エンパ 徐庶

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誰も治めない国 2


高貴そうな口調の人物が住んでいるのはやはり高貴そうな邸宅であった。椿が庭を眺めたり散策したりしてかれこれ一時間以上経っていた。荀イクが陳宮を屋敷に誘ったのは後をつけられないためだけでは無く、昨今の政治に関する意見交換が目当てのようだ。皆が皆が義務教育を受ける現代と違って、ここの人々は知識のある人とそうでない人に分類される。その上政治に興味のある人は更に少なく、また利害関係なく意見を言い合える人物は更に限られた。

「そろそろ戻っても良いかな。」


椿が中へ戻ると、二人は今だに部屋の中で議論をしている。立派な屋敷の中には飾りなどはないが、重厚な書棚に山のような竹簡が所狭しと並んでいた。真ん中に置かれた四人掛けの円卓に荀イクと陳宮は向かい合うように座っている。会話からは宦官、汚職、何進といった言葉が聞こえてくる。仕方がないので椿も卓に腰掛けて最初に出されたお茶に手を付けた。お茶はぬるくなっていて散策した後の乾いた喉を潤すのに丁度良かった。

「それでは何進様も私腹を、私腹を肥やすのに必死でいらっしゃると?」

「そのようです。旗揚げ当時は治世に長けた才のある方だと思っておりましたが、昨今では…。」

「なんと、なんということでしょうなぁ…。しかしながらこちらの治安は安定している様子。いったいどなたが、どなたが実質的に統治なさっているのでしょう。」

「お恥ずかしながら…」


荀イクの話では自警団や洛陽で活動する小規模な勢力のおかげでこの地域の治安は守られているらしい。自治が行き届いているのは良いことだが、椿の知識で言わせてもらえば法によらない統治は危うく、壊れやすいものだ。椿はじゃあこの人はいったい城で何をしているのかと顔を見た。初めてマジマジと顔を見ると、腹正しい事に整った顔立ちをしている。

「素晴らしい!自警団や小規模勢力が治安維持に貢献しているとは。椿殿、やはり、やはり洛陽に滞在しようと思うのですが、いかがですかな?」

急に椿に話を振った陳宮は、椿が荀イクの顔をまじまじと見ているのに気付いて顔を傾けたが、椿はそれに気付かないふりをした。

「い、今は良いかもしれないけど、すぐに治安は悪くなりますよ。だから当初の予定通り、許昌に向かいませんか?友人がいるのでしょう?」

椿が反対するとは思っていなかった陳宮は驚き、また荀イクもはっきりと意見する椿に驚きを隠せずにいた。

「いやはや、そ、そこまで仰るならば…」

「何故すぐに治安が悪くなるとお思いなのですか。」

陳宮は椿の意見を尊重するような言葉を吐くも、そこに荀イクが横槍を入れる。予想外な人物の真剣な口調に椿は少し驚いて、でも大学院生として負けるわけにはいかないと頭を働かせた。

「法に寄らない支配は歴史的に見ても長続きしないものですから。自警団や小規模勢力だって、そのうち旗揚げすれば争う事になるわけだし。」

「確かに今の何進様には賛成出来ない面もあります。ですが、法でのみ民を縛る事が出来るとの発言は、納得できません。」

「何それ、まさか人治国家が平安を実現できると思ってるんですか?」

椿の言葉に荀イクは頷いた。人治国家、つまりは人による統治。現実には良い君主がいれば統治は可能なのだが、長期に渡って上手くやれる可能性は低い。

「儒学で言うところの君臣の義、それが守られることで治世は安定するのです。法による統治は、始皇帝のような悪政を生む事になります。」

「私は、始皇帝は良い事をしたと思います。確かに焚書坑儒は…褒められたものではないですが、法治国家の取り組みはとても分かりやすくて良い政策ですよ。」

椿の話に今度は荀イクが眉根を寄せた。荀イクの信奉する儒学にとって始皇帝の統治は許すことの出来ないもの。確かに度や料の規定を行ったのは功績と言えなくもないが、焚書坑儒はそれらの功績を無にする程の失策だった。

