長編 魏

□13
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李典13



抱きしめられたのは酒の席の出来事で。
香織は李典を意識していないし、李典も翌日には何もなかったように過していて。
それでも香織がふとした瞬間に李典を意識してしまうのは、香織が女だからだろうか。


そんな二人の間でも時間は流れていた。




「今日からまたよろしくお願いします。」

「あははあ、よろしく頼む。元通りになったようで何よりだ。」

そろそろ賈ク様の元へ戻ります、と香織が李典へ伝えたのは戦支度の仕事が増える故だった。
きっと賈クの事だ、忙しくなっても新しく人手を要求したりなどしないだろう。


賈クは以前と変わらない表情で香織を暖かく迎えてくれた。
元通りという言葉はつまり、先日の恐怖心を読まれていた事を意味している。
やはり自分は主運に恵まれていると香織は思った。

「もうすぐ出陣なのですよね。準備は私にもお任せください」

「もちろんだ。この時期に戻ってくるとはありがたい。」

香織の仕事は山のように用意されていた。
繕い物や書物の片付け、随時やってくる将への対応。
忙しい事を楽しんでいる自分に苦笑しつつも、香織は一つずつ丁寧に終わらせて行く。

「白馬へは新人が先頭切って行くそうだ。官渡では恐らく楽進殿が名乗りをあげるだろう。うちは人員が豊富だな。」

「新人…ですか。」

「そういえば、新しい将とは対面したかい」

執務室での会話も久しぶりだった。
李典は黙々と書を読んだり書き物をしたりと、集中すれば自分の世界に入り込む性格だったからだ。

「関羽様ですね。軍神と言われる方はやはり威厳がおありでした。」

「関羽殿だけではなくもう一人いるんだが…張遼殿と言って帽子を被った御人だ。見なかったならば仕方ない。」

「張遼様…ですか。」

香織は少し考えてみたが、思い浮かばなかった。
もしかしたらすれ違っているのかもしれない。

「呂布の下にいた将だ。処断されずに引き入れられたが、殿は信を置いても周りがそうはいかん。」

「…いつか聞いた話ですね。」

香織へと視線を向けた賈クはニヤりと笑った。香織も、もちろん信頼をしていなかったのだ。


「寡黙で武人然としているが、親しくなれば良い奴だろうさ」

「お会いになったのですね。」

「戦の打ち合わせに何度か…ね。こっちの意図を察してくれる頭もある。あれじゃ殿もますます気に入るだろうよ。」

それにしてもやけに張遼という人物を褒めるのだなと不思議に感じていると、衝撃的な事実が伝えられた。

「で、だ。あんたには官渡決戦の後に張遼殿の元へ行ってもらう。戦が長引くことは間違いないからまだ先の話だ。元々は俺の案だが、あんたなら上手くやれるだろうと郭嘉殿もお墨付きだ。」

「は、はぁ。」

賈クの思惑はこうだ。
楽進にも李典にもカクにも通じた香織を張遼に付ければ、彼の動きは自ずと周りの知るところとなる。もちろん意図的に漏らしているわけではないから香織自身の態度はよそよそしくならないだろう。長く付き合いつつ探らせるには最たる方法で。

下ヒの後、それを郭嘉へ進言すると香織を酒宴で見極めたいと言ったところは意外だったが、下級文官の娘なのに将の女官を行っているというきな臭さを鑑みれば当然の判断であった。郭嘉の抱いた疑いはすぐに晴れたのだが。

「香織殿は面白い。私を張良、荀ケ殿を蕭何に例えていた。あぁ、賈ク。貴方が出てこないとは……とても良い。面白かった、ふふ。」

「余計なお世話だ。古の英雄になど例えられたくはないからな。」

「そう…あぁ、嫉妬しているのだね。」

あの時の郭嘉の顔を思い浮かべた賈クは少しばかり不愉快な気分になったが、それでも結果は上々。
郭嘉の庭で酒を飲んだにも関わらず、擦り寄る素振り一つ見せなかったのだとか。

「恐らく女官を終えた後の娘の事を考えて画策したが、在職中にどうこうするとは考えてないだろう」

という2人の読みは見事に当たっていた。





賈クが出陣した後、城の中では戦況についてあまり良い話を聞くことがなかった。
思えば、楽観的な見方の話を賈クからも聞かなかった気がする。
香織はふと考えたが、袁紹の勢力範囲は未だ広く、この戦は難しいものとなるかもしれないこと請け合いだった。

