長編 魏

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「香織さん、賈ク様に何か買ってもらうことはあるの?あなたのところ、女官はお一人なのでしょう?」

「いえ、そういった事は特には。仕事のみの関わりにしているから」

「あら、勿体ないわ。女官は寵を得てこそよ。もしかしたら将来のお相手になるかもしれないのに。」

「そうよね、郭嘉様なんてこの間、」


女性の世間話に終わりは尽きない。この狭い城の中で何をそんなに盛り上がる事があるのか彼女たちは楽しげだ。冷めた気持ちになった香織は場を辞して庭へ出た。
外庭に吹く風が少しずつ暖かくなってきた。東屋に誰もいない事を確認して石段を登る。
正式に配属されて格段に上がった給金で購入した腕輪を撫でる。母に買ってもらった簪の青と同じだ。いつも付けているそれらはもはや体の一部のようだった。
腕輪を買った以外の給金は、そのほとんどを家に送っている。髪をまとめるための香油と、趣味の刺繍の材料。それ以外に買うものはなかった。
本来だったら見向きもしない刺繍に熱中しているのは、ここがそれだけ退屈な場所だという証。
そっと頭に手を伸ばすと、冷たい金属の質感が手に伝わる。
視線を池に向ければ、早咲きの睡蓮が蕾を付け始めている。水面に浮かぶ大きな葉のさらに上へと茎が伸びていた。
蓮。自宅で香織がよく着ていた衣の柄だ。桃色の布地に、母が刺繍を施してくれた白い蓮の花。

「おっ、珍しいな。」

後から声が聞こえた。香織が執務室で初めて会ってから数度、顔を合わせているため声でわかる。
振り向きつつ礼を取る。両手を胸の前で重ね、頭を下げた。


「李典様」

「あー。気にすんな。今日は暇なのか?」

「はい。今日は賈ク様が軍議に出ておられるため夕刻まで私は手透きです。」

李典は東屋の石段に一番近い椅子に腰かけた。今日は竹簡を手にしていない。
池を除いていた香織が東屋の出口へと向かうためには、李典の脇を通らなければいけない。自ら暇だと口にした香織は逃げるきっかけを完全に失ってしまった。
再び池を向いて視線を落とす。李典が東屋を離れるまで池を見ていることにした。
あまり間を明けずに李典は香織に問を投げた。

「賈クの傍は働きにくいのか?」

「いえ、そのような事は。」

はい、働き難いです。そう答えられるわけがない。質問の意図もわからず、声音から何も察する事が出来ないため、香織は単純に答えるしかなかった。

「他所の人間関係に口を挟むのは…あー、よくないってわかってるんだぜ、俺。でも、あんたのために今言っておこうと思う。」

「……。」

「悪いことは言わねぇよ。でも、少しくらい親しくしておいた方が良いぜ。」

「は、はい。」

お小言、というものだろうか。香織は唇を噛んだ。
賈クと香織の距離を女官長に見抜かれることはなかった。掃除も雑務も、香織なりにやっているからだ。
もちろんそれは賈クが女官長へ苦情を言っていない前提。何も言わないということはこの関係で良いという事だと安心していた香織にとって、李典の言葉は衝撃で。
一方で、返事だけをしたあと黙り込んでしまった香織に、李典はどうすべきか悩んでいた。

「その……これは勘だけどよ、あいつは悪い奴じゃない。」

「お、お言葉ですが李典様、賈ク様はつい最近敵方から降った方だと、」

「まぁな。このご時世だ。敵方の人間が味方になる事だってある。もちろん、見方が敵にまわる可能性だってあるんだぜ」

「それは、そうですが…」


香織には言い返す言葉が見つからなかった。
理解はしているのだ。この不愛想な女官を傍に置いておきながら女官長に文句を言わず、香織への嫌味もない。それだけでも賈クは出来た人間だと知れた。
遅くまで執務室で二人きりになってさえ手を出されることもなければ、気を付けて帰るように一言労(ねぎら)われることさえあった。

