長編 魏

□12
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李典12

香織はその日、朝一番に書庫へと向かった。
薄暗い室内に背の高い書棚が整然と並んでいる。
棚の間は細い通路になっており、手前は書棚、奥に行けば竹簡の列があった。
香織の手元にはメモ用に作った小さな竹簡が握られている。
中には李典に支持された書物の題名と、今朝やらなければと気付いた雑務が記されていた。

棚の上段は香織の頭より随分と高い場所にある。
今地震が起きればひとたまりもないわね、などと考えつつ、3冊目の書簡を探すために台へと足をかけた。
すると扉の開く音がする。
あまり出入りのないところだが、こうして重なる事もあるものだ。
香織が3冊目を手にすると、意外と厚みのあるそれは製本された部分が取れかけている。
次を探す前に一度書を置いたほうが良いと思った香織は台を下りて入り口付近の机のある場所へと向かった。


「香織殿、おはようございます!」

そこにいたのは意外な人物である。
先日、李典との関係を誤解されて以来の再会だ。誤解は解いておいたと次の日に言われたが、なんとなく恥ずかしい。

書庫の空間とはとても不釣合いな人物に、香織は目を大きくした。

「おはようございます。楽進様、如何なさいましたか」

「私は今日使用する書簡の準備に参った所です」

「まぁ、そのような事、女官にお任せになれば良いですのに。」

「いえ、」

楽進は少し恥ずかしそうに目を細めた。
人に物を頼むのが苦手なのだろうという事は、数度しか話していない香織にも分かる。


きょろきょろと周囲を伺う楽進に気付いた香織は、机に書物を置くとすぐ台を取りに向かった。

「こちらでよろしいでしょうか」

「恐縮です!香織殿のお探しの書簡はもう見つかりましたか?」

「あと二冊です。北部の地図と、昨年の収穫高を示した物を探せば終わりです。」

そういって書棚の反対側、地図の棚に向かうと下段に目的の物を見つけることができた。
書簡を探すため香織は普段より早めに宿舎を出てきたのだが、そんなに手間取る事はなかったようだ。

「香織殿、収穫高に関する書物はこちらにありましたよ!」

笑顔で駆け寄る楽進に香織は感謝を述べて書物を手にした。
やはりこの将の雰囲気は柔らかく、それでいて頼りがいがあって心地が良い。
人として尊敬できると香織は再び認識した。

二人で書庫を後にする。香織は書庫を出るとやけに空気が綺麗に感じた。


「そういえば、先日は誤解をしてしまい恐縮です。」

目を見てはっきりと伝えられれば此方が恐縮してしまう。
香織はいえ、と短く返した。

「私は仕事だけの関係を築きたいのです。お仕事だけを頑張って、早く家に戻りたい。」

楽進とは全く異なる考え方だった。
楽進は少しでも魏のために尽くしたい。そのためなら自分の生活など二の次である。女性はそういう物なのだろうと納得し、そういえばと、忘れていた事を思い出した。


「香織殿、お父上が心配なさっておいででした。その、何か困ったことがあれば相談にのりますから!…私などで恐縮ですが。」

「あの、父をご存知なのですか?」


先日あった時には何も言って無かったため、香織には意外であった。香織の父と楽進には共通点など無かった。
片方は中央の下級文官。片方は将軍職だ。

「私は以前、記録係をしておりまして。その際にお世話になったのです。新人の頃から色々とご迷惑をおかけしまして…。」

恥ずかしそう話す楽進は昔の自分を思い出しているようだ。
記録係など、目の前の屈強な人物からは想像もつかないが、本人が言うのだからそうなのだろうと香織は口を閉じた。

「そうだったのですね。では、何かありましたらご相談させていただきます。」

「はい!いつでもどうぞ!」

あまりにも嬉しそうに答えられ、笑みが浮かんでしまう。
相談する事にならないことが一番だが、相談する相手がいれば心強い。

「そういえば、李典殿も香織殿のお父上とお知り合いなのですね。先日は李典殿に呼ばれて武官の棟へ来たとおっしゃってましたし。」

「父上と、李典様がですか?」

香織は何か引っかかるような気がしたが、何なのかはいまいちわからない。

「四阿に二人がおられた日ですよ。お父上も武官の棟へいらっしゃってました。」

「そ、そうですか…。」

香織は違和感が見事に解れていく気がした。廊下で父とすれ違ったことも、父親が李典へ供手するのが遅れたことも。文官であるならばあり得ない行いだ。
つまりは、香織を父に引き合わせたのは李典だった、と。

「香織殿?いかがいたしました?」

「いえ…。楽進様、李典様はとてもお優しい方ですね。」

香織が急に話題を変えた事に気付かず、楽進は笑顔で肯定した。

「はい!李典殿は思いやりのある方です。戦の最中も常に私の事を気遣って下さいます。李典殿の感があればこそ、私も伏兵を知り得ますし…李典殿がいてくださるので私は一番槍を務められるのです!」

「そうなのですね。」

香織もつられて笑顔になった。





あまりの仕事のなさに、香織も午後だけは李典の執務室を離れることにした。
女官長の所へ行けば何かしらの仕事が貰えることが分かったのだった。

今日の雑務は傷を手当てするための布を作ることだった。
数人で一つの宅を囲み、話をしながら作業を行う。
香織は針で裂いた部分を縫いながら、女官仲間の会話に耳を傾けた。

