長編 魏
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日の傾きかけた空へ積乱雲が立ち向かうかのように天高く登っている。
香織が廊下から空を見上げていると、中庭を挟んだ向こう側、別の棟の廊下を見知らぬ二人の男性が歩いているのが見えた。
誰に言われずとも二人が武人である事は明白。
一人は恐ろしく髭の長い人物で、もう一人は特徴的な帽子を被っていた。
あまり直視しては失礼に値するとすぐに視線を逸らしたが、ふと名前が浮かんだ。
「関羽…様?」
李典のところへ移ってからの香織は、国政の情報に疎くなっていた。
何でも一人でこなしてしまう李典は、香織に政策を話すこともなければ、軍師でないので次の戦の話が執務室内で行われることも殆どない。
今香織の情報源になっているのは女官同士の会話か、すれ違い様の文官の話し声くらいである。
先日話し声から得た情報で、関羽が曹魏へ滞在している事を知ったのだ。
「髭、長いなぁ。」
「おーい。あんた、ここにいたのか。」
香織を呼ぶ声が後からかけられた。
先ほど調練へ出掛けた李典が戻ってきたらしかった。
1度執務室に行ったのか、腕には書物が数冊抱かれていた。
「今から書でも読もうかと思うんだが、あんたもどうよ」
「お誘いは嬉しいですが、お仕事を頂いた方がもっと嬉しいのですが。」
「なーに言ってんだ。楽しめる時に楽しもうぜ!」
李典は当たり前のように香織の手を掴み引き連れて行く。
長い廊下を内庭まで歩いて行くのだ、当然幾人もの通行人がいる。
男性は目を合わせないように勤めるが、女官や侍女は手で口を隠して笑う始末。
香織は恥ずかしくて仕方がなかった。
「おお、香織か」
少し先の角から曲がってきた文官が突如言葉を発した。恥ずかしさ故に俯いていた香織は、その声に反応するようにして顔を上げる。
「父さま!」
久しぶりの再会に父へと走り寄って行った香織は、今まで李典へ見せたどの笑顔よりもあどけない表情をしていた。
父親の腕を掴み喜びを全身で表現するそれは、どこから見ても仲の良い娘と父の構図。
「んじゃ、俺は先に四阿へ行ってるぜ。」
邪魔にならないようにとばかりに、香織へ言葉をかけるとその場を後にする。香織の父は慌てて供手したが、李典はさほど気にしていないようだった。
「こんなところで会えるとは。母さまも弟たちも息災ですか」
「もちろんだ。それより、新しい軍師様の元へ配属になってしまったと聞いたが、申し訳ないことをしたな。」
暗い顔で述べる言葉には後悔の念しか含まれておらず、入城前の威勢の良さはなりを潜めていた。
半ば強制的な入城に、香織は父親にいくつか思うところがあった。だが、ここまで悔やまれては追い打ちをかけるように文句を言うわけにもいかないと、思い出した文言を慌てて飲み込んだ。
「もう良いのです。今は一時的に李典様にお仕えしておりますが、いずれは賈ク様の元へ戻る予定です。噂とは違い、とても良い人ですよ。」
「そうかそうか。だがな香織、その…李典様とは恋仲と…母が市でそなたの噂を聞いてきたのだ。」
香織は一瞬で顔から血の気が引いていった。
鏡を見たわけではないが、血の引く様子はよく分かる。ひやっとした感覚が上から下へと下りていったのだ。
「そ、それは根も葉もない噂です!李典様にご迷惑がかかりますし、私はそんな邪な気持ちでお使えしているわけではありませんし、」
「李典様か…確かにあまり出世は見込めないが、我々文官へもお優しくとても良い方だ。」
褒めているのかどうなのか分からない発言に、香織は心臓が止まるところだった。何処で誰が聴いているのか分からない。ここは城内なのだ。
「もう…良いです。仕事があるので失礼しますね。」
香織は逃げるようにその場を後にした。
香織が廊下を歩いていると李典のいる四阿が見えてきた。
そこは初めて李典と香織が出会った場所。
暇ができては昼夜を問わずここで書を読もうとするところをみれば、余程気に入っているのだと納得できた。
よく見れば別の人物もいる。
先程遠目に見た関羽であろう人物だった。
二人の話が終わるのを待つかどうか香織が悩んでいるうちに、関羽の目が香織を捉えた。
「失礼いたします。」
供手をし、深く頭を下げる。相手は軍神と名高い人物だ。
「そなたが香織か。」
はい、と答える声が震えた気がした。李典を見れば静観しているが機嫌が良さそうだ。悪い人物ではないらしい。