「そう身構えんなって。」

「は、はい。」

「でもまぁ、あんたの考え通り、この城の武官の中で働く事は簡単じゃあない。だからこそああいう奴を味方にしておくのは必要だと思うぜ、俺」

「…お言葉、感謝いたします。」



話の区切りが出来たところで丁度誰かが東屋へ向かって来る。
香織が今まで見たことのない男だ。外見が武官である事を物語っている事から職務の推察は必要ないが、誰なのかを把握したかった。

一人でパタパタと駆けて来る香織の知らない男はこの軍の一番槍を担っていた。

「李典殿!こちらにいらしたのですね!」

「おー。あんたまた鍛錬か。」

「李典殿をお誘いに参りま、…っと。」

あからさまに足を止めた楽進は、東屋へ登って良いものかどうかを躊躇ってしまう。
李典とはもう数年の付き合いになるが、こうして城の中で女性と話しているのを見かける事はあまりなかった。
以前郭嘉と共に行った妓楼での彼を思い出せば、李典が女性に興味を持っていない等ということはほんの少しも思うところではないが。
楽進は視線を李典から奥の女官へと移した。服を見れば女官で間違いがないのだが、知っている者ではないようだ。
それは仕方がない。ここ最近は自らの移動も、そしてこの場内の人員の移動も活発なのだから。

「きょ、恐縮です。鍛錬はまた後日にでも、」

「がーくしん、あんた変な勘違するなよ、ただの世間話だって。」

「では、私は失礼いたします」

香織は急いで礼の形を取り頭を下げる。そして頭を少し下げたまま東屋を降りた。
楽進の前で礼を取ったが、目を見ずに去る事に成功した。さっさと逃げようと足が急いてしまうが、あからさまに走るのは良くない。
小走りで賈クの執務室へと急いだ。

「だーから、信頼できる奴を一人でも多く作っておけって言ったばかりだぜ、俺…。」

李典の独り言を聞いた者は誰もいない。

楽進は過ぎ行く女官へ律儀にも礼を返し、そのまま去っていく背中を眺めている。
李典はその様子を東屋から見下ろしていた。
香織の去る姿を目で追った後、視線を李典へ向けつつ東屋へ登ってくる楽進の顔は訝しげだ。


「良かったのですか。」

「だから、そんなんじゃねぇって。あいつは賈クの所の女官だよ。新入りだから顔知らないんだろ?」

「あぁ!賈ク殿の。お一人で任されているそうですね。…それにしては、静かな方でしたね。」

「まぁな。静かっつーか愛想がないっつーか。」

李典の歯に衣着せぬ物言いに、楽進は笑顔を見せた。
この李典という男は飄々として捉えどころがないが、勘の良さだけでなく周りを見る目も肥えている。
そして、気になる物事に口を挟まずにはいられない性質なのだった。李典の内なる熱さは、自らと同じ。

「お名前を聞きそびれてしまいました。」

「香織だよ。賈クのとこに行けばあえるんじゃね?」

「香織、殿…。」

楽進は何やら香織に思うことがあるらしい。去っていった方角に再び視線を向けた。もちろんそこに香織の姿はない。
李典はそんな楽進を物好きな奴だと評した。椅子を仕舞い気だるげに東屋を降りていく。
一拍遅れて楽進は後に続いた。

「李典殿!これからどちらへ?」

「…鍛錬だろ?」

「はい!恐縮です!」





香織は急いで扉を閉めた。
主のいない執務室は普段以上に静まり返っている。李典に指摘された言葉が頭を過って、気分は急降下。
こんなことなら女官同士の世間話に耐えた方がいくらかマシだった。
竹簡の整理も終わっているし、机の上も綺麗なものだ。筆立てに付いていた墨は朝のうちに拭いてしまっていた。
やる事はないが何かやっていないと気分が落ち込んでしまう。

「携帯でもあれば暇をつぶせるのに。」

日が傾き始めている。もうすぐ賈クの帰ってくる時間のため、自室に帰る事はできなかった。
棚に並んだ竹簡の紐を手で正しながら、紐の先に記されたタイトルを目で追っていくと知った文字が目に留まった。

