エンパ 徐庶

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誰も治めない国 3



椿は広がる光景に閉口していた。
急速に拡大する黄巾勢力。それらは元々農民だった者たちで、生きるために武器を取った哀れな人々だ。けれども人道的でないその悪辣な行為に、手を下さずにはいられなくなって各地から腕の良い武人が集められた…そう聞いていたのに。目の前に広がるの二日目の宴会を前に、もはや何をしに来たのかも分からなくなっていた。

「椿殿、あちらが、あちらが長沙を治めておられる孫堅殿ですぞ。長沙の位置はお分かりですかな?」

「はい。南海の北西に位置する所ですね。陸に囲まれた所です。」

「左様。そしてその近くにおられるのが董卓殿です。えぇ、美女に囲まれた御人ですぞ。」

「キャバクラじゃないんだから…」

酒が入ると人の本性を垣間見る事が出来るようだ。一人で寡黙になる者、女性に絡み鼻の下を伸ばす者、そして普段以上に人脈を広げようと躍起になる者。

「陳宮さんも今日はだいぶ飲んでいらっしゃるようですけれど。」

「えぇ。今日は、今日は飲まねば。何といってもあの袁紹殿と話を、話をしてしまいましたからなぁ…。いやはや人生は何が起こるかわかりませぬな…。」

一人感激して目を輝かせる陳宮に椿は冷たい視線を送った。袁紹は北方のギョウを治めている君主だ。領地こそ小さいが歴史のある名族で、金色に覆われた鎧を見れば明らかなように巨万の富を手にしているらしかった。先日椿が高貴そうだと評した荀イクの衣装が地味な部類に入ってしまうその輝きに、口の端を歪めて笑った。その荀イクはといえば、曹操の近くの席で一人静かに酒を飲んでいる。こういった席に慣れているらしいその様子はやはり政治家だからだろうか。
先日まで自分と情勢について話をしていたとは思えないその様子はやはり住む世界の違う人間なのだと思うに十分な要素で、椿は隣で目を輝かせている陳宮に親近感を覚えた。拾ってくれたのが陳宮で良かったと、思わざるを得ない。

「椿殿、どちらへ、どちらへ参るのですかな?」

「酔い覚ましに風に当たってきます。幕舎の傍からは離れませんから。」

椅子から立ち上がった椿に陳宮は慌てて声をかけた。椿はその陳宮の様子に酔いが収まってきたのを知って安堵し、離席する事を伝えた。
幕舎から離れたくても、こうも酔っぱらいの溢れる場所では怖くて歩き回れないのが本音だった。幕舎の外に出れば所々で松明が灯されているが、やはり暗く足元が見えない。空を見上げれば月は半月で、星が綺麗に見えた。夜空いっぱいに広がる無数の星を見上げながら歩いていると、死んだ人が星になると考える人間の気持ちも分からなくもない。

「うわっ…。」

「ご、ごめんなさい!」

星を見上げながら歩いていたせいで足元に注意を払っていなかったのが災いして、椿は誰かにぶつかってしまったようだ。下を向けば緑の軍袍に身を包んだ男が丸太の上に座っていた。椿は彼の背に膝をぶつけてしまったらしい。手元には酒も何も持っていないから、椿と同じように風にあたっていたのだろうか。

「君は…?」

「私は洛陽の何進様に仕えております曹操様と共に参りました、椿と申します。」

「あぁ、先ほど陳宮殿と一緒にいた人、だね」

「はい。…あの、お名前を伺っても?」

「俺は徐庶という。普段は許昌に住んでいるんだ。在野の身だよ。」

許昌、と聞いて、椿の顔が悲しげに歪んだ。許昌は黄巾党勢力に占拠されて治安の悪化が著しいと聞く。現に、陣営を張ったここに来るまでにも許昌の村を通ってきたが、馬や牛さえ痩せほそり、荒れ果てた様子だった。

「えぇと、俺は商人の護衛や武将の救援で稼ぎを得ているから、そんなに大変な目には合っていないんだ。」

「あ、そ、そうなんですね。私も先日武将の護衛に参加しましたよ。」

共通点が出来た椿は笑顔を浮かべて徐庶の隣に腰かけた。徐庶はその行為に驚いたようでじっと椿を見るが、隣に座った事に他意はないらしい椿へ安堵し、再び前を向いた。

「夜の洛陽は怖いんですよ。お昼は沢山人がいるのに、夜になると誰もいなくなるんです。」

「洛陽の城下は俺も行った事があるよ。整っているし、人も多い。夜は異様だろうな。」

「そうなんです。護衛の時は結局誰も襲ってこなかったみたいだから良かったけど。」

「みたいって?君が護衛していたんだろう?」

徐庶は矛盾した椿の発言に顔を傾けた。椿はすぐに、護衛しに行ったのに馬車に乗せられていたから結局役に立てなかった話をした。ついでに自らの武術が護身術程度である事も打ち明けると、徐庶は困ったように笑った。

