長編 魏
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「無事のお戻り、安心いたしました。」
「首の皮一枚から半分へってとこだがね」
「まぁ。火計は大成功だったと聞き及んでおりますよ。賈ク様の戦果です。」
香織が久しぶり対面した主は全くといって良いほど何も変わっていなかった。
過酷な戦場へ赴いたにしては、特にやつれた風でもなく。
この肝の座った所が、賈クの軍師らしさなのかもしれない。
「今日はそこまでやることはないが、明日から戦後処理に忙しくなるからそのおつもりで。」
香織に支持を出しながらも書簡の類に手を出していた賈クに香織は苦笑する。
そこまでやることはないと言っても、他の人間より忙しいのは確かだった。おそらく武官の多くはそのまま屋敷へ戻っているはずで。
表に兵卒は大勢いるらしく、手当てを受けているのだとかと説明を受けたが、香織自身がそれに駆り出されることはなかった。
言われたとおり、早めに帰らせて貰えた香織は遠回りをして宿舎へ帰っていた。
こうも一気に城内の雰囲気が変わったのでは、帰って休める気もしない。
誰に言われることもなく、雰囲気だけで気を張ってしまうほど、今日は人が多かった。
「あ、香織殿!」
「楽進様。」
廊下の先、少し遠くから手を振る男の姿。
「あの、楽進様、今戻られたのでしょうか」
「いえ、皆さんと共に昼に戻ったのですが…。兵の手当てをしておりましたら、このような時間になってしまいました。」
楽進の肌は土埃で黒く、足には所々血がついている。手は流石に洗ったらしい。手だけ綺麗な事が返って違和感を誘った。
「では、今からご自分のお召し替えを?」
「ええ。私の怪我は大したこともありませんし。」
当然の如く手を合わせ頭を下げてその場を離れた楽進へ、香織は無礼な事にしばし呆けてしまった。何故将が兵の手当てを。たいていの場合、それは逆である。
「…まだ手当てをしてる人はいるのかしら」
暗くなるまでまだまだ時間はある。
頭を切り替えるように2、3振って先を急いだ。どこで手当てをしているのかも定かではないが、出陣前のあの広場へ行けば何かしら分かるはずだ。
香織の目前には小さな木戸があるが、開くのを戸惑ってしまう。
扉の向こう、広場から聞こえるのは悲痛な叫び。生々しい怪我人の嘆きであった。
香織が力を込めて扉を開くと、普段接する事のない侍女や下女が怪我人の手当てをしている。
ゴザも敷かずに並べられた怪我人。所々に出来た血だまりは、手当ての遅れを示していた。
「あの、私も何か手伝いを、」
「助かります…ですが、お召し物が汚れますので…」
話しかけた侍女に上から下まで舐めるように見られては、軽率であったという他ない。
香織の着ている女官服は裾が長く、ふわりと広がった衣装である。
とても地面に横たわった怪我人を看病出来るような服装ではなく。
「じゃ、じゃあ水の用意を手伝うわ。」
「……こちらに」
なんとも不服そうに連れて来られた井戸では、下女の数名が必死に水を汲み上げているところであった。
もう何度も繰り返したのであろう、縄によって手のひらは赤く擦れ、若い女性の手には思えないほどの荒れようである。
「私が代わるから、暫く休んでいて。」
香織が声をかけると、目を丸くする様子を見せた後にしずしずと下がって行った。
どうやら本当に限界が近かったらしい。汲み上げた水を求めに来る者のため、空の桶へ次々と水を補充する。どこからともなく次々と戻ってくる空の桶には、所々血が付いていた。
衛生管理などという言葉があるはずもなく。他人の血が付いた桶に新しい水を入れていく。
香織はその行為に背徳心を抱きながらも見なかったことにしてやり過ごし、汲み上げることに集中した。
「あ、あの。」
「はい、どうしましたか。」
「次は私が…」
いったいどれだけの水を井戸からくみ上げたのか。声をかけられて振り向くと、先ほどの下女が立っている。
