長編 魏

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魏宮に滞在している人数は香織の予想よりも文武に関わらず少なかった。
洛陽を始め、近隣の治政に人を割いている。国境を広げようにも、足場を疎かにはできない。
人が地方から戻って来ては、新たな人員が地方へ移動する。出入りが激しく、香織は常に新しい将の顔と名前を覚えなければならない。
多くの部屋の掃除や施錠の確認、廊下の灯の管理はそこそこの仕事量になった。



未だ見習いの立場である香織は日が暮れて順番に夕食を済ませた後は灯りの確認を行うことになっていた。
薄暗い廊下を、柱に打ち付けられた燭台に灯った炎がぼんやりと照らす。
静まり返った宮の中。夜は少し不気味であった。
人もまばらになり、廊下から見える春になる前の庭。花はおろか葉さえも付いていない。実に寂しい風景。
昼間は太陽の光を反射して輝く池さえも、何もかもを飲み込むかのような黒い穴がぽっかりと空いているように見える。


西側にある外庭の東屋は庭園の池に迫り出しており、廊下からは一度庭に降りて石段を5段登ったところにある。月見のために作られたのだろうそこは満月の明かりを浴びて周囲より明るくなっていた。
外庭は中庭に比べて風が常に吹き流れる分肌寒い。そんな場所で書に目を通す男がいた。

身につけた鎧を見ると武官のようだが、今まで目にしたどの武官よりも細身でありまるで文官のような雰囲気だ。その上、東屋の卓に竹簡を幾つか積み上げているところを見ればかなりの読書家。魏軍の将としては稀な部類の人物だった。

指導された内容では、この東屋は蝋の節約を兼ねて毎夜付ける必要はないと言われた場所。
しかしながら利用者がいるのなら話は別だと香織はそっと近付いた。
東屋の中央には卓があり、その卓を取り囲むように同じデザインの椅子がある。香織は東屋の柱の内側に打ち付けられたあまり灯りをつけた形跡のない平皿のような燭台へ自らの持っていた灯りを傾けた。
四ヶ所の柱にも灯りを灯すと、闇に包まれた庭の中で東屋だけが浮かび上がる。

最後の燭台の芯へ火が灯り、残り少ない蝋が溶けていった。
蝋が減ってはいるが、その割りに蝋の表面には埃が溜まっている。
前回使ってから暫く放置されていたようだ。香織は蝋を換える必要がある事を確認し、未だ竹簡へと向いたままの武官に一礼して東屋を後にした。
武官は竹簡から顔を上げず一度も香織と目を合わせなかった。香織は不愛想なものだと感じたが、ほっと胸を撫で下ろす。暗闇の中、さらには人の少ない庭で武官と話をする気にはならない。


あの日から東屋の武官を見かけるようになった。名前は分からないが、相手が話しかけてくるまでこちらから声を掛けるのは憚られる。
毎夜東屋に灯りを灯し、沈黙したまま灯りを付けて一礼。黙って立ち去るのが無難な振る舞いだと確信していた。
まるで流れ作業のよう。


池の花を眺めながら長い廊下を歩くと、ふわりと香りが漂ってきた。女官だろうか。高貴な女性の焚く檀香に穏やかな気持ちになる。
思いもよらない平穏な時間に拍子抜けしながらも、香織は日々己を隠し目立たないように過ごしていた。
全ては安全に魏宮での日々を終えるため。
魏宮からの解放を待つだけの日々に、少しだけ感じるのは退屈。
あたりまえだった妹や弟の日々の成長。母との他愛もない話。それらがただただ懐かしい。




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「あなたを武将付きの高級女官へと配します。お父上の期待を裏切らないように。」

