長編 魏

□10
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李典10


香織は違和感で目が覚めた。
普段より硬い寝床、薄くて荒い敷布と掛布は記憶の通りだが、やけに暖かい。

「お、も…。」

重りが乗っているのではないかと思えるほどの重量に寝返りさえも遮られる。
恐る恐る目を開けると見たこともない布地が眼前へ横たわっていた。

「え、…え、ええ?」

「……ん、」

言葉にならない声を出し、掛布の中から手を出して掴み揺らすと、
重り、もとい腕がのそりと動いた。

「な、なんで…なんで、」

「いや、たぶん暖かかったからつい…」

李典の普段と同じ声音はなんの焦りも感じられないもので、
香織は掛布の隙間から自身の身なりを確認して安堵した。
寝る前に着ていたものは全て身に付けている。

「…おはようございます」

「あー、おはよ。」

ぽんぽんと頭を優しく撫でられた香織は恥ずかしさから顔を背け、
眠っていた牀から抜け出した。





村からの帰り、許昌の街中で寄り道をしようと言い出したのは李典であった。
騎兵は先に城へ戻っている。

「なぁー、まーだ怒ってんのかよ。」

「当たり前です!嫁入り前なのに男の人と共寝するなんて…!」

「なんもしてないだろ俺ぇ」

しました!と香織が視線で伝えても、李典には全く響かない。
馬の手綱を引きながらのんびりと歩く李典は、今朝の出来事など気にもしていないようだ。

「んだよ、俺とじゃ悪いか。確かに俺は出世頭ってわけじゃないけどよ!」

「そういう意味ではありません!私もう、母さまに顔向けできません…」

「そんな気にすんなって。誰も気にしてねーよ。」

大きな通りを歩いていると、幾つもの小間物屋が立ち並んでいる。
以前の市とは比べられないほどの雰囲気。
現在、許昌は曹操への期待感に満ちていた。ついにあの呂布をも倒したのだ。天下に一番近い領主の膝下では、人々の消費意欲も捗るらしかった。

「あ、可愛い」

香織が見つけたのは刺繍糸。
深い青は曹魏を象徴とする色で、所々に銀糸の混ざっているそれは一目で高価と分かるものであった。

「なんだ?糸か?」

「私は刺繍が好きなのです。糸は大事な材料なので。」


興味なさそうな問いに軽く返し、香織は目の前の色に溢れた市に目を奪われる。
すると、香織の隣で李典が店の男性へと声をかけた。

「じゃあこの蒼と銀糸の奴を。」

「待ってください李典様!こんな高価なもの頂けません!」

「なーに遠慮してんだ、嫁入り前の女を傷物にしてしまったお詫びって事で…あ、」

二人が顔をあげれば、店の男性が気まずそうに視線を反らす。
強く否定をしても信じてもらえず、結局は身の潔白を証明する事ができないまま二人は小間物屋を後にした。

「ああもう…。でも李典様、こんな高価な糸をありがとうございます。」

「おう、貰っとけ貰っとけ、」

「大事に使いますね。じゃあついでに甘い物も買って下さい。私、綺麗な色の飴が欲しいです。」

「昨夜も思ったけどよ、あんた以外と切り替え早いな」

ふわっとした髪をかきながら、李典は呆れたように言葉を投げた。
香織の強請った甘味は小さな小さな飴一袋。







「あと半分…頑張るぜぇ俺!」

「李典様、ここらで飴を舐めましょう!頭を働かせる時は甘いものが良いのですよ。」

受験生の心得として香織が知っていた知識。購入した飴の袋を差し出すと、李典によってその中の一粒が掴み上げられる。

日が落ちかけている外へと出た香織は、後半戦のために暖かい茶を淹れることにした。


「やったぜ俺ぇ!」

「ふふ、お疲れ様でした」

香織の言ったとおり、報告書の作成は夜までかかった。
執務室の外は最早日が落ちて暗く、室内でも明かりを照らしている。
李典はやり切った達成感で笑顔に溢れ、香織もつられて笑っていた。

「あー…帰りは送ってくぜ。今日は遅くまで済まなかったな。」

「いえ、仕事ですから。ありがとうございます。」

見送りの申し出を断らなかったのは素直に嬉しいから。
香織はあの時以降、夜間の外出が恐ろしくなってしまった。
二人が歩く廊下では暗闇が視界の端を埋め尽くし、目の前で揺れる炎がちりちりと頼りない音をだしている。

「あの、」

「ん?」

「李典様の執務室には何故女官が少ないのでしょうか。」

ずっと感じていた疑問は当然のもの。
他の将は必ず執務室に着任しているというのに、まるでそうあるべきかのようにここにはいない。

「なんていうか、関係を迫られたのを断ったら雰囲気が悪くなった……って感じか。」

「李典様がお断りすることもあるんですね。」

「あんたなぁ…」

香織の言葉に当然だと不服を表す李典の表情に怒りはなく、
過去の事だと割り切っているらしい。
それは将であり、受け継いだ地位や財産もあるならば当然起こりうる出来事で。

「こう見えて純粋なんだぜぇ俺!」

「ふふ、覚えておきます。」

送ってくださってありがとうございますと一言残した香織が居室のある建物へ入って行くのを見届け、
李典は自分も屋敷へ戻るため厩へ向かうことにした。
まだ暗くなってからそう時間は経っておらず、月の位置も低い。

「自分で食うための飴かと思ったら、俺の間食用だったんだな。」

李典は登り始めの月を見上げて、今日の出来事を思い出していた。
独り言が多いのは元より、彼の癖である。

「肌を見せて誘う奴はお断りでも、あぁいうのには弱いぜぇ俺。」

李典が思い出したのは昔読んだ詩の一部分。

「【客 遠方より來り
 我に一端の綺を遺る
 相去ること萬餘裏なるも
 故人の心尚ほ爾り
 文采は雙鴛鴦
 裁ちて合歡の被と為す】」

李典は後ろ髪をかいた。恥ずかしい時によくやる彼の癖である。


月が人知れずまた少し登った。





(あなたからのお使いが遠方より来り、わたしに一端の薄絹を送ってくれました。遠く離れていても、あなたはわたしを忘れないで下さったのですね。薄絹の模様は一対の鴛鴦、これを裁って共寝の褥といたしましょう:客遠方より來る:古詩十九首其十八)

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