「じゃあ君はここに何をしに来たんだい?宴のため、というわけではなさそうだけれど。」

董卓の周りに侍っていた女性は、董卓が自ら連れてきた女性であった。そしてそれは袁紹もまた同じ。袁紹の治める大陸北東は美人の産地と言われ、背の高く肌の透き通った女性が彼の周りで酌をして回っていた。

「え、酷い。それって私が醜いってこと…」

「い、いや、そうじゃないよ!違うんだ。そうじゃなくて、こんな所をうろうろしているし…その、」

「ふふ、分かってますよ。着飾ってもいないですしね。」

「あぁ、からかったのか。…酷いな。」

徐庶は溜息を吐いたけれど、からかわれたことに腹を立ててはいなかった。じゃあどうして来たのかという答えの方に興味があって、それ以外の事はどうでもよかった。徐庶が椿の顔を見れば、言いにくそうにしている。まさか仇討だろうかという考えが頭をよぎった。女性が刃物を手にする理由は夫や父の仇討ちである事が多いのだから。

「世の中を見に来た…って言ったら馬鹿にしますか?」

「……え?」

「護衛の日、曹操殿と馬車の中で話をして思ったんです。儒教に則った政治は腐敗していく。けれど、曹操殿のいう覇道もなんだか違うなって。」

「き、君は、国政なんかに興味があるのかい?」

徐庶は今日一番心が跳ねたのを感じた。董卓や袁紹、そして何進や袁術といった権力者を見てもあまり高揚しなかったというのに、椿の言葉が徐庶の興味を引き付けて離さなかった。女性が政に口を挟むのは常識的でないが、そんな事よりも儒教を否定的に捕え、その上曹操の覇道にさえ疑問を抱くその思考に惹かれずにはいられなかった。

「勉強してきたから…興味はあります、けど。」

「そうか…凄いな。」

「それで、もしも良い君主の人がいたらそこについて行こうと思ったんです。」

椿がこの黄巾討伐に求めていたのは、自分に近い考えを持った人物を見つける事であった。法による支配と、自由の拡張。それらを行うことで人を幸福にしてくれる君主。政に関われれば幸いだが、そうでなくてもそういう国に住んでいたかった。

「そうか…それで、見つかったのかな?」

「…いいえ。」

しかしながら現実は、椿が思うほど簡単にはいかなかった。各国の君主が集まっているとは言っても、所詮は何進に友好的な国家の君主ばかり。つまりは何進と志を同じくする者か、利益を同じくする者か。結局は似たり寄ったりでしかない。

「徐庶さんは?徐庶さんはどうして在野なのに参加を?」

「俺は…俺は仕える人を探しに。せっかく智を学んだというのに、使わなくては意味がないだろう?ここならいると思ってね。でも…」

徐庶もまた上手くいっていなかった。多少惹かれる人間はいるものの、どうしても足が向かない。組織の中に入れるかどうかもまた、疑問であった。自らの過去が足枷として重く伸し掛かっている。お尋ね者だった彼の素性は調べればすぐにわかる事だ。ここで着任の許可が下りたとしても、本国で断られる可能性だって十分にあった。

「お互い上手くいきませんねぇ。」

「はは、そうだな。…あ、」

徐庶が椿に笑いかけて、そして椿の後方へ視線を投げた。椿もつられて後ろを見れば、荀ケが立っている。

「荀イクさん、どうしました?」

「いえ、特には。ただ、椿殿が外へ出られたので気になりまして。…そちらは?」

「徐庶様ですよ。普段は許昌にお住まいなのだそうです。徐庶さん、こちらは荀イク様です。洛陽で何進様に仕えていらっしゃるのです。」

「初めまして。お噂はかねがね。王佐の才と言われる方ですね。」

「とんでもありません。椿殿、冷えますからそろそろ中へ。」

荀イクは人好きのする笑みを浮かべて、そして椿を呼んだ。椿は仕方なく腰を上げて、お邪魔しましたと徐庶へ向かって頭を下げた。徐庶はうん、と小さく受け答えて、そして少し言いにくそうに言葉を繋いだ。

「もしよければ、明日も話せないかな。君の話をもっと聞いてみたいんだ。」

「良いですよ?っていうかこれ明日も続くんですね…。では明日もまたここで。抜けられそうになったら抜けてきますから。」

「うん、ありがとう。」

徐庶はそれから後もそこに座っているらしかった。その様子を椿は横目に見て、そして荀ケの元へ小走りで駆けて行く。やはり外に出ては危なかったのかと思い、すみませんと言葉をかけたがお気になさらずといういつもの声が返ってきた。迷惑に思ってはいないらしい。迎えに来てもらって申し訳ないと思うも、やはり明日も幕舎の外へ出て話をするのだ。明日は見つからないようにこっそりと抜ける事にした。
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