城内の人事を管理する部署の官から耳打ちされた内容は、香織の父親が画策したであろう結果で。
香織は苦虫を噛んだような顔をしそうになるのを必死で隠して、廊下の端でこそこそと話をする役人へ当たり障りのない礼を述べた。
見習い期間で学べる事はなるべく多く学んだ。人事を尽くして天命を待つとは言わずとも、後は運任せだと腹を括っていたのは確かだ。
しかしながら心の何処かで文官の元に付きたいと願い、書類の整理や竹簡運びを積極的に任されていた事も事実だった。
そんな些細な香織の努力は父親の思いやりの上に水と泡となってしまったが、後悔しても後の祭である。
乱世故か、文官の元で働くよりも武官の元にいる方が給金も良ければ城内での扱いも良い事は確かであり、嫁ぎ先も格が上がるだろう。
武官の元で働くのは良い事だらけだ。ただ一つ、そこでは身の危険を伴う事を除けば。


見習いとしての仕事もあと僅かだと思えば、燭台に火を灯す仕事さえも大事に感じてしまう。
静まり返った暗い廊下にジリジリと音を立てて柱の蝋燭へと火を移す。
東屋には今日もあの武官が腰掛けていた。
何度も繰り返したこの東屋での作業も、そのうち出来なくなる日がくるのだろうか。
なぜか大切な思い出のように思えてきた香織はなるべくゆっくりと火を移し、燭台に火をともした。

「おっ、ピンときた!あんた、今日はいつもより元気がないな?」

「えっ、あ、」

「おい、どうした?」

「いえ、し失礼いたしました。」

俯いて書を読んでいた男が、いつの間にか自分を見上げている。
突然声をかけられたことに驚いた香織は柱側へ一歩距離を取った。手元の炎が激しく揺れて、解けた蝋が手にかかる。

「熱っ」

「あ。おい、大丈夫か」

「は、はい。」

頭を下げて次の柱へ小走りに向かうと燭台に持ってきた火を傾ける。
武官の視線が背中に突き刺さっている。下手に無視をして礼を欠いたと言われるのは恐ろしいと思った香織は、燭台から離れそろりと武官に向き直った。

「名を名乗るのが遅くなりました事、失礼仕りました。私、香織と申します。」

「香織か。毎回感謝してるぜ。俺は李典ってんだ。」


魏の武官にしては少し軽過ぎるような印象の男は李典と名乗り、頭をかいた。
今のうちにと慌ただしく礼を取る。将の中にはとても女好きな人間がいるらしいという噂を聞いたのは最近の事だ。
外見だけでなく中身も華やかで、どんな女性にも優しいのだとか。酒と女を愛する噂の将の名前を、香織はまだ知らなかった。
この軽い接し方からして、もしかしてと思った香織は変な話になる前にここを去りたかった。


「それでは失礼致し」

「あんたいつもと雰囲気が違うよな、大丈夫なのか?」

「はい、お心遣い感謝致します。失礼いたします」


香織は逃げるように東屋を降りた。廊下の灯りを付けつつ視線だけ東屋に向けると、先ほどの武官と目があったような気がする。
無駄に人と関わる事はさけなければ。そう自分に言い聞かせ、平常心を心掛けて残りの灯りを灯していった。
残り少ないこの仕事を大切にするのも忘れて。




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「あんたが香織って奴かい?俺は賈文和だ。まぁ一つ、よろしく頼むよ。」

「っ、香織と申します。新人ゆえ至らぬこともありますが、何卒、よろしくお願い致します。」


昨晩から考えていた自己紹介の言葉は、緊張の最中に忘れてしまった。
全く教養の感じない自己紹介。飾り気のない言葉の羅列にきっと相手は落胆したに違いない。
着任早々、家に帰りたいという言葉が頭を離れなかった。
今まで一度も見たことのない将を前に、声が震えてしまう。

「あははあ。そんなに硬くならなくていい。俺も魏に降ったばかりの新人って奴でね。それにしてもあんたも付いてない。先の戦で降ったばかりの軍師に配属されるなんて、ね。」

「は、」


息が喉から出てこない。上手く言葉が話せなくて、香織は目を見開くしかなかった。
目の前の男は今なんと言ったのか。

賈クは敵から降った新入りだと口にした。
香織が頭の中で整理する。
【先の戦】は宛城での戦。確か、典韋様が大怪我を負って今も療養中で。怪我を与えたのは姑息な手段を用いた敵方の軍師だと専らの噂。


