愛と嘘と白紙の台本

□第三話 別れは突然のようで必然の理
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珈琲のいい匂いがした。食べ物のいい匂いを感じながら目覚めたのは本当に久しぶりだと思った。それはもうほとんど覚えていない、かつての実家の朝の匂いに似ていて、私に布団以上の温もりをあたえてくれる。
寝返りをうってから目を開いた。見慣れた景色でないそこに戸惑ったのは一瞬で、ここがトキヤの家だとすぐに思い出した。
着替えは当然なくて、床に丁寧にも畳んで置いてあったブラを手に取りそれを胸に当てた。少しだけ腰が重かった。

「ねぇトキヤトキヤ!昨日翔と買い物にいったんだけどね、握手してくださいっていわれたんだ!もうはじめてで興奮しちゃった!」

「おとやんってば初いなぁー!もうかわいい!」

「えへへ。だって握手してくださいだよ?有名人って感じでさ、もう心臓バックバク!」

「その子かわいかったー?」

「うん!綺麗な目だったなぁ...、」

「胸はー?」

「む、むね!?」

リビングに続く扉に手をかけて私はその手を止めた。聞こえる声はどれもトキヤのものではない。うち片方は顔まで浮かんでくる。だけどあと一人はまったく思い当たらない。口調的にトキヤと親しいのはわかる。会話的にも彼は芸能人で間違いないだろう。
出るか、出ずに彼らが居なくなるのを待つか。時と場合によってら究極の二択になりえる問いに答えたのは私のお腹だった。
ーー我慢限界だよ
食べ物と珈琲のいい匂いの中、ただ待っていろというのは拷問でしかない。

「え?」

「あ、」

勢いよく開いた扉は二人を振り向かせるには十分だった。二人が見事に固まって数秒。先に叫び声をあげたのは赤い髪の男の子だった。
知らない人だ。だけどまったく知らないわけではない。ST☆RISHの一十木音也、それが彼の一番大きな看板だ。

「な、な、な、なんでナツメがこんなとこにいるの!?え、トキヤとそういう関係なの!?」

指を立てた音也くんの手を嶺二さんが「そんな下品なことしちゃめー!」といって下げさせ、困惑と戸惑いに染まった目で私に笑いかけた。

「えーと、とりあえず、おはよーさん!ナツメちーん」

「おはよう嶺二さん!」

ニッコリ、と。私が返したのはもちろん営業スマイルだ。トキヤに向けるのでも、薫くんに向けるのでも、アキに向けるものとも違う。今この部屋に本当の私、“東条夏瑪”はいない。
瞬時に“ナツメ”を作り上げた私にか、コーヒーとトースターを持ってきたトキヤが深々とため息をついた。それでもこんなとこで本当の私を出すわけにもいかない。私はあざとくて、だけどやっぱり嫌いになれない女優でいなければいけない。

「音也くんだよね、はじめまして。ナツメって言います!」

「い、一十木音也です!ほ、本物!?本物のナツメ!?これって夢なの!?」

「これは現実。だってほら」

音也くんに近づいた私は自分の頬をつねったり叩いたりしている音也くんの片頬に手を伸ばすと反対側の頬にキスをした。「こうされたらすごく興奮するでしょ?」と笑った私の頭を叩いたのはトキヤだった。
みれば音也くんは完全にショートしていた。嶺二さんの“初”というのはこっちも初だったのか、と少しだけ反省した。「おとやーん!!戻ってきてー!!」と音也くんを揺さぶる嶺二さんに帰ってくる声は唸り声だけだ。

「本当に貴女は無節操ですね」

「無節操じゃない。正直なだけ」

「音也も“お気に入り”に加えるつもりですか」

トキヤの言い方は嫉妬しているようにしか聞こえなかった。だけどそれを口にしてみれば「冗談きついですね」と鼻で笑われ、苛立ちを言葉にする代わりにトキヤの焼いてくれたトーストを噛みちぎった。目玉焼きの黄身が口のなかに落ちていった。
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