エンパ 徐庶

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誰も治めない国 1



「あぁ…今日も勉強したなぁ。」

椿は大学の門をくぐり抜けて帰宅の途に付いていた。辺りはもう暗く、学内に人はまばらであった。社会人向けの講座が開かれており、その受講者がぽつぽつといる程度であって、若い学部生の影はほとんど見えない。

修士課程に進むに当たって変わったことは、読む書物の数が増えたことであった。最近流行りのビックデータを扱った検証は学部生の頃から手を出していたし、その退屈な作業自体は変わらずに続いている。けれど、流石に修士過程ともなれば著名な経済学書を始め最新の書物を読まなくてはならなかった。それ故帰宅する時間は遅くになり、いつの日か図書館に住んでいるかのような毎日。試験前でもなければ図書館の自分の席はいつも空けてあって、毎日見知った顔を眺めながら同じ机で本を読み知識を得る日々で有った。それなりに充実しているが、やはり不満もある。いくら読んで知を得ても実践する機会がないことがそれで、仕方のないことであるので諦める他ないのだが、政治経済のデータを思い通りに設定できるシ○シティでもあれば良いのにと、今年に入って何度思った事か。椿はその日もまたいつも通りに地下鉄の改札へICカードを通してホームへと向かった。







「陳宮さん!この竹簡は上段で良いですか?」

「えぇ。そちらの、そちらの棚へお乗せください椿殿。いやはや、貴方がいらしてから中々の、中々の捗り具合ですなぁ。」

あの日椿が改札を抜けて入ったのは地下鉄のホームなどではなく見知らぬ土地、具体的には机に向かっていた陳宮の頭上であった。侵入者だという誤解を解いて話を聞いてみるとどうやら古代中国に当たるらしく、晋陽という地域らしい。北部にあるこの地域は冬になると雪が積もるという事だが、椿の降り立ったのは未だ寒さの残る春先、これから夏を迎えるのでまだまだ過ごしやすい日々が続きそうだ。

「そろそろ手習いの時間と参りましょうか。ささ、こちらへ、こちらへおかけください。」

「わー、やったぁ。陳宮さんの教え方がお上手なので助かっているんです!」

椿は日に数刻ほど文字を教わり、その他の時間に陳宮の手伝いをしながら家に置かせて貰っていた。手伝いをせずとも身寄りがなければ置いてやると言われたのだが、やはりタダでとは申し訳なくて椿から願い出たのだ。

「夕刻になりましたら買い物に、買い物に参りましょう。」

「何か買う物でもあるんですか?今日の分の食事はありますよね?」

「ええ、それがどうやらここもそろそろ治安が悪化する様子。先程知人の手紙で、領土内にて旗揚げをした者がいると聞きましてなぁ。何やら怪しい雲行きなのです。」

長安から離れているこの地域は世の乱れがなく平穏で住みやすいのだというのが陳宮の話であったが、とうとうここにも乱世の波が到達したらしい。椿が街で聞いた話では、この地域を治めているのは丁原という人物らしいのだが。何やら暴力的な配下を連れており、あまり評判は良くなかった。

「それじゃあどうするんですか?外出を控えるにしても、数日に一度は外に行かなければ生活していけませんよね?」

「ええ。それは、それはその通りなのです…。」

陳宮は何やら言いにくそうに椿から視線を離して、そしてボソボソと話し始めた。

「居所を、居所を移そうかと…。」

「えぇっ!」

「女性の身では大変でしょうが、付いて来てくださると良いですが…椿殿、椿殿は如何ですかな?」

「わ、私は…」

確かに陳宮の住まいはそんなに大きな所ではなく、移ろうと思えばすぐに移り住める程度のもの。しかしながら移動となれば徒歩が当たり前のこの時代に、椿が着いて行けるとは思えなかった。自分の足を見て、その貧弱さにため息が出た。