「礼を重んじる儒学によってこそ国というものがまとまるのだと、私は考えます。」

「でも現実には礼を重んじない王や臣下によって世の中はダメになるし、今日素晴らしい君主だった人が明日も素晴らしいとは限らないし…」

「それは…そうですが、」

「椿殿!仕方がありませんなぁ…許昌よりも洛陽の方が治安が良いのは事実、ですが、そのように言われては許昌へ、許昌へ行きましょう。」

椿と荀イクの纏う雰囲気が黒くなったところで、陳宮は割って入るように会話を止めた。荀イクには荀イクの、椿には椿の考えがあるのだが、ここで仲違いのようなことをされては困るとひやりとした。

「いえ、陳宮殿。火急の要件がなければ洛陽へ滞在なさるべきです。黄巾党勢力を討伐するための方策が、各国で議論されています。」

「な、なんと…それでは許昌は戦場になるということですかな?」

「えぇ。良ければ、私が空家を準備致しますのでそちらをお使い下さい。そうすれば私も、今後も陳宮殿や椿殿のお話を伺うことが出来ますので歓迎致します。」

人好きの良さそうな笑顔を向けられた陳宮は二つ返事で了承した。椿はそんな陳宮を横目に見ながら溜息を吐いて、それでも政治について話す事は嫌いじゃないと思い洛陽に滞在することに賛同した。





陳宮の洛陽での仕事は机仕事ではないらしかった。当然と言えば当然なのだが、机仕事を頼んでくるような人脈がないのだから仕方がなく、商隊や輸送隊の護衛を行って貨幣を稼いでいるらしかった。
椿は何もできない自分を申し訳なく思い、遅くに帰る陳宮を寝ずに待ってお帰りなさいと伝える事だけは欠かさずにいた。また家での仕事は率先して行い、食事の準備や風呂の支度はもはや完璧にできるようになった。そんな日々が暫く続き、数か月経った頃の話である。



「武将護衛…ですか?」

「左様。左様でございますぞ椿殿!武将の護衛を行えば、今まで以上の給金が、給金が頂けると!」

「それって危ない仕事なんじゃ…」

「いえ、そのような、そのような事はございません。今回は曹操という男の護衛を行うという話。荀イク殿も加わられるらしいですし、私も行ってまいりますぞ。」

椿は聞き流すところだった言葉に耳を疑った。曹操。その名前を聞いたことのない人は恐らくいないだろう程の有名人。そうは言ってももっと有名な人物だった気がするのだが、歴史の書物がないため確かめる事が出来なかった。

「そ、それって私も参加できませんか?」

「椿殿、よくぞ、よくぞ言ってくださいました。先鋒よりのご使命なのですよ椿殿。あなたに、あなたにお会いしたいとおっしゃっておるのです!」

「・・・え?」

陳宮の話では、荀イクが曹操に椿の話を聞かせると、是非会ってみたいと言ったきりだったが、ここ数か月は機会がなくて流れていたのだという。本人に相談もせずに流れるも何もあるかと思うも、相手は天下を取ったのか取ってないのか、よくわからないがその辺りの人間だったはずなので相手の用事など関係なく処理されるのかもしれないと椿は心の中で溜息を吐いた。

「それでは椿殿、明日の、明日の夜に外出致しましょう。洛陽の北部にある城内から南部の関所へ移動なさるのを護衛しに参りますぞ。」

「は…はい。」


洛陽の夜はとても不気味だった。昼間の人の往来を知っているからか、人のいない洛陽を知らないからなのかは分からないが、大勢の人々が往来できる大きな通りに人がおらず、寝静まった民家は誰もいないかのようにがらんとしている。北部にある城の門の外で待機していると、二頭の馬が引く馬車が門前へとやってきた。付き従っているのは痩せ細った下男と、あれから何度か会って話をした荀イク。
荀イクが椿に向かって視線を送ったのを本人よりも先に陳宮が察知して、馬車へ乗るように促す。護衛に来たのに馬車に乗れとはどういうことかと疑問を抱くが、そもそも武術など陳宮に教わった護身術の決まり手くらいしか知らない椿の事は相手にしていないのかもしれないと思い、椿は言われるままに馬車へと向かった。踏み台に足をかけて一段、馬車へ足をかけて二段目と登っていき、失礼しますと声をかけて木枠と布で四方を覆われた馬車の中へと乗り込んだ。

