長編 魏

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「おや、お早いのですね香織殿」

「おはようございます、郭嘉様」

まるで戦明けと思えない笑顔を振りまいて、郭嘉は廊下を歩いていた。のんびりとした歩き方は風流な詩人を思わせる。
ひらひらと揺れる上衣の裾が柔らかで、朝早くの登城であっても急いた雰囲気は全くない。

「先日の約束、覚えてくれているかな。」

「はい。お酒を共に…との御誘いですね。」

「うん…今夜はどうだろう?」

いくらか心穏やかに受け入れることが出来るのは、李典より借りた書物のおかげか。

「はい。どうぞ宜しくお願い致します。」

「あぁ、今夜がとても楽しみだ。」

香織はふわり、笑ったつもりであったが、視線の先には女の身の自分よりも美しい笑顔があった。





仕事は朝から多忙を極めた。
早めに出てきた香織よりもさらに早くに賈クは出勤し、既に仕事を始めていた。
朝一番に自らの報告書をまとめあげ、随時提出される他の武将の報告書へ目を通す。帰陣した人数、戦死者の数、策の犠牲になった兵の人数など、現状をこまやかに把握していった。

それは昼を過ぎた時である。静かに机で作業していた賈クが突然口を開いた。

「そういえば、昨夜の城内で変わった出来事などはあったかい?」

「昨夜ですか?特には。」

「手当に参加したんだと聞いたが、ご苦労な事だ」

いったい誰から漏れたのか。
不特定多数がいたあの場なら、報告があってもおかしくはないが、流石の速さであると香織は舌を巻いた。
余程怪しい存在だったのかと、香織は昨夜を思い返す。

「今夜は郭嘉殿と酒を飲むそうじゃないか、あんたも毎夜忙しいな」

「そ、そのような事までご存知なのですか。」

誘われたのはつい先程の事である。
もしや自分に監視でも付けられているのかと周囲を見渡すが、人影などない。

「あははあ、今夜誘うから仕事を早めに切り上げてくれと、郭嘉殿が・・・な。あんたを誘ったのはその後だろう」

「はぁ…」

ニヤニヤとした顔を向けられ、香織の心の中を読まれたようで気味が悪かった。それにしても、わざわざ仕事を終わらせて欲しいと訴えるとは、郭嘉は用意周到な人物だ。
今夜どうかと誘われた時は思いつきのような口ぶりであったのにと、香織は今朝の出来事を思い起こした。

「楽しむことだな。そうだ、郭嘉殿のところから報告書を持って来てくれないか。全くあの人は…」

「はい。」

急に呆れた口ぶりで嘆く内容は、机仕事を嫌う郭嘉の報告書が遅れている事だった。夕方には曹操に提出する予定なので、早くに欲しいのだという。




「失礼致します」

郭嘉の執務室はあいもかわらず賑やかだ。

「郭嘉殿!此度の戦の報告書を受け取りに来られたのですよ!早く仕上げてください!」

香織が要件を言う前に悟られてしまう。たしかあの文官は郭嘉の元で働く陳羣という人物であったと、すぐに思い出すことができた。
郭嘉の素行を問題視しているといった噂は本当らしい。郭嘉の傍に立って机仕事を行う様を監視しているようだ。

「あぁ、わざわざ来てくれたんだね。今夜の約束が待ちきれないな。」

「まさか、今夜もお飲みになるのですか!あなたと言う人は、戦勝の宴まで待つことも出来ないのですね!」

まるで嘆くようにそう口にした陳羣は、戦勝の宴まで酒を飲むべきではないとの主張を展開した。まさしく其の通りの言なのに、郭嘉は全く取り合っていないようであった。

「曹操殿を誘うのはまた今度にしよう。今日は二人きりで、ね。」

「…義父上へ報告させて頂きますからね!」

陳羣の妻、荀夫人は軍師である荀ケの娘であった。荀ケの推挙した郭嘉が娘婿の悩みの種であり、この3人はとても強い繋がりを持っているのだとは、香織が女官仲間から聞いた話である。

「報告書はこの竹簡なのだけど…。とても持ちきれないだろうから私が共に、」

「郭嘉殿はこちらの竹簡を進めてください!女官をやります!さぁ誰かこれを賈ク殿のところへ!」

執務を抜け出す口実を切り捨てられた郭嘉は、あからさまに落胆していた。
女官の一人が香織と同量の竹簡を手にし、共に運んでくれるようだ。やけに綺麗な女性がついて来てしまったと、香織は少し緊張した。