「春秋左氏伝を読むと聞いた。」
「はい、儒学に興味がございまして。」
「ふむ、良い心がけだ。その年頃にあっても親兄弟との関係を厭わぬのか。」
髭を撫でる仕草を視界の上方で捉えながら香織が答えると、満足しなかったのか更に問いかけられた。
「いいえ、親兄弟へどうすれば尽くす事が出来るのか、見出せない自分を歯痒く思っております。」
「ほぅ。流石、李典殿の女官である。」
納得いく答えを得たのか、関羽はゆったりとした歩調で四阿を後にした。
香織は早打つ鼓動を落ち着かせるように息を吐くと、李典の隣へと腰を下ろす。
失礼な態度であるのに、李典は全く気にしていなかった。
「よく分かったな。あいつが関羽だって。」
「お髭の長さですぐに分かりました。噂通りですね。」
長い髭は今まで見たこともないほどであった。ここではあまり髭を伸ばしている人を見ない。
珍しい事ほど記憶に残るそうだ。しばらく忘れられないだろうと、香織は思った。
「お父上とは話せたのか?」
「はい。お時間を頂きありがとうございました。」
李典は自然な雰囲気で香織に聞いたのだが、香織は父との話を思い出して気まずくなり視線を逸らした。
人の噂も七十五日。暫くは耐えなければならないだろう。
「おっ、ピンときた!俺との噂話を聞いたな?」
「な、で、噂の事、ご存じだったのですね!」
「今朝の調練で郭嘉殿から聞いたんだよなぁ俺。」
郭嘉が李典へと話しかけた情報が手に取るように分かり、香織は落胆した。至極楽しそうに話しかけられたのだろう。
郭嘉は恐らく噂好きな女官から話を聞いたに違いなく、そうなれば女官の間でも噂が広まっていることになる。
香織は唸り声を上げて頭を抱えた。
李典はそんな香織の様子をニヤニヤとしながら黙って見ている。
「ちゃんと否定して下さいね。私も否定しますから。」
「そのままで良いじゃねーか。面倒が減るだろ?…あぁ、傷つくぜぇ俺。そんなに俺じゃ嫌なのかよ。確かに楽進ほど将来は見込めないけどよ!」
「またそんな理由で…。李典様じゃなくても嫌ですよ。どうしてご自分が出世しないって思うのです?」
先程父親も同じ事を言っていた。
将である事で既にそれなりの位を持っているが、皆今以上の出世を望むものである。
「俺は別に…叔父貴みたいに武人らしくなれそうもねぇし、書を読んで静かに暮らせればそれが一番良い。っつーか、人と功を競うのは苦手なんだ。…変わってるって言われるけどよ。」
「そうですか?私も、勤めを果たして平穏に過ごせればそれで良いです。位の高い男性と結ばれたいとも思わないですし…。」
香織が遠く四阿から望める池のその先を見ながら言葉を紡ぐのを、李典は静かに見つめていた。
芯の強そうな女だと思っていたが、李典にはなぜかその時の香織が消えてしまいそうに儚く見えた。
李典がスッと伸ばした手は香織の左肩を掴んだ。
「大丈夫だ。あんたならきっとちゃんと勤めを果たして両親へ孝を立てられると思うぜ。」
「はい……」
タンタンタンタンタン、ズズッ。
2人が座る四阿の後方から、人が歩み寄り、急に止まる音がした。
李典と香織が同時に振り返ると、楽進が四阿の手前で顔を赤くして立っている。
「楽進様!」
「きょ、恐縮です、私はその、お二人の邪魔をしようとしたわけでは、」
勘違いしている。赤い顔をさらに赤くして後方へ後ずさる楽進に、李典はため息を吐いて立ちあがる。
「李典様!否定して下さい!今すぐ否定してくださいね!」
「はいはい…。がーくしん、あんたまた勘違いしてんだろ。」
「李典殿!私の事はお気になさらず。お食事でもと思いましたが、後日改めさせて頂きます!」
楽進はいちいち丁寧に礼をして去って行った。
香織はその機敏な動きに唖然とせざるをえず、李典に至っては追いかけようという意志が全くなかった。
魏軍の一番槍に足で叶うのは、騎兵部隊しかいないことは李典のよく知るところだった。
先だっての戦でも、すぐ隣を風のように走り抜けていったのは彼なのだから。
「李典様…何故追いかけてくださらないのですか。」
「いや、あんた知らないんだろ、楽進の足の速さはすげぇんだって!」
はぁ、と香織は溜息を吐いて卓の上の竹簡を片づけていく。
終業時刻はとっくに過ぎていた。
「あんた、もう帰るの」
「李典様は今晩楽進様とお食事ですからね。お先に失礼いたします。」
その晩、楽進との食事で必死に説明する李典の姿があったとかなかったとか。