長編 魏

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香織はあの夜、どうやって自らの寝床へ戻ったのか覚えていなかった。ただ、あの時の賈クの冷たい表情だけが頭の中に浮かんでくる。


「これを李典殿の所へ頼む。」

「は、はい」

賈クは思い出していた。あれは曹操軍へ降ってすぐのことだ。
唯一断ることなく着任した女官は愛想が良くなく、毎日がとても長く感じたものであった。
香織は、根は明るい女だ。それは数日前を思い出せば自然に分かることで。
それでも今は、愛想の良くない何処か一線を画した女へと戻ってしまっている。

香織が執務室に入ると、李典が珍しく真面目に仕事に励んでいた。
何時もの通り周りに女官はいないが、何かの報告だろうか、文官と話し込んでいる。
長引くならばと部屋を出て外で待つつもりが、呼び止められて部屋で待つことになった。急ぎの仕事でもなさそうなので暫く待つと、先客の文官が香織の脇を抜けて部屋を辞して行った。

「悪い、またせたな。」

「いえ。こちらは賈ク様からの書状でございます。」

つ、と差し出された竹簡を木手に取った時、李典は少しの違和感を感じた。これといって理由は思い当たらないが、なんだか変な予感だけがする。
香織の背中を見送りながら、予感が当たらないようにと祈り、自らの仕事へ戻ることにした。



それから数日後の事である。

「李典殿、ちょっと良いかい」

「あぁ。」

李典は呼び止めた人物へ思い当たる節がなかった。前回の戦でも目立った失敗はしていないはずだ。
次の作戦が決まるのは早すぎる。例え行く先が決まっているとしても。
李典はのんびりした足取りで賈クの後をついて行くことにした。

「あんたに頼みがある」

「なんだ?張遼の処刑だってんなら任せろよ?」

「残念だがそんなことじゃあない、香織の事だ」

「……?」

何を任されるのか、全く読めない展開に李典が目を細めると賈クは丁寧に説明をした。
先日呂布軍から間者が侵入していることを突き止め、
処分する際に香織に見られてしまったのだという。
自分に降りてこなかった間者の存在にもいくらか驚いたが、香織が現場にいるにもかかわらず始末した事には言葉が出ないほど驚いてしまった。
間者の始末は大抵密かに行われるものだ。


「あははあ、香織殿は郭嘉殿と酒を楽しんでいたんだが、どうやらこちらが少し手間取ってしまったらしい。酒宴を終えた香織殿と鉢合わせしてね。」

それ以来怯えた様子の香織を李典に預かってもらいたいと。賈クはそう口にした。

「構わないけどよ、それで解決するのか?」

「必要なのは時間だけだ。あんただってそうだろう」

李典は初陣の時を思い出した。鉄の匂いに、死に行く者が最後に口にする咆哮。カラスが死体をつつき肉を食いちぎる様子や、いつの間にか死体へと湧く虫。うなされた夢から己を救ってくれたのは何だったのか。

「時間か…」

「では明日から。頼んだよ」

「おう」

賈クは去って行く李典の後ろ姿を眺めながら、ぼんやりと自分の初陣を思い出していた。
眼前の出来事に声も出ず、ただ見つめるだけだったのはもう昔の話だ。目に焼き付いているその光景を懐かしむほどの物へと変えてくれたのは、やはり時間で有った。





香織はまるで特別な日の朝のように気分良く目覚めた。
昨日終業間際に賈クから伝えられた配置転換は、まるで天の助けのようであった。
李典の執務室で勤務をするのは慣れていないという理由で不安があれど、
賈クの執務室にいる時よりはマシであろう。

「今日からよろしくお願いします。」

「ああ。」

香織が供手した先、李典は椅子に座したまま竹簡片手にのんびりと答えた。
個性の強い将が多い中では、常識人の彼のこと、穏やかな毎日となりそうだ。
下邳での戦からまだそう経っていないため、武官の業務は忙しくなく。
李典の業務は武官の中では文官よりのものであったが、軍師のそれとはやはり異なる。
一から覚えていかなければと再認識した香織は手始めに執務室の物の配置から覚えることにした。
夕方までにあらかた物の配置を覚え、業務に支障をきたさない程度にすることは出来たが、香織が気になったのは仕事の少なさだ。
今のところ一つも仕事を頼まれていない。竹簡の受け渡しすら一人で行ってしまう新しい主に、香織は首を傾げずにはいられなかった。
何事も自分でやってしまうらしい。

ちらりと視線を向ければ、新しい竹簡を手にした李典と視線が交わった。

「なぁ、明日から近郊の見回り行こうぜ。」

「お気をつけて…え?」

賈クにはない、治安維持業務に気を取られていた香織は、一拍遅れて反応をしてしまった。

「わた、私もですか?」

「あぁ。数日だからあんたは旅行がてら楽しめば良い、俺は身の回りの事をやって貰えるし…良い感じだろ?」

「はぁ…。ですが女官の外出は事前の申請が必要なのでは…」

「気にすんなって。俺が許可すれば平気だ。それに外出したい気分なんだよなー俺。」

「はぁ…。」


思っていた以上に気分屋なのかもしれないと、香織は少し不安を覚えた。

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