長編 魏
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扉の向こう、そう遠くない場所から調練の声が聞こえる。
戦が近付くに連れて場内の空気がピリピリと張り詰めていった。
香織は、冷え込む中で調練に励む兵士に同情を覚えた。
許昌は国内でも北に位置する都市である。南部の都市ではもう随分暖かいのだろうとは、今朝偶然に耳にした言葉だ。
通りから聞こえた洗衣を行う下女の愚痴さえも娯楽の一つとしている自身に、香織はここでの生活に慣れてしまっていると溜息をついた。
しかしながら、どんなに溜息を吐いても香織の悩み事が体内から出ていくことはない。
誰もいない雑然とした室内で、溜息はよく響いた。
「不味いことになったなぁ…」
「何がだ?」
「賈ク様!いつも急に現れるの、やめてください!」
心臓に悪いです。振り返り、左胸を抑えつつ抗議する女官の姿に、賈クの鋭い目付きがが少しだけ和らいだ。
「あははあ、これは失礼。しかしここは俺の仕事場でもあるんでね。」
香織が賈クと話をしたあの日から執務室の居心地は格段に良くなっていた。
賈クから香織へ世間話を持ちかけられる事も少なくはなく、今までよりも確実に世の情勢に詳しくなっている。
賈クとの話題は女官同士のそれとは違い学ぶ事が多かったが、相手が香織の知識に合わせて説明を入れるので会話は弾んでいく。
「もう会議は終わったのですか。お早いですね。」
「策は整った。あとは敵の前で披露するだけだ。内政は郭嘉殿に任せてある。新人はまだまだ立場が弱くてね…どうした?」
急に曇り始めた女官の顔に違和感を覚えた賈クは、見るからに隠し事の下手そうな香織へ率直に問うた。
「う…その郭嘉様にお酒の誘いを受けたのです」
「ほぅ。郭嘉殿の目に留まるとは、あんたもなかなか…良い事じゃないか。」
その言葉に、賈クは何も疑問に思わなかった。郭嘉といえば酒と女だ。自分の所の女官が誘われてもおかしいことはない。
むしろ意外だとすれば、気乗りしていない香織の方だった。あの色男に誘われてこんなにも嫌な顔をする女がいるとは。
「良くありません!私、郭嘉様に【史書に明るい女性】だって思われているみたいで」
「女にしては明るいだろう?そこの竹簡の中身も詳しいと見える。」
二人が室内の書棚、下段に視線をやれば積みあがっているのは【史記】である。
その上にあるのは六韜、孫子兵法。この二つを読んだことがある香織は、ゆっくりと賈クへ視線を戻した。
「史記は読んだことがないんです。中身をほんの一部だけ知っているだけで!」
「あははぁ、じゃあ読むしかない。」
賈クはどこまでも他人事だった。
香織の表情は次第に青みが増していく。
「あの、お願いです賈ク様、お酒の席へ同席してくださいませんか。」
「そんな野暮な事は出来かねるな。」
むしろ、賈クは完全に面白がっていた。
ここ数日は軍議に追われて策の事しか頭になかったのだ。おおよそ出来上がった今、他愛もない話で頭を休めるのは軍師以前に人として必要であった。目の前の女官は顔色をなくしていくが、賈クにとってそれはほんの戯れ。
「それに、あんたの身の安全を考えれば、郭嘉殿の期待を裏切る事は出来ない。そうだろう?」
「気難しい方なんですか?どうしましょう。も、もし、もしですよ、大して教養がない事がバレたら、」
酒宴の誘いを受けた時には、気難しいような印象を持たなかった香織は、賈クの意外な発言に目を見開いた。
「はっきりとは言えないが、最悪の場合もあり得なくはない。俺にもあの郭嘉殿の心は読めないんだ。」
笑い出しそうになるのを必死でこらえながら、全く起こりえない話を作り出していく賈クに香織はまんまと騙される。
郭嘉が酒の席で激昂するわけもなければ、女に多くの知識を望んでもいないことは明らかだ。
この軍の軍師でさえ、郭嘉と対等に話せるものは少ない。それをたかが女官に求めているなんてことはなく。ましてや酒の席で大層な話をする事はありえなかった。
「よ…読むしかありませんね。あの、お願いです。書をいくつか貸してください!」
「あははあ、その意気だ。俺が出陣してる間にも読み続ければきっと終わるだろう。」
「あ、ありがとうございます!」
「お話し中すみません、失礼しますよ。」
話が綺麗にまとまった所で、部屋に来客があった。
香織が扉へと振り向けば、李典が立っている。砕けた会話を聞かれてしまって少し恥ずかしくなったが、慌てて端に寄り礼を取った。
李典はそのまま賈クと話を始めてしまう。端に退いた香織にも、話の内容は次の戦についてだろう事が聞こえる言葉から推測できた。
下ヒ、残雪、呂布。賈クが香織へと説明してくれた言葉だ。
次の戦は下ヒという場所。劉備に依頼されて呂布を打ち取りに行くが、雪で足場が悪いらしい。
「ところで、盛り上がっていたみたいですが何を話してたんです?」
「あぁ、うちの女官が郭嘉殿からお声を頂いたとさ。」
「そりゃ良いことだ。なぁ、」
