エンパ 徐庶

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誰も治めない国4




遠い所から凄まじい轟音と人々の声が聞こえていた。悲痛な叫び声なのかうめき声なのか、はたまた喜びの声なのかそれは区別がつかないが、とにかく大きな声だった。
椿は留守番を言い渡されて、必要な時以外は幕舎の中から出てはいけないと陳宮から固く言い含められている。幕舎で過ごす事になって3日目ともなれば見張りの兵とも打ち解けてきたほどだ。

「椿様。何やら曹操様からご伝言があるようです。」

「曹操様から?」

椿は呼ばれるままに幕舎の外へ顔を出した。見張りの兵2人と、それから伝令を頼まれた村人だろうか酒席で見たことのある顔があった。

「戦が決しようとしているので、連れてくるようにと。」

「戦場にですか?私を?」

「はい。」

戦場に出られないからこうして幕舎で待機しろと言われているのに、急に何を言い出すのかと疑問に思った椿は眉根を寄せた。けれども曹操の言葉には度々理解の範疇を超えるものがあって、それらは後々になって理由が分かるものも多い。不審に思いながらも言われるままに頷き、導かれるままに馬に乗った。
馬は全速力で荒野を駆け抜ける。遊園地でも経験したことのない上下の揺れと不足している安全装置の設備に恐れをなした椿は前に座る女性に回した腕をきつくした。それでも体が固定されることはなくて、目を瞑って恐怖から逃れるように何も考えずに耐え忍んでると、だんだん騒音が大きくなっていき、ついには目的地に着いたらしい。
騒がしい様子は未だ戦が終わっていない事を表しているが、それでも閉鎖された拠点の中だから、人々はじっとしていた。

「そなたが天より召還された異端の者か。」

「…え?あなたは、」

「神妙に聞くがいい。汝こそ、我に天から遣わされた同志よ。」

名乗る事もなく勝手に話を始めた男は、椿の腕を掴んで拠点の中央に立つ祭壇のような場所へ連れて行った。火の灯されたそこは何をするところなのか分からないが、どうやら拠点の中心地であるらしかった。

「これで大援護射撃は阻止したも同然。兵の士気はこちらが上。本陣を守り抜く手筈は整った。今こそ、天罰を下さん!」

大きな声と共に拠点の扉が開き、外から大勢の人間が入ってきた。テレビの中で報道陣に囲まれる人はこういう気持ちなのかと、椿はあまりの非現実的な状況に恐怖心さえ浮かばずに突っ立っていた。

「椿殿…!?どうしてここに、」

聞き覚えのある声が大勢の人々の割と先頭の方の場所から聞こえてきた。先陣を切るのは身分の低い者の役割で、一般に在野の人間の役割であった。

「徐庶さん!」

「早くそこから離れるんだ!」

「裁きの時は来た! 地の奇跡よ!!」

椿の目の前に立った男の声が拠点中に響いた後、巨大な炎の玉が地面に打ち付けられて、侵入してきた連合軍を襲った。男の背中に隠れて見えないがその中には徐庶がいたはずで、人や物の焼ける焦げ臭い香りを気にする暇もなく椿は徐庶の名前を叫び続けた。

「しっ…こっちだよ。」

耳元で聞こえたその声は椿の叫んでいた相手に違いはなくて、いつの間にか出ていた涙を拭くこともなく顔を向ければ初めて見るほど冷たい表情をした徐庶の顔があった。引っ張られるままに拠点の端へ連れていかれ、斉射台と拠点の壁に囲まれた隙間に閉じ込められた。

「ここでじっとしておいてくれ。良いね。」

「うん…は、はい。」

椿の言い直した言葉を聞いた徐庶は少しだけ笑って、次の瞬間には拠点の端から戦の中心へと戻っていった。徐庶が戻った時には主要な人物が張角と相対している。陳宮、荀イク、曹操、孫堅、そして何進。袁術は拠点で待機しているので前線には上がって来なかったのだろう。
徐庶が戻ってきたのを目に留めた荀イクは張角の周りに張り巡らした杖の陣を起爆させるべく杖を握りしめた。

「終わりにしましょう…よろしいですね。」

静かに、けれども自信に満ちたその声が徐庶の耳に届いた時には、張角は光の帯に包まれて拠点の真ん中で膝を折っていた。







「なにゆえ、なにゆえ幕舎を出られたのです。」

「だって…人が迎えに来たんです。曹操様の命令で、迎えに来ましたって、言われた、から…」

尻すぼみになる言葉を陳宮は最後まで聞いて、目を大きくさせた。曹操がそんな命令を出すことはもちろんありえない。戦場に武術を心得ない女を連れて行くとすれば、金で買った遊女くらいのものだ。
陳宮は椿の手足を見て傷がない事を確認すると安堵した。流れ矢に当たる事も、火矢が頬を掠める事もなかったのは幸いだ。それらは全て、斉射台と拠点の壁に囲まれた場所に連れて行った徐庶のおかげなのだが。

