愛と嘘と白紙の台本

□第五話 蛾は蝶をみてその格差に唖然とする
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藍くんとの撮影は順調に進んでいった。もともと演じることは好きだった。自分のなかに別の人格を作り出し、さもそれが“私なのよ”と言わんばかりに役に溶け込んでいく感覚も好きだ。
だけど自分の出ている番組を録画してチェックするのはあくまで仕事のためだ。だから街中で巨大なポスターになっている自分をみたり、渋谷の巨大テレビの大画面に映る自分を見るのは正直苦手。それが少しでも変な顔をしていたら尚更嫌だ。

「どうしたの?」

「最悪」

「え...ああ、」

私の視線を追ったのか、それとも察したのか、隣を歩く薫くんが「いい表情してると思うけど?」といった。だけど問題は表情じゃない。今回はそのポスターの大きさだ。町中を走るポスターに一緒に写っているのは共演する藍くんだけど、綺麗すぎる彼と並ぶのはあまり好きではない。挑発的な表情の自分と藍くんから目を離し、深々と息を吐き出した。そのせいでマスクから立ち上った水蒸気がかけている太縁眼鏡を曇らせる。
信号が代わり、私と藍くんのポスターが張られた車は走り出した。ちょうど赤信号に捕まった私たちはまだ歩道の上に立ち往生だ。

「どうせなら俺が一緒に写りたかった」

「薫くんドラマでるの?」

「出ないよ。ただ、...うん。独占欲」

「すごく今さら」

「そうかな」

見上げた瞳は眼鏡のフレームの奥に隠れてよく見えなかった。“邪魔物”を取り除こうと伸ばした手は途中で下ろしてしまった。何にしろここは街中だ。私たちだ、とばれて人が集まってきてはこの変装デートも成り立たなくなってしまう。
人間の目はやっぱり曖昧だ、とこうしているとよくわかる。いつもとてもおしゃれな子が少しでもださい格好をしていればたちまち“似ているけど別人”だと思い込むようになり、その逆もしかり。実際私たちがこうして出勤前のデートをしていても誰一人として気づかない。ノーメイク、眼鏡様、ジーパンにパーカー万歳、だ。

「できることならね、俺は夏瑪を部屋に閉じ込めちゃいたい」

「残念。私は鳥籠におとなしく止まってられる小鳥じゃないの」

「大丈夫だよ。鎖で繋いでおくもん」

「...次のライブ、またバック付きなんでしょ」

薫くんは前を見つめたまま何も言ってくれなかった。今の時間、私たちの周りにいるのは健康のためにか散歩している老人だけだった。だから本当なら外ではしてはいけない話題を口にしても誰一人として気にしない。
信号が青に代わり、歩きだした薫くんの背中は自分の背中よりも小さく見えて、今すぐに抱きついて不安に揺れる心を抱きしめたい衝動を押さえ込んだ。かわりに「夏瑪」と差し出された手を強く握り返した。
彼が妙なことを言い出す時は決まってギターが上手くいかない時だ。きっとあのバンドで一番歯痒い思いをしているのは薫くんと哲平くんだ。デビューの時から自分の音源で秋の曲を世に送り出せないことを悔い続けていることをその当時は知らなくても私は知っている。

ーー俺は君の思っているような人間じゃないーー

オフィス高樹に所属している以上、高樹さんが儲けるためにやっていること知っていた。それでも私は精一杯に演奏をする薫くんに惹かれていった。偽物でもこの人の演奏が好きだと思った。偶然聞いた彼の音を知ってこの人しかいないと思った。

「薫くん」

「なに?」

「私は薫くんのものだよ」

「嘘つき」

「だって私とナツメは別物だもの」

立ち止まって振り向いた薫くんのジャケットの胸ぐらを掴み、彼の眼鏡を少しだけ乱暴に外した。なんて言おうとしたのか薄い唇が開かれたのが一瞬だけみえた。

「ん...っ、」

「夏瑪...、」

「薫くんの隣にいる私は夏瑪なの」

唇を離して笑ってみせた私に薫くんも少しだけ寂しそうに笑ってくれた。繋ぎ直された手はさっきよりも暖かくて、それなのに私の心は少しだけ冷たかった。
彼が好きだ。彼のためだけに存在できるならしてみたい。だけど同じくらいに私は自分が身を置く業界が好きだった。二つを手に入れることは絶対にできない。それでも望んでしまうのはきっと私も心の弱い一人の人間だからなのだろうと思った。
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