長編 魏

□9
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李典9

空は高く、夏の雲がどこまでも広がっている。
香織は視察という名目で李典を中心とした数人の騎兵とともに許昌の西へと来ていた。
広大な草原の広がる大地の向こう、小さな村が見えてきた。


「李典様、あそこは」

「あれが目的地だ。噂だと、上手い物が食えるって話だぜ!」

李典の馬の扱いは丁寧で、無駄に走らせることは決してない。
急いでいないからと、ゆったりとした歩み具合で一同は進み、配下の兵も慣れているようだった。
香織の予想では、もっと業務的で淡々とした旅路になるはずだったのだが。
嬉しい誤算である。

「楽しみですね!私、許昌を出たことがありませんから他所の村を見るのも初めてです!」

「だと思ったぜ!っつーか、女なら当たり前か…。」

得意げな表情を一瞬にして元に戻した李典に、香織はくすくすと微笑んだ。
この時代、女性の行動範囲はとても狭い。母でさえもきっと、許昌を出た事などあるはずもなかった。
それ故地方から帰ってきた将兵の話というのはとても貴重で、誰もがこぞって聞きたがるのだ。

「平和が訪れれば、女性1人で他国を回ることも可能になのに…」

「…それはあまりにも危険じゃねーか?」

香織の独り言を鋭く聞き取った李典は、流石にそこまではと否定をする。
香織にとって当たり前のそれは、この時代では奇異な出来事で。

「そう…ですね。せめて市井の家族が旅行出来るくらいになれば良いかと。」

「…そうだよなぁ。」

急いで付けたした内容は大幅に譲歩した最終目的。
それでも李典にとっては夢のような領域だったようだ。

「あんた、家族はいるのか?」

「はい、許昌に。両親と妹弟がおります。あの、李典様は?」

「あー、俺は特には。世話になってた叔父貴も死んじまったし…な。」

「も、申し訳ありません!」

慌てて頭を下げるも、李典は気にしていないようだった。
死んだ両親や親戚の話なんて思い出したく無いはずの話題なのだが、それはここでは身近すぎる話題で。
気まずくなった香織は、横座りのまま極力前を見るように体を捻った。
少しずつ大きくなる村に期待が溢れてくる。このままの速さで進めば、日暮れ前には到着出来るだろう。



「これはこれは遠い所までありがとうございます!」

香織の父親程の年齢、恐らく中年だろう男性が深々と腰を曲げて供手する。村の代表者らしき彼は李典一行に笑顔で対応している。李典の機嫌は良く、隊全体の雰囲気も朗らかなものだ。この村は安全な場所らしかった。

馬から降りたばかりの香織は足に力が入らず、薦められた椅子に腰掛けていた。少し奥では李典が、村の近況などの報告を受けている。

「夜には酒宴を用意しております。それまでは村の中をご案内致します。汚い所ですが何卒ご容赦を。」

「少し周りを見て回っても良いか。」

「ええ、もちろん。」

男性は余程中央からの使者を歓迎しているらしかった。二つ返事で李典を案内する。
香織も見回りに行こうと立ち上がれば、香織の前を村の娘が横切って行く。

「将軍様、こちらへ。」

「さぁ、こちらへ。」

とても綺麗な女性たちは、香織の纏っている服よりもなお美しい衣装に身を包んでいた。
李典はさも当然のように女性に挟まれて歩き出す。
一瞬ムッとした香織へ見て見ぬ振りをして、兵卒が隣に並び見回りが始まる。

「あ、あの。あれは何ですか?」

「あれは韮の温室栽培にございます。」

温室栽培と聴いて香織が思い浮かべるのはビニールハウス。
しかし目の前で広がるのは深く掘られた一区画に、一段下がった場所で整えられた畑である。

「穴を掘って、そこで育てるだけで温室栽培になるのですか?」

「穴を掘れば以外と暖かいものでございます。」

「へぇ、初めて知りました。だから韮は市場でも良く見かけるのですね。」

兵卒ははい、と頷き香織の質問に気分を害した様子もない。
香織は其の後も何度か質問をしたが、適切な回答が得られた。


夜になり、村の男が言った通りの酒宴が行われる。目の前で繰り広げられる会話から察するに、この村は曹操の統治を受けるようになってから賊の侵略もなく平和を取り戻したらしい。
中央への謝意は本音からのものであるようだ。

「そういえば、いつもいらっしゃる将軍様はお元気でしょうか、先日いらした時はとてもご健勝であらせられましたが。」

「あぁ。相変わらずだぜ。」

「それはようございました。」

李典と香織の間には女性が1人座っている。李典の反対側にももう一人。主に李典へ酌をしているのだが、香織はそれが少し気に食わなかった。
聞き耳を立てて会話を聴いていると、不意に聞こえてきたのは先の話。どうやら普段は別の将が管轄しているらしい。
香織は自分の逆側に座っている兵へと顔を向けて質問をした。

「あの、いつもは別の方がいらしてるのですか?」

「ここの村は楽進様の管轄ですので、楽進様かと。」

普段は楽進の管轄らしいこの村になぜ李典が訪れたのかは定かではない。
だが、楽進も同様の歓迎を受けていたのだとしたらきっと恐縮しきりだろうと思った香織は、一人で小さく笑ってしまった。
教えてくれたお礼にと、香織が兵卒の杯へ酌をしようとすると、えらく丁寧に受けられてしまってこちらが申し訳なくなる。

それ故、結局一人で黙々と食事を済ませることとなった。





「あの…どうして同室なのでしょうか。」

「さぁなー。」

身支度を済ませて案内された寝所には既に李典が寝そべっている。
香織は牀へ腰掛けることも出来ず立ち尽くしてしまった。
案内の女性は気の利かないことに早々と退散済みだ。

「あの、今から別の部屋を用意してもらってきます。」

「あー、待て。それは面倒な事になるから辞めてくれ。」

どうやら李典が村の女性を連れ込まなかったのは、香織を情婦として連れてきたためだと思われたらしい。そうなれば、当然香織の寝床は李典の牀となる。

「め、面倒だなんて!私、お、男の人と同じ床には、」

「面倒ってのは俺が別の女を充てがわれるって事だ。その気も無いのによこされても困るだろ?」

「そ、その気…!?」

「だーから、その気はないっつってんだろォ俺。」

李典はのんびりとした様子で村の収穫高が記載された竹簡に目を通していた。
香織は諦めてしずしずと牀へ横たわる。
半身を起こした李典が気になって仕方がないが、声をかけて良いのか判断に困っていた。

「李典様、今日は連れてきてくださってありがとうございました。」

「おぅ。」

「韮の栽培、凄く面白いですね。曹操様も慕われていて、なんだか凄く…嬉しいです。」

香織はこの状況に似合わず、だんだん瞼が重くなってきた。
日中の移動は以外と体力を使ったようだ。その上今は酒も入っている。

「そうだな…この村はほんと、良くなったと思うぜ。」

「曹操様や国のためにも、頑張って李典様へお仕えしますので、これからも、よろしく、お願いします…」

「こちらこそ頼むぜ…なんだあんた、可愛い事言って、あんたもしかして誘ってんのか………っておい、」

李典が竹簡を手早く丸めて香織を見下ろせば、安心し切った表情で瞼を閉じている。

「その気はないけどよ、ここまで普通に寝るのはどーよ…意識しちまったぜ俺ぇ。」

李典の言葉が香織に届くことはなかった。

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