「よぉ、」

欄干を掴んで庭を眺めていると後ろから声をかけられる。
軍師の詰めるこの棟には現在見張りと香織以外おらず、声には聞き覚えがあった。

「李典様!」

「庭なんて眺めてなーにやってんだ。」

「いえ、その。」

香織の振り返った先には李典の姿。
兵糧部隊の護衛をする予定の李典は未だ出陣の号令を受けていなかった。

「戦況が思わしくないと聞いて…皆様が心配です。」

「まぁ、そうだな。」

李典は香織のすぐ隣で欄干に凭れ、廊下の天井を見上げた。
見事な天井画。舞い上がる鳳凰は不死の鳥。

「李典様、出陣される際はお気をつけ下さいね。」

「あぁ、わかってるぜ。」

香織の心から心配しているような声に、からかう気にもならず李典は真面目に答えた。これでは先日の粛清現場を見た後よりも酷い。
他人を心配して自分が辛くなっては元も子もないと思うが、そこが香織らしいとも思った。

「あーっと、そうだ。あんたいつも簪は一つだけどよ、何か意味でもあるのか?」

「意味は特に。ただ、母が買ってくれたものなので、毎日付けているのです。元々沢山は持っていませんし。」

変えられた話題は香織の話。ついつい気を許して話してしまう。

「嫌いじゃないんだな。」

「はい。もちろん。」

香織も女性故、着飾るのは嫌いではない。


午後からは女官長の元で雑務を貰い、数人でそれに取り組む。
今日は花を摘んで乾かし、茶の香り付けをするための材料採集であった。
薬剤のために作られた庭は広々としている。曹操の政策の一つ、屯田制度の成せる技であった。
平時には兵に田畑を営ませ、開拓地を広げ続ける。
曹操の戦略的要地の付近には、必ずと言って良いほど兵糧にするための田畑があった。
しかしながら、今回はそれが叶わない。
相手は漢中にその名を知らないものはいない名族。
保持する土地の広さも段違いで。
持久戦になるのは間違いなく、兵糧が尽きる事は分かりきっていた。

「今回ばかりは貴方も心配なようね。」

「女官長!すみません。手が止まっていました。」

いいのよ、花びらを積みつつ、女官長も不安気だ。香織が視線を下げれば、香織の足元に見たことのある草が生えていた。
紫の外見で香しい匂いを放つそれは、香織の記憶では人気のあるハーブで

「あ、これは…」

「あら、雑草。また生えてきたのね。」

女官長はそう言って他の雑草と同じようにラベンダーを抜き取った。

「あの、それを頂いても良いでしょうか。」

「別に構わないわよ。でもこんな雑草…何に使うの?」

「あ、はは…」



摘んだ花を笊にあけ、ごみを取り除きつつ乾かす。そうすることで茶花が出来上がった。
香織は普段の友人たちとそれらの作業を共にする。こうしていると不安な気持ちが晴れた。遠い地では戦が繰り広げられているなど、想像も出来ないほどの平穏だ。

「林杏に相談があるの。」

「あら、珍しい。何かしら?」

目を輝かせて話を聞く林杏は、香織の悩みに楽しみを見出した。戦場へ向かう人のお守りに書く文字は何が良いか。
誰宛なのかは言わずもがな。これから出陣する相手で香織と関係ある人間であれば、相手は分かり切っている。

「文字なんて。そんなものは私より貴方の方が詳しいのでは?詩を入れれば良いのよ。1番思いが似ている歌、あるでしょう?」

上品に笑いつつそう言われては、言い返すこともできなかった。
それなら、と、香織の知っている中から一つの句を選んでそれを布へ書き写した。
一番思いの似た詩は、書くのが少しだけ恥ずかしいもの。

===

君子役に于く
日ならず月ならず
曷か其れ遭(あ)ふこと有らん

鶏 桀(とや)に棲む
日の夕べ
羊牛下り括(いた)り
君子役に于く
苟(しばら)く飢渇すること無からん


「わたしの夫は行役に駆り出され、いつ帰ってくるとも知れません、いつになったら再び会えることでしょう

鶏が鳥屋に住み、日も暮れれば、羊や牛も小屋のほうへと下りてきます、でも夫は遠方にあってここにはいない、でもくよくよしすぎてやつれないように気をつけましょう」


===

それは戦場の夫を思う妻の詩。
見られないようにとの願いも込めて、先ほどのラベンダーを一晩乾かして中へ入れることとした。

「上手く縫えた…かな?」

出来上がったのは夜もふけてから。
先日買ってもらった糸で刺繍を施したので、お守りの色は青と銀が主体になっている。
御守りの文字は黒で縫い付けた。青銀黒の三色は李典の鎧の色。

李典出陣の日は迫っていた。

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