「馬を…馬をご用意致しますぞ!荷台に座っていれば移動の難は逃れることが出来ましょう。故に、故に悩んでいらっしゃる問題は大した問題ではありませぬ。」

「では何が問題なのですか?」

「許昌へ向かう予定なのですが、途中で洛陽へと寄るのです。洛陽はこちらよりもさらに治安の良くない地域。もしもの事があってはと…」

「そういうことですか…。」

椿は陳宮の武術の腕信頼していた。兵法簡という謎の武器を用いる以外は信頼のおける腕前で、その点は何も問題視していない。

「じゃあ…連れて行ってください!」

こうして陳宮と椿は洛陽を目指した。






晋陽から洛陽まではそう遠くないという話だったが、道はアスファルトで舗装されているわけもなく、日が暮れる時に必ず宿があるわけでもない。獣道、と呼ぶに相応しいような狭い山道を通ることもあったが、小さな荷台が通る分は必ず道幅が出来ているので通れないことはなかった。そればかりではなく、轍がくっきりと着いている分馬の背に乗るよりも荷台にいる方が安定しているほど。

「陳宮さん、どうして狭い道でも荷台が通る広さがあるんですか?轍も同じ場所にくっきりと付いているし。」

「これは、これは偉大な治者の功績ですぞ椿殿。漢王朝より以前、秦の時代に定められたものなのです。ご存知ですかな?」

「秦、秦ってことは…始皇帝?」

「その通り、その通りでございます。始皇帝の定められた律令に、荷車や馬車の車軸の長さを統一するという物があるのです。なんとも、なんとも素晴らしい成果ですなぁ。」


身振り手振りを加えられた説明は陳宮が始皇帝を尊敬しているのだろう事が十分に伝わって来て、椿はふふ、と笑い轍を見て始皇帝がどんな人物だったのかを想像した。車軸の長さを決めることは荷車の幅を決めることで、つまり轍を一定に保てば行き来しやすくなるのだ。歴史に残る偉大な治者の功績にあやかることが出来るとは、なんて凄い体験だろうかと椿は感動を覚えるほど。


そうして旅路を過ごすうちに、洛陽へと到着した。城の囲いの内側へ入れば、そこは別世界だ。

「なんか…都会ですね。」

「ですなぁ……。」

椿は口が開くのを必死に抑えながら、それでも感動をじんわりと滲ませつつ陳宮へと顔を向ければ、陳宮も嬉しそうに町の様子を見ている。洛陽は何進という人物が治める地域で、治め始めて数年経っていることもあって賑やかで活気がある。活気があるからといって安全でないのが玉に傷であったが、スリや追い剥ぎに合わないように日中だけの行動をすればそこそこの安全は確保出来るらしい。

「さてさて。今日の所は宿へ急ぎましょう。良い所を見つけ度の疲れを癒さねば。数日の後に許昌へ、許昌へと旅立ちましょう」

「明日はうろうろしましょうね!」

「もちろん、もちろんでございますぞ椿殿!」

陳宮は宿の場所を知っているらしく、後ろを着いて行けばすぐに見つかった。流石都会の宿というだけあって、女性が足湯を用意してくれたり食事が豪華だったりと、至れり尽くせりだ。体を清めて着替えれば、長旅に疲れた椿が眠くならないはずはなく、気付いた時には布団の上で朝を迎えていた。


「陳宮さん、おはようございます」

「これはこれは!お早いお目覚めで!」

眠ったのが早かったからか、起きる時間も早くなり、未だ日が登り始める頃に起き出した椿は部屋を出て食卓のある所へと向かった。陳宮は薄暗い室内に差し込む朝の光で何かを読んでいる。椿が覗けばそれは地図で、どうやら書き換えている所らしかった。

「勢力が変わったんですか?」

「えぇ。流石洛陽は都会ですなぁ…情報に溢れております。許昌が黄巾党に抑えられたそうです。それも、それも五日前の事だそうで。」

「へぇ、」

「それから南部の会稽。こちらは厳白虎が旗揚げに成功した模様。ですが、ですが長くは続きますまい…。知性に、知性に欠ける人物との噂。」

椿が聞いたこともない場所の話を始めた陳宮に、椿は地図を見て陳宮の筆を追うことで場所を把握した。南部にあり海に面した場所を会稽というらしい。

「それから建業を治める劉繇もまた、あまり治世は得意ではない様子。このままですと黄巾党が南部を制圧するのも時間の問題かと。」

「黄巾党って、そんなに勢力があるんですか?」

「むむ…、黄巾党は見た目も中身も淡い色の勢力。無色透明だった農民達が自然と、自然と黄色く染まり黄巾党に属するのが常なのです。」

「勝手に広がってく…ってこと?」

「左様、左様ですぞ!」

話を理解してもらえて陳宮は喜んでいるらしい。椿の政治経済に対する知識は全てではないが一部には役に立つようだった。宗教や民衆の奮起は乱世の風物詩ともいえるものだ。変と呼べるものは少ないが、乱はそこかしこで起こる可能性がある。

