彼女の家は香織の家よりも格が高く、持ち物ひとつ一つから気品が知れた。
鈴麗の父親は武人を排出する家系。今は世代交代の最中でまだ年若い長男が家を継いだばかりだったはずだ。

「そう…なのですか。」

「李典様の従父である李乾様は武人として旗揚げ当初から曹操様と共におられた方。李典様は幼い頃からめぐまれた環境でお育ちの方だから、誰にでもお優しいのよ。それにしても、黄巾の乱から国にお使えしている家のご出身にしては、今の李典様の地位は低すぎると思わない?」

李典の出自などを知らなかった香織には、何も言うことが出来ない。
旗揚げから挙兵したらしき他の家の人々を思い起こせば地位の高い人が多いに違いないのだが。

「李典様は武の才に恵まれなかったのだわ。でも、それを補うのが家の繋がりでしょう。我が家も机上の出来事に強い方が欲しい事だし、双方の家ではご縁を感じているのよ。」

鈴麗の言葉は香織に対する牽制であったが、至極当然のことでもあった。
香織の父親は下級文官でしかなく、香織が結ばれるとしたら家格を同じくする者か、互いに補う部分のある者同士であることは世の習いである。

「優しくされる事と近しくなる事は別に考えるべきね。」

「そう…ですね。」

「李典様にお情けを乞うとしても、よく考えてね。私は貴方が側室でも構わないけど、貴方は平気かしら。元同僚を御正室だと敬える?…貴方が無駄に傷付く前に話が出来て良かったわ」

鈴麗の言葉に頭の痛む思いがした香織は、その場を離れて書庫へと駆け込んだ。
竹簡を仕舞えば今日の業務は終えたことになる。

「別に髪飾りを貰っただけで、好きだって言われたわけでもないし…。良い家柄ならこの位すぐ買えるものだろうし。」


きっと私は李典様を特別好きだと思っていないと、香織は納得した。
この高級な髪飾りも、賈クや楽進から貰う事があれば、きっと相手を気になるに違いない。物に導かれたその気持ちは、愛情などではないはすだった。



香織は翌日から簪を外し、暫くこの話題から距離を置くことにした。

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