休憩を終えたのか、いくらか顔つきが穏やかになっていた。
「じゃあ、暫くお願いね」
香織はそう言って井戸の縄から手を離し、水場を離れる。向かうのは広場だ。
手当の規模は少しずつ小さくなっているらしく、いくらか落ち着いた様子であった。
「おい、こんなとこでなにやってんだ?」
聞き慣れた声に視線を向ければ、香織のすぐ右、わらの上に寝かせられた怪我人の横に立っている李典と目があった。
「李典様、」
「あんた、こんな所で何やってんだ」
「手当の手伝いを…と思いまして。先ほどまでは水を汲んでおりました」
「…そうか」
普段と違い少し様子がおかしい李典を不思議に思いつつも、香織は辞儀をしてその場を後にした。
けが人の大半は火傷らしい。火計の成功はすなわち自軍への損害でもあった。
香織にそこまでの想像力はなく、火計の有する危険をまざまざと見せつけられる。
「こちらの薬草を塗って包帯を巻くのね?」
「は、はい。」
侍女の様子を見よう見まねで模倣してみる。塗るのは簡単だったが、薬草の臭いに吐き気がしてきた。
香織が手際よく塗らなければ、水で洗浄した場所から再び血がにじみ出てくるのだ。
息を止めて薬草を塗りつけては、清潔なのかも分からない布を兵の体へ巻きつけた。
軽傷の者が重症の者を看病している様子を見ると、いかに統率の取れた軍なのかが伺いしれる。
何人もの腕や足に包帯を巻き続け、ふと周りを見ると陽が落ちてきていた。後片付けを始める侍女もいる。
手慣れた手つきで血まみれの布を回収し、次々と重ねていく。その布を洗浄するのか処分するのか、おそらく前者であるのだろうが、あまり考えたくはなかった。
「おい、……おい。」
「……え?」
後ろから声をかけられたのに気付いて香織が振り向くと、李典が立っていた。
未だ不機嫌な表情は変わらず、普段羨ましいほど白い肌が砂ぼこりで薄汚れているのも相まって異様な様子だ。
「如何致しましたか」
「戻るぞ。送る」
「いえ、私は自分で帰れますから」
「いーや、ほらこっちだ」
無理矢理に手を引かれて場を後にすると、侍女の視線がいくつか刺さったのが香織には分かった。
李典は手を引っ張ったまま、先を歩いていく。振り返る気はないらしく、歩く速さも香織のことなどお構いなしだ。
広場を出て高官の勤める建物の方へ近付くにつれ、喧騒から遠ざかっていく。暫くすると手は離されたが、自ら帰るのは許されない雰囲気だった。
時折松明を持った見回りの兵とすれ違うだけになると、寂しささえ覚えるほどの静けさだ。
「あんた、そんな恰好であんな所をうろつくなんて何考えてんだ」
「申し訳ありません。仕事終わりにそのまま向かってしまいました」
「風紀の乱れに繋がる…って、俺が言いたいのはもっと気を付けろって事だ、わかるよな」
「はい…」
せっかく役に立とうと思ったのに、またしても小言を言われた香織はしゅんとして下を向いた。
「あーでもな、そうだ、助かったぜ」
「それは、良かったです…。」
疲労も相まってか、すっかり落ち込んでしまった香織に為すすべもなく李典は頭をかいた。
先の角を右に曲がれば宿舎へ。左に曲がれば自らの執務室がある。
陽は陰りきってきた。もはや灯りがなければ香織の帰路の足元も危うくなるだろう。
「助かったついでに、だ。俺の身支度を手伝って貰っても良いか?」
「へ?」
不意にかけた言葉は意外にも受け入れられなかったようだ。
それもそのはず、女官の香織が身支度を整えるなどという侍女のような事をするのは、本来ありえない事だった。
普段であれば詫びの言葉が出てくる李典も、今日はあまり虫の居所が良くない。
先の言葉はなかったことにしようと、誤魔化す意味で咳払いをした。
「あー、いや、次を右だよな」
「いえ!手伝います!左へ、左へ行きましょう。」
「おい、いいのか?」
父親の身支度を手伝ったことがあると香織は言い、侍女のような仕事を行う事を全く意に介していないようだった。
少し気になりながらも、李典は左に曲がり自らの居所へと向かう。
