長編 魏

□1
1ページ/1ページ



「母さま、香織です。ただいま戻りました。」

「おかえりなさい。外は寒かったでしょう。さ、火鉢の近くで暖まって。」

「母さま、市で噂を聞きました。曹操様が濮陽を取り戻されたとか。」


ぱちぱちと燃える炭の音がする火鉢に、手を当ててしゃがみこんだ。
あまり近づきすぎると大事に着ている絹の衣に煤が付いてしまう。
衣は淡い桃色の布地に、所々に白い蓮の刺繍が施してあるお気に入りの衣だ。
火鉢に被せている穴の開いた蓋の隙間から暖かい空気が出てくる。
香織が訳も分からぬうちにこの時代に来て、この家族の世話になって。もう何度目かの冬が訪れていた。
着るものも持ち物も異なっていた香織も、時と共にこの場所に慣れていく。
香織の帰宅を聞きつけた4つの妹が走って迎えに来た。家の中にいても冷えるため厚着をしている。
ただでさえ短い手足がさらに強調されて短く見え、もこもことしていてかわいい。

「ねぇさま、お帰りなさい!」

「あらあら…。では、また父さまが忙しくなるわね。ねぇ。」


香織の元へ走り寄る妹を微笑みながら見下ろした母が、妹に話しかけるようにして香織の言葉に相槌を打った。
父は城で文官として勤めている。位はそこまで高くないらしいが、仕事はあるらしい。先日忙しいと愚痴を零していた。
母の手には竹のザルが握られている。そろそろ夕食の準備を始める時間だ。

「ねぇさまぁ。お土産はー。」

「もう、お土産の事は母さまに内緒って言ったでしょ。今日は綺麗な桃色の紐を買ってきたの。あや取りの紐、切れちゃったからね。」


頭を撫でて糸を渡すと、妹は赤い頬をさらに赤くした。


「香織、あなたに渡したお小遣いをこの子のために使うことないのに。」

「私は市を散歩しただけで十分満足していますから。」


許昌というこの町の小道で倒れていた香織を拾ってくれて早数年。
親切にしてもらっているし、本当の母娘のように思うこともある。当然家族の一人として振る舞っているつもりであるし、時には喧嘩だってした。
しかし香織が遠慮してしまうのは、やはり仕方のないことだろう。
市の中を歩いて並んでいるものを見て回って。人々のうわさ話に耳を傾けているとどうにも自らの欲を満たそうという気にはならなくなる。

戦のせいで金属の値段が跳ね上がり、日用雑貨の価格が上がっただとか。
労役に駆り出されて農民が足りないため、不作になった野菜の価格が上がって購入を諦めている人を見たりだとか。

香織の聞いた市の人々の話では、先日遠い濮陽という都市で戦があったらしい。
呂布という人物から濮陽を奪い返し、ここ許昌を中心とする曹魏は一層活気づくだろうという話だった。

「そういえば、明日これを売ってこようと思うの。」

「母さまの衣を?どうして?」

「炭を買うのよ。重いだろうから人を何人か連れていくけれど、あなたも付いてきてくれる?」

うちもついに絹を売る日が来たのかと、香織は溜息を吐いた。
弟が通う学問所も、炭をあまり使わないようにしていて寒いのだそうだ。
寒くて手がかじかむため、弟は中々学問所に行きたがらない。教育熱心な父の手前、しぶしぶ通ってはいるが。
家に帰れば香織に書物の内容を教えてくれるほど勉学を好むまじめな弟が、である。
香織が妹に読み書きを教えていると、逆側に座って書物を読み始めるようになった。
もう弟も7つになり一人で勉強したいだろうに、暖を取るためには仕方がない。
恵まれた世界を知っている香織には、この国がこれから活気づくとはとても思えなかった。



======



「思ったよりも良い値段で売れてよかったわ」

「母さま、次は私の衣を売ってください。」

「年頃の娘の衣を売るだなんて、そのような事はできません。…あらこの髪飾り、」


炭を持つために呼ばれたはずなのに、絹を売ったお金の一部で炭を買うと、早々に下男に持ち帰らせてしまった。
何か別の理由があるのだろうかと思っていると、髪飾りを並べた市の前で母が立ち止る。

「こんにちは。娘のために髪飾りが欲しいの。見せてくださる?」

「そこのお嬢さんですかい?それなら、この青い石の付いた飾りはいかがでしょう。」

「あら、年頃の娘に桃色より青を勧めるの?」

「許昌ではこの青い石が人気なんです。名のある家の若い娘は、皆青い石を求められるんですよ。」

自分のための髪飾りだというのに、香織はどこか上の空でやり取りを聞いていた。
母の嬉しそうな横顔を見ると、無理に止めるのもはばかられる。
青い石が人気。青と言えば、先日戦に出かけて行った武人の一団も青い衣を纏っていたのを思い出した。


「はい。香織。大事に使ってね。」

「ありがとう。母さま。」

商人と母の話は纏まってしまったらしい。小ぶりではあるが、深い青の石が付いた髪飾りが、手の中できらりと光った。
母は機嫌よく店を後にする。自分の物を見ることはせず、このまま帰るらしかった。