「其方が椿か。」

「は、はい。椿と申します。陳宮さんと共に洛陽へ参りました。」

「荀イクから聞いたぞ。法に寄らない統治は歴史的に長続きしないと言ったそうだな。その真意を言うてみよ。」

「へ、うわっ…は、はい。」

椿が口を開いた瞬間、がたりと音がして馬車が動き始めた。馬車の中で慌てた椿の声は恐らく周りにも聞こえているはずで恥ずかしいが、目の前にいる曹操からも笑われていないために何もなかったかのようにして過ごす事にした。

「その…中華は多民族国家である事は、議論の余地もない話であると思いますが。」

「うむ」

「異なる言語や異なる価値観を持った人々をまとめるのは法でなくてはならないと、そう思うのです。」

「ふむ…では其方が儒教で人民を纏めるに足りんとする理由はなんだ。」

曹操は何を考えているのか分からないような抑揚のない落ち着いた言葉で椿にそう問うた。荀イクから粗方の話を聞いているのだろうその質問に、椿は呼吸を整えて落ち着いて答える。

「儒教はその…弁証法に基づいた教えである事が足りないと思うところです。」

孔子を始祖とする教えに間違いがあるとは椿は思っていなかった。けれど、言語も文化も異なる人々にそれを押し付けるのはいくらか強引ではないかという気持ちであった。経典の中で深められる会話によって問題の是非が決まっていくのだ。初めから彼らの会話に参加できない異言語、異文化の人間を蚊帳の外に追いやっている。価値観の創造には関わらせてもらえず、けれども出来上がった価値観は押し付けられる。
この時代で言えば文字の読み書きを出来ない一般の人々もその蚊帳の外に該当する事は明らかだった。一度も読んだことのない経典、どういった人物なのか大して知りもしない偉人の発言に振り回されるのだ。それで本当に世の中が規律正しく纏まるのであれば、住人の忍耐力に敬意を表したい。
椿の言葉に耳を傾けていた曹操は、深く頷き口を開いた。

「では其方は儒教を排するべきだと考えるのか。」

「いえ、そうでは。私だって道徳心は大事だと思います。ただ、すべての人間に道徳心を求め押し付けるのは…良くないと。」

「なるほどな。変わった考えをしておる。」

椿が望んでいるのはより自由な社会だ。自由に言論を交わすことが出来、自由に行動し、自由に自分の人生を生きる。その範囲に限界はあれど、この世界に自由はあまりにも少なすぎた。
嫡子か庶子か、男か女か、庶民か貴族か。儒教による価値観に全ての人々が雁字搦めの制約の中に生まれ生きているというのが椿の見たこの世界であった。原始的な道具や不便な環境よりもそちらに目が行くのは、椿が自由の許された世界を知っているからに他ならない。

「儂は儒教を否定してはないぞ。けれども、儒学に胡坐をかく者が許せん。生まれながらの身分に驕り、人を蔑む者がな。」

「は、はい…。私もです。」

「うむ。故に儂は、覇道をこそ世を治めるに足りると思っておる…分かるか?」

「は、はい。覇道の意味は陳宮さんから教わりました。」

覇道。つまり武力や権力によって国を統一し、治めようとする者の道。かつて項羽が覇王と名乗った事に起因するその思想は椿の考えとは少し違うような気がするも、それは曹操の意見なので否定する気はなく。こくりと頷いた椿へ曹操は満足そうな視線を送った。

「数か月の後、東にのさばる黄巾党を討つ。未だ自勢力を掲げてはおらぬが、これも覇道への一歩である。其方も共に来るが良い。」

「で、でも私、武に秀でていなくて…。」

「女子に槍を持てとは言わぬ。戦で必要なのは槍と弓だけではないぞ。許昌は元々都となっても良い程の地。不便はなかろう。荀イクにも話を付けよう。」

「あ、ありがとうございます。」


椿がこの世界に本当の意味での自分の居場所がない事を実感したのは、この夜の事であった。
見ぬふりをしてきた考えの違いや、彼らの信じる者に対する違和感に、椿は言いようのない歯がゆさを感じていたのだ。曹操と対面し、自分の立ち位置を再確認する事によって、その違和感は明らかになってきた。
後に黄巾の乱と言われる出来事が、椿にも乱世をもたらす事になるとは想像していなかった。そして、そこでの出会いが人生に大きく関わるとは。この夜を境に、椿は自分の足で歩き始めたのである。

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