「よ、良くはありません!誤解をされているんですから!」
賈クが李典へ事の次第を説明すると、途端に李典も神妙な面持ちになった。
その反応に香織は眉を寄せる。いったい郭嘉という人物はどれほど気難しい人間なのかとますます不安になる。
女官同士の話では、酒を好み、会話を持てばとても楽しく、穏やかな人だと専らの噂だったのだが。
「そういうわけさ。一大事だろう。」
「そりゃあ、当日まで気が抜けないな。」
李典と賈クは示し合わせたように下を向いた。二人は神妙な面持ちなどではなく、しかめ面で笑いを堪えているのだが。
「と、とにかく。書を読んでなんとか乗り切るしかありません。」
「そうだな、んじゃ、俺んとこのも読んでいいぜ。」
「そういえば、李典殿は書を読む趣味がおありだったな。」
「えぇ。…詩なんかも学んでおいて損はないはずだ。」
青くなったままの香織は無言で李典の書棚の前に立っていた。
父親の蔵書とはあまりにも内容が異なるそこに、どれを手にすれば良いのかさえ分からない。
手を伸ばしてはためらうのを繰り返した後、早々に執務を始めた李典へと目を向けた。
「あの、お勧めなどございますか。」
「そうだな、中段の左あたりか?」
李典は顔を上げて書棚と香織を見た。
必死に探す香織に、事の真相を話そうとする気持ちが湧き上がる。
このまま数ヶ月かそれ以上、自らの出陣の最中にも必死に書物を読み漁るのかと思うと、不憫に思えてきた。
「夫に捨てられた妻の詩…こっちは、嫁入り前の不安な気持ちが書かれてる…」
「そういう詩も役に立つんじゃないか?」
「なんだか女性のようなご趣味ですね!」
前言撤回。李典はすぐに思い直した。
読書は悪いことでもなければ、決して無駄ではない。
むしろ、書物を読む機会に恵まれた事を彼女は感謝しても良いくらいだ、そう思う事にした。
そしてその感謝は、いくつもの書物を提供する自分へも向けられるはずで。
なるほど素晴らしい役柄だと、李典は一人納得し、次の竹簡に手を伸ばした。そこには本来ここにあるはずでない竹簡が、一巻。
「あ。」
突然の声に香織が振り返ると、伝達用の小さな竹簡を手にした李典と目があった。
「お借りする物も決まりましたしそろそろ失礼します。承りましょうか。」
「楽進宛だ、頼む。」
自然と出た香織の仕事用の笑みに、李典もまた立場ある者として返事をした。
扉の前で声をかけると中から返事が帰ってきた。
男性の声がしたという事は、中にいるのは1人のみとなる。
途端に気落ちした香織をそのままに、部屋の主は扉を開いた。
「これは…香織殿、ですね!」
「失礼いたします。李典様より竹簡をお預かり致しました。」
「中へどうぞ」
伝達用の小さな竹簡を前に出そうとすると、扉を更に開かれてしまった。
受け渡しのために室内へ入る必要はないが、相手には何か用事があるのかもしれないと香織は一歩部屋へ踏み込む。
手元の竹簡を再度差し出し、ついでに話を促すために視線を向ければ、
武人然とした表情が意外と低い位置にあった。
楽進の視線は香織の手元、別の竹簡にある。
別の竹簡も手にしていた事をすっかり失念していた香織は苦笑いを返して手元の竹簡のタイトルを見せた。
「詩経、国風…ですか」
「先ほど李典様よりお借りした物です。」
「香織殿は詩を読むのがお好きなのですね!」
逞しい体格に似合わず少年のような笑顔に、香織は一瞬惚けてしまった。
「えと…いいえ、好むと好まざるとに関わらず読む事になってしまったといいますか、その…」
この人はきっと良い人。そう感じた香織は、先ほどからずっと抱えていた違和感をはっきりさせるべく、楽進に打ち明けることにした。
「失礼ですが…本当に李典殿がそのような事を?」
「も、もちろん本当です。当日まで気が抜けない…と。」
「だとしたら、何か誤解があるのかもしれません。」
話を進めるに従って、微妙な雰囲気が漂い始め、最後には誤解があると楽進は口にした。
実際に、楽進の知る郭嘉は女性に対して機嫌を損ねるような人物ではない。
教養の有無が酒席で問題になるとはとても思えなかった。
その上、目の前の女性は文字を読めるのだ。これ以上望む事があるのかと、楽進がいくら考えても答えは出なかった。
「誤解…ですか?では、郭嘉様は私の無知をお叱りになるような方ではないと…。」
「もちろんです!郭嘉殿は決して気難しい方では」
「あー!遅かったか…やな感じがしたんだよな、俺。」
突如荒々しく開いた扉。
楽進が香織より早く振り返ると、知った人間の姿があった。
「李典殿!これは良いところに!香織殿との会話に、何か誤解があるようです」
「いや、楽進、ちょっと黙ってろ…」
「……」
じとり。視線をやれば逃げるように李典の視線は動き、別の方向へ移った。
どうやらだまされたようだと、香織は違和感が確信に塗り替わっていくのを感じる。
「李典様。説明、していただけますか」
「あ…はは、はぁ」
李典はどこかで聞いたような言葉を口にした。