長編 魏
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出立が決まってからは一瞬であった。
おびただしい数の兵が城内にて整列し、曹操の合図と共に隊列を保ちながら城門を出て行く絶景。
香織はそれを人垣の合間から覗き見た。
これでも今回の出陣は数を減らしているという。いったいこの混乱した時代にどれだけの人々が生活しているのか、想像できそうにもなかった。
出立前に各将へ挨拶をするべきだと思ってはいたが、香織はあまりの忙しさに機会を逃してしまった。
「ご武運を」
たった一言、祈るような言葉で声をかけることの出来た主は手を振り執務室を後にした。らしいと言えばその通りだが、なんと呆気ない出陣なのかと少し気落ちしたほどであった。
国主自らが出陣した戦において残された兵は僅かで、場内はガランとしている。
文官の執務室は常と変わらず動いているようだが、雑務を任されることはあまりなかった。
同じ時期に入城した女官も、多くの者が長期休暇を取得して家に帰っているようだ。
それでも香織は実家に帰ろうとは露ほどにも思わなかった。
実際に目にした、あのおぞましい光景を思い出せば耐えられる苦痛であった。
向かいの家の潜入操作のように、実家が何かに巻き込まれる事は避けなければという一心である。
「豈に其れ魚を食らう…に、
必ずしも河の鯉ならんや。」
「豈に其れ妻を取るに、
必ずしも宋の子ならん…や。」
(河の魚を食べるのに、鯉でなければいけないことはない、妻を娶るのに、名高い宋の美人でなければいけないということはない)
早咲きの睡蓮が開き始めている。
外庭の四阿に腰を下ろせば、視界は自ずと池へと流れた。
借りた漢詩を、もう何度目か分からないほど繰り返し目を通す。
中でも香織が気にいったのは、人生観を著した素朴な詩だ。
色恋以外の詩にばかりにとらわれるのは、心の余裕のなさの表れで。
高貴な生活でなくとも幸せを感じることが出来、高価なものを手にしなくても喜びを得られる。
香織はこの詩に共感していた。
何も高望みをしなくても、幸福になる手段はあるはずなのだ。
大切なのは、両親を敬い兄弟を大事にすること。
香織はそれを信じて疑わなかった。
「香織さん?」
鈴の音のような声が聞こえ、振り向けば女官仲間が数人立っていた。
これから共に刺繍を見せ合うのだという彼女たちの誘いを受け、詩の書かれた竹簡をくるくると巻き取った。
「この花びらの配色は見事ね、まるで咲き始めた花がそこにあるかのようだもの。」
そう言って香織の刺繍を褒められると、悪い気にはならない。
「でも、あなたの鳥の羽根の方が素敵だと思うの。絹の光沢が羽根の艶を見事に表現しているのですもの。」
林杏(リンシン)というこの女官は、香織が一番親しみやすく感じている女性だ。
彼女の刺繍の感想を述べれば、ぱっと頬を赤らめた。
2羽の鳥が枝の上に並んでいるその構図はなんとも落ち着いていて素晴らしい。素朴な美しさに光を当てれば光沢が品を添えて、作った者の内面を豊かに表現していた。
「その…これを殿方に贈ろうと思っているの。どう、思いますか?」
「素敵よ。絶対に喜んでくれるはず」
別の女官が興奮気味に感想を述べて、刺繍と作り手に笑顔を見せる。
香織も頷いて同意すれば、贈り物になるそれを大切に折りたたんだ彼女が、周りの視線に根負けしたのか声を潜めて呟いた。
「て、典韋様に、」
そう口にした彼女の一拍後、充分に間を置いた後、部屋の中がくすくすと小さな笑いに包まれた。
香織も堪えきれず口を隠して笑ってしまう。
「あなたの刺繍は素敵だけど、典韋様には可愛すぎない?ね、香織さん。」
「えぇ、ほんとにね。」
「そうは言っても、猛々しい虎なんて…難しくて…。」
赤い顔をしたまま布を折りたたんだ林杏を香織は羨ましく思った。
もう2年も勤めている彼女は、未だに初々しい一面を見せることがある。
「この贈り物も、無事に戻られればお渡し出来るのだけど。」
林杏の一言で静まり返った部屋の外では、日差しを浴びて2羽の鳥が鳴いていた。
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「まぁ、本当!?」
「えぇ。今朝方、城に伝令が届いたそうです。」
林杏が口にしたのは城中が待ち望んでいた戦勝報告であった。
「李典様も楽進様も…皆様ご無事なのね。」
「あなたは賈ク様の所の女官だったと思うけれど。」
ふふ、と笑いながらも無事の旨を視線で伝えてくれると、香織の顔に笑顔が宿る。
「なんというか、賈ク様は死なない気がするので…。」
二人の会話を聞いていた女官長は、随分この城に打ち解けたものだと一層笑みを深くした。