その敵方軍師が今香織の目の前にいる。典韋を罠に嵌めた姑息な軍師が。

「ひっ、」

言葉は結局出て来なかった。視線を合わせる事すらかなわない。
香織を一瞥すると、賈クは眉をあげ微妙な顔をした後、机に座り書き物を始めてしまう。
あまり魏の人間と関わりたくないのかもしれないと適当に言い訳をして香織は部屋の隅、扉の近くに立った。
関わりたくないのはむしろ香織だ。これから務める仕事場が得体の知れない男の執務室になってしまった。
何を考えているのかさっぱり分からない男と同じ部屋で毎日を過ごす事になるのだ。


父の努力が功を奏したと言えるのか、香織にはまだ判断が付かない。
考えようによっては、侍女として衣類の洗濯を担当する方が平穏無事だったかもしれなかった。
頭の中に浮かんだ父親に舌を出してやった。憂さ晴らしにさえ足りない行為だ。



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「軍師殿、報告書を持ってきました。」

「この声は李典殿か、これはお早いこって。香織殿、戸を開けてくれ。」

ふと扉の向こうから声がした。香織が視線を賈クに向けると丁度良いタイミングで扉を開く許可が下りる。
李典の名に聞き覚えがあったが、まだ配置されて数日、来訪者の顔と名前が一致しない。


「「あ、」」



扉を開けると、以前東屋で見かけていた武官が立っている。
手には3つの竹簡。記録用だろうか、重厚な竹簡だった。
一瞬遅れて香織は礼を取る。体の前で重ねた手が震えてしまった。

「お二人は知り合いか。」

「あー。まぁそんなとこだな。」

「い、いえ。」

口にした言葉の意味に香織が気付いた頃には時すでに遅く、李典の返事を完全否定した香織を賈クは驚いた様子で見ている。
李典はまるで気にしていない。香織はあまりの気まずさに視線を合わせるのをやめて書簡を受け取ろうと手を伸ばした。

「赤い紐が楽進の報告書、んでこっちの二つが俺の」

「あははぁ。これはお互い嫌われてしまったかな」

賈クは説明を受けながら常と変らない口調で李典に話しかけた。その言葉に李典は少しだけ驚く。そこまで長く務めているわけではないが、武官に媚びない女官を見たことがなかった。
寵を失えば追い出されるのは間違いない。下手をすれば、何かのきっかけに命さえもなくなるのだ。
李典は受け取った竹簡を静かな足取りで棚へと並べる女官を見つめ、愛想のない女だと思った。
周りを見渡せば所狭しと竹簡が重ねてある。飾り気はないが、埃もなかった。仕事は、しているらしい。

「そう、みたいだな。そういえば、賈ク殿の他の女官は?」

「断られてしまったようだ。まぁ敵方から降った人間なんてこんなもの、さ。」

「それはなんとも災難、ですね。ではこれで。」

李典はそのまま賈クの執務室を後にする。賈クとは気が合わないわけでもないが、変な雰囲気の中にいるのは苦手だった。
李典は廊下で賈クの女官の顔を思い出した。他の人間が断ったというのに、あの女は自らの役目を果たしていると思えば少しはマシに思えた。


定位置である扉の前に立った香織は顔には出さず衝撃的な事実に驚いていた。配置を断る事が出来たなんて、と。
冷静に考えれば、この多忙な軍師に女官が一人しか付かないことは考えられなかった。
香織が竹簡を渡しに行った事のあるいくつかの部屋を思い出す。
厳格だと噂の于禁の部屋には女官が2人、一番槍に名乗りをあげるという楽進の執務室には3人、賈クと同じ軍師である郭嘉の部屋には10人近くの女官がいる。
将が不在の時に竹簡を持って行った香織は本人を見たことがないが、女官が多いところを見るにつけとても良い人達なのだろうと彼女たちを羨ましく思った。








 

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