「先に足元から鎧を外していてください。ぬるま湯と手巾をお持ちします。」
香織はそういって部屋を出ていった。
兵が運んだであろう李典の武器は主より先に部屋へ着いている。自らと同じく埃まみれのそれは、明日にでも磨く予定だ。
立てかけてあるそれを横目で確認したのち、李典は椅子に腰かけて靴を脱ぎ始める。
脱いだ靴は脇に立てかけ、開放された足先の力を抜いた。ひざ当てを外すために前に屈むと、膝当てが傷だらけなのがよくわかる。
砂と土が細部に入り込んでいて、付けた時とは違い脱ぎにくかった。今回の戦は呂布の討伐という大仕事を抱えていたが、
軍師の念入りな策のおかげで想定より損害は少なかった。しかしながら火計が及ぼした自軍への影響は軽いとは言えず。
賈クという軍師が戦勝のために手段を選ばない男なのだと認識するには十分だった。
彼のやり方に少しの憤りを感じてはいたが、李典の怒りとも不満とも言えない内心は別のところにある。
「俺が殺しとくんだったぜ…、叔父貴…」
李典はそうつぶやき鎧を解いた膝へ肘を乗せて下を向いた。灯りの音さえも聞こえそうな静寂の中で、
ぽとりぽとりと板の間に水滴が落ちる音だけが響いた。
「李典様、お待たせいたしました。」
「お、おぅ」
香織の持ってきた桶の中からは湯気が立っている。
湯には手巾が浸されていた。
「あまり傷がないご様子。安心いたしました」
香織は李典の服に手をかけつつそうつぶやいた。
確かに、最前線にいたにしては傷が少ない。今回も李典の勘はよく当たった。
しかしそれを話すのは気が引けた。あまたの命の駆け引きを勘に頼るなど、魏国の将の品位に関わる。
「まぁな。俺ってこう見えても強いんだぜ。」
「まぁ、左様にございますか」
くすくすと笑う香織は先ほど李典の言に気落ちしていたとは思えないほどの明るさだ。
「お、ピンと来た!湯の中に何か香が入っているだろ?」
「はい。茶が入っております」
李典が茶化すように言葉を吐く。香り立つ桶がそばにあるのだから、香が入っているのは明白であった。
しかしその香の種類に、李典は目を見開く。香油を溶かすならばまだしも、茶を入れるとは。
「茶?飲むのか?」
「いえ、お茶は入浴にも良いのですよ。ただの湯よりも清潔になるのです。」
小さな傷が付いている体には緑茶風呂を用意できれば良かったのだが、生憎湯を張るほどの人手はない。
そこで香織は桶の中に茶を入れたのだった。かすり傷とはいえ、用心するに越したことはない。
「へぇ…。」
「背中をお拭きします。」
李典は香織に背を向けるよう座りなおすと、横目で桶を覗いた。
蝋の薄暗い灯りでは桶の中が茶で色付いているのかどうか見ることはできないが、茶の香りはする。
その間に香織は李典の背へ手巾を滑らせた。少ないとは言ってもやはり前線から帰還した者だ。傷がところどころに見受けられた。
「あー…すぐにでも眠れるぜ俺…。」
「ダメですよ。せめて新しい衣を羽織ってください。」
「だよなぁ」
よほど疲れているのだろうか。
ゆったりとした調子で起き上がり気だるそうに上衣に袖を通した李典を、香織は呆れ顔で見ていた。
自分の主とは異なる雰囲気。とても身近に感じられる素直な言動は、少し幼いけれども魅力の一つである。
「もう大丈夫だぜ。送っていく」
李典が立ちあがり椅子を卓の下に入れると、椅子の下の床板が水滴を落としたように濡れているようであった。
出来たばかりの染みに気付いた香織は、一瞬不思議な顔をしたが、李典に背を押されて部屋を出ることにした。
戦場に出ていたのだ、何か思うことがあるのだろう。香織はそう思って口を閉ざし、自らの宿舎へと歩みを進める。
「ここからは一人で参ります。送ってくださってありがとうございます」
「おぅ。気にすんな。」
ひらりと右手をあげて元の道へ戻る李典を、通路の真ん中に立ったままの香織はじっと見つめる。
きっと人には見せられないものを抱えているのだろう。深入りはすべきでないと自分を納得させ、宿舎へと向かっていった。