愛と嘘と白紙の台本
□第八話 蜘蛛の巣にすら引っ掛からないハエに価値はない
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高樹さんは悪い人だ。私が頼まれると基本的に断れないのを知っていて、私が嫌だと思うことを押し付けてくる。
冬子狼も同罪だ。ふだんは何かと兄である高樹さんに反発しているくせに、いざというときは結託して私の精神を守ろうとはしてくれない。
そして私も私だ。本当に嫌なら拒絶すればいい。薫くんのもとへ逃げ込めばいい。トキヤの所属する事務所にでも助けを求めればいい。手はいくらでもあるのにそれを実行しないのは私が結局この居場所に満足しているからなのだろう。
「私もたいがいバカだよね...、」
これは高樹さんが意図して作り出した不のスパイラルだ。嵌まったら誰も抜けられない。もしかしなくても制作者すらそのスパイラルの最中にいる。
もう夜も遅い時間、仕事を終えた私は小笠原、と表札のかかった部屋の前でため息をつき、私は黒いインターホンと数秒のにらめっこをしてから黒いボタンを押した。ふと、今これから姿を現すのが茉莉ちゃんだったらどうしようか、と思った。だけどそんな心配は無用だったようで、少し赤い顔で現れた瞬くんに少しだけ安心した。
「その顔。茉莉さんが出てきたらどうしようって思った?」
「瞬くんって実はとっても策士だったりするよね」
「まさか。ナツメがくるとは思わなかったしね。あ、今は夏瑪?」
「どっちがいい?」
「夏瑪は薫のものだから、ナツメかな」
「その顔、すごく嫌」
無意味などや顔を決め、家主の許可をとることなく私を家のなかにあげる瞬くんはもはや秋のカノジョに思えた。それどころかきっと家の勝手すべてを知っているのだろう。
私とトキヤがそうであるように秋と瞬くんだって幼馴染みという切るに切れない糸で繋がっている。否、繋がっているはずだ。私はそう信じている。
ーーなのにこの胸騒ぎはなんなの?
秋の家のリビングに入るとすでにお酒の缶が20こは転がっていて、当然お酒と主に瞬くんが吸っただろうニコチンの臭いが充満していた。「あれ、ナツメがいる」なんて私を指差した秋の顔は瞬くんよりも赤くて、大の大人が何をしているのか、とため息をついた私に突っ込む人はここにはいない。
「...人生ゲーム?」
「そうそう!秋くんってばただいま借金地獄に陥っております!」
はい、と瞬くんに手渡されたのは人生ゲームのプレイヤーに見立てた棒がささったミニカーを催した駒だった。かと思うとあっという間に私の手にはチューハイの缶が握らされ、次のマスにコマを進めた秋にはさらに借金が加算された。
「ちょっ、秋マジで!?さすがに運なさすぎなんですけど!!」
「僕、人生ゲームでもついてないとかどういうこと...、」
「ある意味ついてるんじゃないの?」
「いやいや、それ全然嬉しくないから。ナツメも借金地獄に落ちちゃいなよ」
「嫌だ。巻き添えなんて...っあ、結婚しちゃった」
新たに棒の加わったミニカーを手にのせ、これが自分と薫くんだったらいいのにと思った。だけどすぐにこんなボードに人生を決められたくないと思い頭を横に振った。
ーー秋と瞬を頼むーー
そのせいなのか思い出した高樹さんの言葉にそっと二人を観察してみる。見たところ二人の間に亀裂なんて見えやしない。いつも通りの秋と瞬くんだ。だけど私の胸にひろがったモヤモヤは消えてくれない。
「ほらほら!ナツメも呑まないと!!はいこれ!」
「そうだよ!僕たちこんなに酔ってるんだからさ!」
「私飲んでるしーー」
「そんなの呑んでるに入りません。ほら、グービーっといかないと!」
「っ酔っぱらーー...!!」
そのあとの言葉が私の口から発されることはなかった。缶の口なんて比べ物にならないくらい暖かくて柔らかいものが私の唇を塞ぎ、目の前には近くで見れば見るほど整っている綺麗な顔が目一杯広がった。すぐそばで聞こえたなにかが倒れる音は何だったのだろうか。
「...かわいい顔」
「さりげなく押し倒すとか最低」
「癖になりそう」
「ちょっと瞬く...ん?」
近づいてきた顔を、目をみていいかけた言葉を自分から飲み込んだ。
“俺を拒まないで”
そんなことを言われたような気がした。すがるような目にどうしてこの人を拒めたのだろうか。
「なにを...恐れてるの?」
「さあ...なんだと思う?」
「秋は、マッシュのもの」
「アキは、俺のもの」
「でも秋はマッシュのものになりたがってーーっ」
やっぱり、高樹さんは悪い人だ。そして私も、秋も、みんなみんな悪い人だ。巻き込まれているのはいつも自分の周りの人たちだ。私は被害者ぶってはいけないのだと瞬くんのきれいな顔を“特等席”でみながら思った。
「薫なんかやめて、俺にしなよ」
「瞬くん...」
「俺ならどんな夏瑪でも、受け入れる...から、」
本心かはわからない。瞬くんがいったいどんな心境でそう言ったのかもわからない。だけど“お前に薫は似合わない”、“いつか薫に捨てられるよ”という意味に思えたその言葉はまるで刺のように私の心の奥底に突き刺さり、抜けることはなかった。