「あなた、どうやって郭嘉様に取り入ったの?」

部屋を出るなりそう口にした女官は、運ぶのを手伝ってくれるだけではないらしい。
少しだけ歩みを早めた香織は、これ以上嫌味を言われないように笑顔を取り繕って答えた。

「私がお誘いしたわけではありませんし、私などが郭嘉様をお慕いするなど恐れ多くてなりません。」

「そう……。」

香織の言葉に納得したらしい、それ以降の道中で嫌味を言われることはなかった。やけにあっさりとしている。

執務室へ着くと賈クは席を外しているようで、部屋の中に人はいなかった。運んでもらったお礼を述べ、さっさと返してしまおうとする香織に、女官は牽制のため最後の一言を告げる。

「勘違いしないように言っておくわね、どちらのご出身だか知らないけれど、貴方では郭嘉様に釣り合わないわよ。」

「は、はい。…ありがとうございました。」

蔑むような目でそう言われ、香織は早く帰って欲しいとの意を込め進んで出入口の扉を開けた。これ以上いわれのない疑いをかけられるのはごめんだ。

「あははぁ、やはり女は恐ろしい」

「いらっしゃったんですか…。」

賈クは隣の部屋から出てきた。布で仕切られただけの其の部屋にいたのならば、声は筒抜けだったはずだ。

「俺もいるんだけどなー」

「李典様!」

李典の急な登場に目を見開く香織は、慌てて礼をする。右手を上げて制止した李典は出入口へと向かって行った。どうやら用事は終わったようだ。

「これは勘だけどな、今日は温かい物を準備した方が良いと思うぜ。」

そう言って去って行った李典の背を見つつ、香織は顔から血の気が引いていた。
酒宴に呼ばれたからには何か持っていかなくてはと、当然のことを失念していたのだ。

「賈ク様…。」

「さすがに専門外だ」

藁にも縋る思いで名を吐くと、優秀な軍師は既に逃げ道を用意しているようだった。
かける情けもないのかと、じとりとした視線を送り続ける。

「今から取り組むのは無理だ。御膳坊へ、俺の名前を出せばなんとかなるだろう。」

「賈ク様…!」

再び吐いた言葉は全く同じ音、それでも意味は違っていた。

「すぐに行って参ります!」

「はいはい、っと。」

興味なさそうに送りだす優しさに、香織は感謝した。







「あぁ、緊張しなくていい。ここにはあなたと私しかいないのだから。」

卓に合わせてしつらえられた長椅子に香織が腰かけると、香織のすぐ隣へと郭嘉は腰を下ろした。
初めて足を踏み入れる庭は郭嘉のみが使う事の出来る場所として曹操が贈ったのだと聞いた時、香織は郭嘉という人間の地位を再認識した。
目前の月を映す池も、細やかな彫刻が施された華やかな四阿も、全ては郭嘉のみが利用できるものだという。
香織が御膳坊にて「自分は賈クの女官であり、酒宴のため、酒の肴は郭嘉のところへ」と依頼すると、急に御膳坊の中でも位の高そうな女性が現れたり、
直接持って行くと言われたりと、違和感を感じてはいたのだが。

「そういえば、書物の進みはいかがかな。詩経を読んでいるのだってね。」

「李典様から書をお借りしたのです。先日は国風を読んでおりました…お詳しいのですね」

今日はやけに他人に詮索されている気がする。賈クにも感じた違和感を、香織は郭嘉にも抱いた。
郭嘉は全く内心の読めない表情で酒を傾けている。
御膳坊から運ばれた羊肉の煮込みを口にしてはいるが、あまり食は進んでいないらしい。

「あなたの事は、楽進殿から聞いたんだ。詩を嗜むとは…うん、とても良い。」

「楽進殿…ですか?」

香織が郭嘉へ小首をかしげると、郭嘉は盃を傾けつつ目を細めて笑みを浮かべた。
おおかた、下ヒへの進軍前の執務室での会話から漏れたのだろう。
楽進が香織にあらぬ疑いをかけているとは到底思えず、香織は胸をなでおろした。ただの雑談に違いない。

「史書に明るいと思えば、詩を嗜むともいう。ふふ、あなたはとても面白い人だ」

「父の書斎に詩経はありませんでしたから、初めて読んだのです。」

「詩も気に入ったのかな?」

「とても。」

酒が進むにつれ、郭嘉が少しずつ香織との距離を狭めていく。
ついには郭嘉の左腕が香織の背を通り腰を包んだ。あまりの出来事に体が固まってしまう香織は郭嘉の顔を見る事さえできない。

