縁薫v抜薫
□泣かないでベイビー〜Look at me
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桜の花もすっかり散り、若葉の頃。
薫は昼間は大学、夕方からは近所の居酒屋でアルバイトと、忙しい毎日を送っていた。
気の良い大家に紹介されたバイト先にはようやく慣れてきた。
昼間は定食も出す居酒屋「みず紀(みずき)」は、昼間は五十代の吾郎と美鈴夫婦、一人娘の美季が切り盛りしている。そして、一児の母である美季が店に出れない夜は、薫ともう一人の学生アルバイトが入る。一階のカウンターと、二階の個室。こじんまりとした暖かい雰囲気の店だった。一人暮らしの薫を心配して賄いで色々食べさせてくれる。
「いらっしゃ…――あ、お兄ちゃん」
店に入ってきた緋村の姿に、薫が笑顔になる。
「お疲れ。頑張ってるな」
「うん!」
くしゃりと頭を撫でられ、薫がはにかんだ顔になる。
「いらっしゃい、先生」
「お世話になっています」
緋村がカウンターの中の店主夫婦に頭を下げた。
「二階、伊藤さん待ってるよ」
「あいつ…。いそいそ嬉しげに来やがって。変なことされなかったか?」
伊藤は以前、いかがわしい店で働かされていた薫の元に通っていたこともある。緋村の義妹、しかも高校生と判明してからは青い顔をして身の潔白を訴えていたが。
薫はきょとんと首を傾げる。
「伊藤さん、夜はめったに来ないよ?昼の定食はよく食べに来るみたいだけど」
「そうか。とにかく、何かされたらすぐに言えよ」
「やだな、そんなわけないじゃん。伊藤さん、今好きな人いるよ?」
偶然、伊藤の勤める職場と自宅はこの近くで、以前から「みず紀」の常連だったらしい。
伊藤も弁護士だったため、薫が落ち着いた生活を取り戻せるよう力を貸してくれていた。
緋村の友人でもあり、薫は全面的に彼の事を信頼している。彼がそう言う目で見ていたのは、あくまで<エリカ>なのだから…。
「お前はわかってない」
ぴしりと言われ、はいはいと苦笑しながら二階へ促する。
「よ、遅かったな」
襖を開けると、既に二杯目の伊藤が手を挙げた。
美男子とは言い難いが、朗らかで愛敬のある彼は、店の女の子たちにもわりと人気があった。
「お前が早すぎるんだよ」
「だってすぐそこだからさー。ついつい通っちゃうんだよね」
「何がついついだ。薫に手ぇ出したら殺すぞ」
「はは、どうしよう?俺、障害があるほうが燃えるからな」
「お前…!」
「もう、お兄ちゃんてばいい加減にして。ほんと、伊藤さんも相変わらずですよね」
薫はあきれ顔でメニューを差し出した。
「お兄ちゃんはビールでいいよね。伊藤さんお代わりどうします?」
「あ、じゃあ同じのちょうだい」
「はーい」
失礼します、と立ち上がった薫に伊藤が破顔した。
「薫ちゃん、すっかりベテランみたいだね」
「え、そうですか?」
「うん。気が利くし、てきぱきしてるし」
伊藤に誉められ、つい軽口が出る。
「前のお店で色々教えてもらったから。接客は慣れてるのかも」
「薫ちゃん、人気あったよなー」
「全然。そんなことないですよ」
そんなやり取りに、失敗したと思う。緋村が一瞬だけ、苦い顔をしたから。
「…すぐ持ってきますね」
いたたまれなくなって、逃げるように部屋を出た。
(お兄ちゃん、やっぱりまだあのこと怒ってる…)
薫の中で、あの店での事は遠い記憶になっている。
何より、借金を返すために働かなくてはと必死だったし、あれは<エリカ>が経験したことだ、と現実逃避している部分がある。
けれど、緋村があんなふうに伊藤に対して苛立ちを顕にする時。彼の中で、あの時の記憶が鮮明なのだと思い知らされる。
あれは、よく考えもせず、なんの覚悟もないまま入っていい世界ではなかった。いけないことだったのだと、その憂いを秘めた表情が言外に薫を責める。
そんなことは緋村も口に出さないし、それでもなお、薫を大切に思ってくれていることはよく分かっている。
だが、薫の過去に関わる時、緋村の目には隠しきれない葛藤があった。
(――あの時にはとんでもないかっこ見られてるし…もう、やだ…)
時折起こるフラッシュバックのような感覚。
トラウマといっては大げさだが、伊藤の存在は忘れようとしていた、忘れられると思っていた記憶を刺激する。
(・・・ダメダメ、ちゃんとしなきゃ!)
思わず沈んでしまう自分を叱咤する。
過ぎた事は取り返しがつかない。無知だったことも含めて、自分が負わなければいけないことなのだから。