「…六韜ね。これは父上の部屋にもあった。」

竹簡の一つを手に取った。綺麗な文字で書かれたそれはあまり開かれてはないようだ。
香織の父が持っていたのは注釈付き。ここの六韜には解説が付いてないようだ。
それもそのはず。こんな基本書を魏国の軍師が解説付きで読むなんてことはないだろう。注釈を付けるべき立場だ。
おそらく、解説は既に彼の頭の中。
綺麗に丸めて戻すと、隣の下の段の竹簡を手に取った。「史記」と書いてあるそれは父の部屋で見たことはないが、どこかで聞いたことがある。
きっと有名な書物であろうそれを広げていく。こちらもあまり広げられた事のないほど綺麗なものだった。竹簡の1本1本に角がある。
開いた竹簡を右側から順に読んでいく。歴史書というよりも物語のようにして理解できる内容のそれは、香織には縁のない戦場の足跡。


「項王の軍、垓下がいかに壁す。兵少なく食尽く…。これって項羽と劉邦、なのかな。 」

『項王』という名前から推測すると、香織は項羽と劉邦くらいしか聞いたことがない。教科書で学んだその名著へ行きつくのは、知識のなさが生み出せる単純な発想。

「おや。美しい方が広げれば史記でさえも華やぐ。」

聞きなれない声が聞こえて香織が扉へ向けば色素の薄い髪に肌の白い男が立っている。
その後には賈クがいたが、こちらは普段通りの表情をしていた。

「ふふ。驚かせてしまったね。」

「し、失礼致しました。気付くことが出来ませんでした。」

「あははあ。ほら、郭嘉殿、今日は見るだけだ。さ、帰った帰った。」

「そうだったね…残念だ。史書に明るく美しい女性を、今夜の月見の席に誘いたいけれど。…うん。それはまた今度…かな。」

頭を下げた先でのやり取りに緊張が高まった。今日は2人も新しい将に出会ってしまった。
手をひらひらとさせて出ていくのを見て頭を上げた香織は竹簡を整えて棚に戻した。
郭嘉と呼ばれた男はゆったりとした所作で部屋を出ていく。
武人…とは呼べない細い体格に、執務室を覗いた時の10人の女官を思い出した。皆笑顔の絶えないたおやかな美人。

「郭嘉殿も困ったものだ。気分を害さんでくれ。」

「いえ、軍議お疲れ様でした。お茶をお持ちします。」

普段よりも笑顔で言えた。香織はそう確信した。賈クの意外そうな顔を見れば、それは一目瞭然。
香織は茶器と茶筒を乗せた盆を持ち、部屋を出て厨房へ急ぐ。

茶器といっても急須なんてものはない。
お茶というのは、蓋碗に入れた茶葉を熱湯で洗って再び熱湯を注いて抽出しただけの簡素なもの。
賈クは物に縛られない。茶葉だって、支給された簡素なものだ。
他の女官を見習って、香織が積んだ花を乾燥させて入れた事があったが、味の違いにさえ興味がなさそうだった。

「お待たせいたしました。」

「参ったね。休む暇なく戦続きだ。俺も出ることになる。」

「それは…急な話ですね。」

香織の言った『急』には2つの意味があった。
一つは急な出兵だという事。もう一つは、降ったばかりの軍師を次の戦で使うのが急だという事。

「故に兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり。」

「…孫子ですね。拙い策でも良いから戦は早く終わらせなさい、と。」

「あははあ。わかってらっしゃる。今回は失敗してもうちが被害を被る戦じゃあない。短期間で新人を試すにもってこい、なのさ。」

「左様にございますか…。」

「そんな事より、急にどうしたんだ。」

『どうした』とは。賈クの発言にも2つの意味があった。一つは兵法の知識がある事を明かしたこと。
もう一つは、不愛想なはずの女官がよく話をしていること。
香織が視線を合わせると、賈クは笑顔の下で何を考えているのか分からない目をしていた。
突然の態度の変化に怪しむのは当然。

「孫子は実家で読んだことがあるのです…注釈付の物をですが。」

「俺と話す気になったのは?」

「李典様が。信頼できる方、だと。」

「他所の人間関係に口を出すとは、あの人も物好きだ。だが、感謝しておこう。」


受け取った茶に口を付けた賈クは心なしか笑顔だった。

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