「そういえば香織、向いの娘さんの話は聞いた?」

「向いの娘さんは魏宮に奉公に出ているのでしょう?」

「それが、何やら城内の争い事に巻き込まれて戻ってきたらしいの。」

「そんな…。」

母親の何の気ない話に香織は衝撃を受けた。
貧しくなる家のため、魏宮に上がって働ければと思ったことが何度かあったのだ。
城で働けば、香織の分の食事や生活費がいらなくなり、さらには給金を家族に送ることもできる。
軍医であるご当主の伝手(ツテ)で奉公に上がった向いの家の娘のようになりたいと思っていた香織にとって、それは恐ろしい話であった。
母親はどこか他人事のようにつぶやいた。

「娘が魏宮に上がるなんて良い事なのに、この乱世では何事も喜ばしい事だけではないのね。」

香織の頭に冷え切った現実が突き刺さる。ここは遠い昔の、国が纏まっていない時代。
見聞きした情報をまとめると三国時代のようだけれど、詳しいことは分からない。
ただ確信を持って言えることは、ここでは女性の人権どころか男性にも基本的人権が認められない事。
ほぼ泊まり込みのようにして働く父も、魏宮ではどんな気分で毎日を過ごしているのか想像もできなかった。
ここは将来の夢どころか明日の生活を語る事さえ危ぶまれる場所、そんな、時代。

「この乱世、お城に入った多くの女性は無事では済まないのでしょうね。」

香織が髪飾を握りしめ、思いつめた顔でそうつぶやいたのを聞いて、母がその手を優しく包む。
母は香織に微笑みかけると、何事もなかったかのように家の方角へ歩き始めた。
香織は母の背を見つめ、なんとかして生き抜かなければと願った。
父も母も、妹も弟も。誰も欠けることなく生きていきたい。ただそれだけの事が、ここでは精一杯の願いになる。

「みんなで一緒に生きていきたい。」



香織の決意を誰も聞くことはなかった。




================



「父さま、冗談でしょう。」

「冗談なものか。嫁入り前に城へ出仕すれば箔が付く。」

「香織、そんなに怒らないで。父さまにはきっと何かお考えがあるのよ。」

それは数日ぶりに帰宅した父からの、突然の言葉だった。



香織の決意からそう時間のたたない内に、許昌へと帝が迎え入れられた。
帝の移動により許昌の女性が城へ呼ばれることになった。
帝が直々に連れてきた人手では足りず、信頼できる魏宮の女官を帝の邸宅へ移したのだという。
身分の低い出の者を帝に使えさせるわけにもいかず彼女たちはそのまま残っているが、魏の官吏に使えていた女官だけがいなくなってしまった。
結果、魏宮の人手が足りなくなったというわけだ。


洛陽は戦火にのまれ壊滅状態。女性もその多くが亡くなったのだという。
世間は慢性的な女性不足。
この機に乗じて娘を入城させようと、父は積極的に働いていた。
既に入城の日取りも決まっているというし、配置もそれなりの場所を考えてもらえるのだと、自身に満ちた顔で父は言った。




========

乾燥した空気が肌を切るように冷たい。

竹簡を広げると乾燥した竹の軋む嫌な音がした。
この古い書物は父の蔵書で、六韜という兵法書だ。
父の竹簡棚には男性が好みそうな書がいくつか並んでいて、読んでも良いと言われている。
城に入るならと再び復習を兼ねて読み始めたが、気の迷いが読書の邪魔をした。


父の言葉を反芻して冷静に考えれば、父の意見はもっともであった。
しかしながら腑に落ちない事に、父の目的は半分が自分の出世のため、半分が娘のため。
出世のために使われるのは嫌だったけれど、父の出世が妹や弟、母のためになると思えば、香織は我慢するしかない。
近隣の農村では売られる女性だっているというが、香織は自分の立場を恵まれているとは言いたくなかった。
本当であれば、今頃は学校にいたはずだ。
それでも、家族のために入城すると考えれば香織を拾ってくれた恩を返すには十分なチャンスだった。

気晴らしに庭の花を剪定していると、外から馬のいななく声が聞こえた。
威勢の良い商人の声が静まり、あたりが急に静かになる。

「李典殿、ここですね。」

「ったく、俺らはつい先日帝の護衛に出たばかりだってのに」

「殿直々の仰せです。仕方がありません」

「はぁ。さっさと片付けるぜぇ、俺!」


バタバタと人が走り込む音がして、向かいの医者の家へ大勢の男が入っていく。香織は塀の隙間から顔を覗かせて、視線の先、広がる光景に体を強張らせた。
先端に車輪のようなものが付いた武器を軽々と持ち上げた男が向かいの家の前で兵に支持を出している。
兵は邸宅の中と外を入れ違いに出入りしており、血まみれになった者もいた。

「お、ついに来たな。ここは通さねぇぜ。ほどほどに痛めつけて捕まえて来いって、命令だからな。」

男が武器を振り上げたのを目にした香織は、目をつぶって後ろに向き直ると一目散に自宅に掛け込んだ。

医者の家の下男が他国と通じていたのを知ったのは、それから暫く経ってからだった。






 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