「そういう勢力もあるんだ…」

椿は其の後も陳宮が地図を新しくする様子を眺めていた。





「見てください陳宮さん!書物がこんなに沢山!」

「おぉ…これは、これはあまり見かけぬ品!流石、流石ですなぁ…。」

陳宮は椿の声に耳を傾けつつ市場を歩いていた。椿にとってはただの観光であるその町歩きも陳宮にとっては情報収集の場である。日中に街をうろついている人は多く、女性や子供がいる様子は治安が良くなって来ていることを表した。許昌の友人宅に行くよりも洛陽に留まる方が良いかもしれないと思うほどには、良い環境であった。


「あれ、なんだろう…」

「おっ、お待ちください椿殿!お一人で、お一人でうろつかれては!」

椿は店の並んだ道路の真ん中、人垣の出来た一角へと歩いて行った。するとそこには酒に酔った男性と、その男性に土下座して何かを頼んでいる女性がいた。どうやら女性の子供が酔った男性にぶつかって酒をこぼしてしまったらしい。道端で酒瓶を傾けていた大人にも非があるのだが、酔っているからかそうは思っていないようで、土下座して謝る女性に何事かを怒鳴りつけているようだ。

「どうして誰も止めないんですか!?」

「止めるって…ありゃあ郭典様だよ!洛陽を治める何進様の兵だ。」

「いや、そんなの関係ないでしょ…!」

「おい、そこ!」

椿が野次馬の中年女性と言葉を交わしていると、その会話を耳にした郭典が椿達を指差した。椿の前から急に人垣が消え、両端に寄った野次馬が新たな出演者を舞台へ押し上げようとしている。

「なんだ。何か文句があるのか?」

「あ、…謝ってるんだから許してあげても良いじゃない。お酒なんてまた買えば良いんだから。」

椿は恰幅の良い男性相手に流石に声が小さくなったが、それでも主張すべきことはしなければと声を出した。

「何進様の配下である私に意見するというか!この小娘、どこの家の者だ!」

「これはこれは椿殿!このような、このようなところで何をなさっているのですか!」

そこに遅れて到着した陳宮が割って入ってくるも、事態が収拾するわけもなく。男は陳宮の小柄な体型を上から見下ろすように見て、にやりと下品な笑みを浮かべた。暴力沙汰になる可能性は男性である陳宮相手の方が高い。これは不味いことになったと椿が思った時であった。そこに第三者の声が響いたのは。

「往来の差中で何を揉めていらっしゃるのでしょうか。」

ぴんと張った糸のように力強く、けれども品のある声が聞こえてきた。

「おぉ、荀イク殿!軍議はもうお済みですか。」

「はい、滞りなく。ところで、何事ですか。多くの民が集まっているようですが。」

荀イクと呼ばれた男性は椿と陳宮の前に立ち、郭典へと声をかけた。その立ち位置は何事が起こっているのかを既に知り得たもので、分が悪いと判断した郭典は、言葉を濁して何処かへと消えて行った。


「これは、これは!もしやあなたは荀イク殿ではありませんかな!王佐の才という御高名は伺っておりますぞ。助けて頂き、感謝を、感謝をいたします!」

「あなたは…?」

「私は陳宮、字を公台と申す者。是非とも、是非ともお見知り置きを。」

陳宮の興奮した発言を聞けば、何も知らない椿にも目の前の人物が有名人なのだと認識できた。碧の地に刺繍が施されたその衣装は高貴な身分を嫌という程匂わせるもので、きっと嫌な奴に違いないと踏んだ椿は視線を合わせることなく早くここから離れたいという気持ちを全身から匂わせた。

「宜しければ私の屋敷へ如お越しください。直接帰路につけば、自宅を特定される恐れがあります。一旦我が家へいらっしゃれば、その可能性を減らせるでしょう。」

「これはこれは、なんと親切な!ささ、椿殿、参りましょう。」

「え、陳宮さん!ちょ、引っ張らないで…!」

まるで飛び跳ねるかのように嬉しがって荀イクの後をついて行く陳宮に腕を掴まれた椿は、渋々ながら荀イクの家へ訪れることになった。

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