「ふふ…っけほ、」

未婚女性のすぐ隣へ腰かけたあたりから少しおかしいとは思っていたが、妓女のように扱われても困ると少し体を捻じってみると、香織は郭嘉の異変に気付いた。
腰を抱いて顔を見られないようにしているが、どうも様子がおかしい。

「だ、大丈夫ですか!」

香織が体を離した途端、郭嘉が右手で胸を押さえたのだ。
息苦しそうに眉を寄せて前かがみになる郭嘉に、香織は背をさすることしかできない。

「っ…うん、もう大丈夫。」

優しく手を押し返されては、それ以上踏み込むこともできず。
香織は水を差さない程度の気使いにと、持ってきていたひざ掛けを自分と郭嘉の両方へと掛けた。

「陳羣殿がおっしゃっていましたよね。昨日もお酒を楽しまれたのでしょう?」

香織が見上げるように視線を送ると、郭嘉は先ほどの苦しそうな表情が嘘のように微笑んだ。

「昨日は曹操殿と共に戦勝の盃を…ね。」

「まぁ、曹操様と。」

「人の生は短い。刹那を楽しまないと…。」

片目を瞑った郭嘉に、反省の色はなかった。香織はそんなものなのかととりあえず受け入れることにして、
蓋つきの器に入った暖かい羊肉を差し出した。冷えは万病の元だとは、母の言である。
郭嘉は再び酒の入った盃を一気に飲み干した。香織が盃を半分だけ満たすと、不満そうな視線を投げた。

「子房を失えば劉邦とて天下を取れませんでしたでしょう…郭嘉様。」

「おや。」

まさか言い返されるとは。香織の言を意外に思った郭嘉は、郭嘉にしては珍しい事に言を失った。

「夫れ籌作を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、吾子房に如かず。」

「「国家を鎮め百姓を撫し、餽饒を給し糧道を絶たざるは吾蕭何に如かず。百万の軍を連ね戦へば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは吾韓信に如かず。」」

(そもそも、はかりごとを軍隊の本陣で巡らし、遠方の地で勝利を決めるという点では私は子房に及ばない。
国家を安定させ人民をかわいがり、食料を与え食糧の供給路を絶たないようにする点では私は蕭何に及ばない。
百万の軍を引き連れ、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず討ち取るという点では私は韓信に及ばない。)



二人の声が見事に重なる。香織が得意げに目を細めると、郭嘉はとても楽しそうに微笑む。

「あなたは私を張良だという。では蕭何は誰だというの。」

「そうですね……荀ケ様です。」

「うん、賈クではないところがとても良い。あぁ…陳羣とあなたを交換したいな。」

月を見上げ、願うように郭嘉はつぶやいた。あまりにも切実な発言に、香織はこみ上げるものを抑えることができず、手で口元を隠した。
郭嘉はとても満足そうに笑って、器の中で未だ暖かいままの口に含んだ。

「…彼は韓信といったところかな。」

郭嘉がつぶやいた言葉の意味を理解できず、香織は首をかしげるに留まった。
郭嘉は曖昧に微笑み、半分しか満たされていない盃を少しずつ味わった。







ずいぶん遅くなってしまったと、香織は足早に賈クの執務室へ向かう。
そのまま帰っても良かったのだが、持って帰る予定の書を忘れてきてしまったのだ。
酒が回っているが、すぐに立ち去れば問題にはならないだろうと、酔った頭で考えた結果であった。

「あぁ…お命だけは、」

香織が足早に歩いていると、廊下の先で人の声がした。
聞いたことのある声。女性特有の艶のある声だった。
つい昼間、望まずとも聞いたこの声は確かに耳に残っていた。この声は、郭嘉の室の女官のものだ。

「あははあ、諦める事だ。陳宮殿も下ヒで散った。あんたも、頃合いだろう」

「いやっ!あぁ…っ!」

悲痛な叫び。刃物が空を切る音がしたかと思えば、廊下の暗闇の中で衣擦れと、何かが崩れ落ちる音が聞こえた。
もう一つの声にも聞き覚えがある。あの独自の言い回しと笑い方は、ある人物にしか当てはまらない。
足を止め、目を見張って息を殺す。賈クが後ろを振り返った。その瞳がとても冷たくて、我が主と同じ人物だとは思えないものであった。

「郭嘉殿はどうした」

「酒宴は、終わって、」

香織が話したのはその言葉のみであった。

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