「それでは、そのものを割り出さねばなりませんね。あなたの名前を知っているという事は、我が陣営に間者が送り込まれているという事ですから。」

「荀イクさん、迎えに来た人は女性で、酒席の時にもいた人でした。たぶん、給仕をしていた女の人…」

荀イクはその言葉に頷くと、そのままどこかへ姿を消してしまった。前線に配備された拠点の中でも、荀イクのやる事は多いのだ。直後に陳宮も人に呼ばれてしまい、椿は一人でぽつんと何進軍の拠点に取り残された。手持無沙汰のまま壁に背をあずけ、忙しそうに働く人々を見やれば、自分がいかに役立たずな存在か思い知らされる。
人々は椿に目もくれず戦後の後片付けに専念していた。死体の処理は早くしなければ3日も立つと悪臭で近づけなくなるのだ。

「君に怪我がなくて良かったよ。」

「あ、徐庶さん。」

安心したような声が聞こえて振り向けば、徐庶が椿のすぐ近くまで歩いてきた。在野の身の徐庶は戦後処理に手を割く必要がなく、やる事を探していた時に椿を見つけたのだった。徐庶が椿を見た中では一番悲しそうな顔をしていた。勝鬨を上げた陣営にはふさわしくないその表情に勝手に出てきた事を陳宮に怒られたのだろうと予想し、慰めるために近寄ったのだった。

「陳宮殿に怒られたのかい?」

「す、少し…」

「じゃあどうしてそんな顔を?」

「戦って、勝っても全然嬉しくないんですね。」

椿は運ばれていく死体を見てそう言った。荷台に乗せられた死体は物を扱うかのように積み上げられ、どこかへ運び出される。徐庶はその言葉に複雑な気持ちを抱いた。許昌に住んでいる身としては、これから治安が良くなる事や今まで黄巾党の族に被害を受けて泣き寝入りしていた人々の気持ちを思えば、嬉しくないはずがなかったのだ。
自らも、武将救援の仕事では直接黄巾党の人々と対立したことがあった。椿は洛陽の人間だから被害の実態を知らないのだろうと思えば、その感想を笑って受け入れる事も出来る。それに徐庶は、いつだって人意見を対立させる事を避けてきたのだ。けれどもなぜか、椿に対してはそうしなかった。

「俺は…、嬉しいよ。」

「…え?」

「この戦に勝てて。きっとこれで許昌に平穏が戻る……だから嬉しいんだ。」

徐庶も運ばれる死体を見送った。山積みにされた死体はまるで家畜の出荷前ような扱いだった。彼らの人生は貧困な農民としての存在と、黄巾党の一員としての存在と、そして家畜のように運ばれる存在の3種類であった。彼らの人生は黄巾党としての人生が一番幸せだったのかもしれない。それを奪ったのはまぎれもなく徐庶の加わった勢力であったが、罪悪感はなかった。

「そうですね…。許昌で彼らに苦しめられた人は沢山いたのですからね。」

「うん。」

「私は…私はどちらも悲しいです。黄巾党に殺された人々も、黄巾党として殺された人も。」

椿の言葉はまるで自分が殺したかのような言い方で、決して戦場の隅で壁に守られていた人間の言葉ではなかった。前線で戦っていた自分が人を殺したのは確かな事で罪悪感を覚えるべきだが、椿が心を痛めるのは得心がいかない。それに疑問を呈そうとして、その言葉は第三者に阻まれた。

「椿殿。少し、話をしてもよろしいですか?」

「あ、はい。」

どこからか歩いてきた荀イクは、椿の隣へ来て口を開いた。

「張角が、あなたを呼んだのは自分だと言いました。そして椿殿、あなたは黄天に導かれた者だと。」

「…ち、違います!私は黄巾党ではありませんよ!」

「分かっております。陳宮殿も、あなたがそういう素振りを見せた事はないと。」

荀イクは優しい目をして椿を落ち着けるようにいった。けれども荀イクの中で椿に対する違和感が消えないのは事実であった。そしてそれは徐庶も同じで、人とは違う考え方をする椿に何かを感じていた。
両方から突き刺さる真剣な視線に、椿は今まで感じた事のない恐怖を抱いた。人に疑われるという事が暴力にも匹敵するほどの恐怖であると、椿はその時初めて知った。

「二人とも、笑わないって約束できますか。」

椿が恐怖に心を砕かれて、肺に押し上げられるようにして口を開いたのは仕方のない事だ。二人はまるで示し合わせたかのようにこくりと頷いた。

「べ…別の時代、もしくは別の世界に私は生きていたんです。」

「それは、どういう意味でしょうか。」

「私の学んだ歴史の中にここと似たような時代があって、そこでも黄巾党という勢力がいました。詳しくは知りませんが、漢王朝は衰退して滅亡します。取って代わるのは、曹操様なのか別の人なのかはわかりません。」

「曹操殿?何進様では?」

「何進様は違うかと。けれど、私の教わった歴史と少し違うようでもあるのです。だから、詳しくは…」

「それで別の世界だと言ったんだね。」

徐庶の言葉に今度は椿が頷いた。それを徐庶と荀イクは静かに見守って、二人は正反対の言葉を吐く。

「申し訳ありませんが、そのお話は受け入れられませんね。あまりにも突飛な内容です。」

「少しおかしな話だと思ったが…。まあ、君が言うなら本当なんだろう。」


徐庶の言葉に椿は救われたような気分になった。自分でも信頼できない内容の話を、徐庶は信じてくれると言ったのだ。荀イクはどうして徐庶が信頼すると言ったのか分からず、椿自身を疑っていない事は荀イクも同じなので徐庶を警戒するように見た。
何か可笑しな動きをするとしたら、椿よりも徐庶の可能性が高いと、荀イクは踏んでいた。
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