「この布はきっと楽進様がお使いになるわ。鍛錬後には毎回怪我が凄いの。」

「あら、徐晃様も良く鍛錬なさってるけれど、そこまで怪我することはないわね…」

「香織さんは今李典様の所にいらっしゃるのでしょう。お怪我はなさる?」

「いいえ、李典様はそんなにお怪我されることはないわ。」

あの噂が話題にならないで欲しいと必死に願う香織に卓についた女性たちは遠慮なく話題を振った。

「李典様といえば、香織さん、上手くいってらっしゃるのね?」

「いえ、私と李典様はそのような関係では。」

「でも共に外出されて、先日も廊下で手をつないでいる所を見た方がいるみたい。鈴麗さんの時とは違うわね?」

斜め向かいに座った鈴麗という女性へ視線を向けると、困ったような、泣きそうな顔をしていた。あまり触れられたくない会話なのかもしれないと思った瞬間に、先日の李典の言葉が頭の中を巡った。

【迫られたのを断ったら雰囲気が悪くなった】

鈴麗のことだったのだと気付くと、尚更視線を合わせずらい。

「あなた達、無駄口が多すぎますよ


「はーい。」

女官長が部屋を通り過ぎるついでに一言告げると、水を打ったように静かになった。

自らの執務室へ戻る女官が出てくる一方で、暇になった女官が部屋へ入ってくる。香織は見知った顔を見つけて声をかけた。

「林杏!こちらへどうぞ。」

彼女はどうやら典韋と上手くいっているらしかった。少し綺麗になったような気がする彼女を隣へ呼ぶと、香織自身にも幸せが舞い込むような気がした。

「香織さん、久しぶりね。噂は聞いてるわよ。」

「もう、やめてください。根も葉もない噂なんだから。」

二人がこそこそ挨拶をしていると、たまたま部屋にいた女官長のが、珍しく会話に入ってくる。

「私も知りたいわ。香織さんと李典様の話。誰にも心を許さない方ですもの。」

「そ、そうなのですか?」

どちらかといえば軽くて話しやすい人だと思っていた香織は疑問符を浮かべた。

「どこか一線を引いていらっしゃるわ。」

「そう…なのでしょうか」

たまに真面目な顔をすることも知っている香織は、女官長の言葉が意外に思えた。心の中は意外と秘める性質なのかもしれない。

「ですが女官長、私はそういった気持ちはないのですよ。」

「あらあら。女官と将の恋なんて良くあることなのに残念だわ。」

女官長さえも楽しんでいるらしい噂話が早く収束して欲しいと、香織は心から願った。



「失礼いたします。」

香織が執務室へ戻ると李典は既に執務を終えていたようだった。
机上で広げているのは彼がよく読む詩集だ。
午後には軍議があったはず。特に何もなく終えたのなら良かったと、香織は安堵した。

「あんた、今日夜は何か予定あるか?」

「いえ、特には。残務があるのですか?」

「いや、酒でも飲もうと思って…。」


声に張りがないのは疲れているからか、香織は少し心配になったが具合が悪いならば酒を飲もうとはしないだろうと結論付けた。



暗くなった執務室には灯りが灯されている。
ぼんやりと照らす程度の明かりは、酒を飲むには十分な明るさで。
李典が瓶に入った酒をどこからか持ってきてから、部屋の中を酒の匂いが漂っていた。

「急だったからこんなつまみしか無かったけど…良いよな。」

「はい。」

干物が乗った皿に手を伸ばし、盃の酒を煽れば、頬はしぜんと蒸気する。
李典は仕切りに香織を見ていた。
何か言いたいことがあるのかと、顔を見て首を傾げてみるが、話す気にはならないようだ。
ならば此方からと、今日気になっていたことを聞くことにした。

「李典様、一番槍ってどんなお仕事なのですか?」

「…最前線で敵陣に突っ込んでく事だな。」

今日聞いた言葉が気になってしまって、と話を初めた香織はその単語に驚いた。

「一番危ない仕事なのですね。敵が一番多いところへ身を置く、ということだから…。」

「そうだな…。なぁ、なんで誘ったのか聞かないのか?」

「話して頂けるまでは聞かないでいます。…まだまだお酒もありますし。」

ちゃぽん。
卓上の瓶を軽く持ち上げれば中の酒が答えた。
香織は李典の顔を見て盃を空けるよう促すと、再び酒を注いだ。





「あー。酔ったぜ俺ぇ。」

「そうですね、顔が赤いです。」

李典の色白の肌には、赤みが綺麗に映える。
突然開き直ったような声で酔ったと宣言した李典は、1度腰を上げて座り直すと香織に向き直った。

「出陣が決まった。それは良いんだけどよ、俺は後続隊で兵糧を運ぶことに…なっちまった。」

酔ってなお言いにくそうな雰囲気に、香織は無言で先を促した。

「楽進は先鋒で活躍すんだよなぁ。虎牢関の頃は同じ場所にいたはずなんだぜ…情けないぜ俺。」

盃を前に差し出され、香織は促されるままに何度も酌をしてしまった。気付けば、瓶の中の酒は残り少なくなっている。

「兵糧の輸送であっても良いと思います。」

香織は李典の酔いが回っているうちに、と、思いの丈を言葉に乗せる。

「前線が活躍するためには後方の守りが要です…兵糧の確保を強固にしているからこそ、軍師は焦燥を抑えて機を待つ事が出来るのです。」

香織は盃を握りしめた。香織の発言は、女官が口にするにはあまりにも分不相応なもの。

「李典様であればと、殿もお考えのはずです。それに…李典様の勘は、兵の指揮に影響を及ぼしているのです。戦から遠く離れた私も知っているくらいに。」

香織は誤魔化すように笑みを浮かべた。どうやら李典は香織の発言を不快に思っていないらしい。驚愕の眼差しで香織を見つめている。

香織は不意に抱きしめられた。

その力は優しく包み込むというよりはむしろ、助けを乞うようなもので。

「なんて言えばいいのか、上手く言葉に出来ないけどよ…すっげぇ嬉しい。」

香織の顔が一瞬にして火照った。
もちろんそれは、酒のせいではない。

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