縁薫v抜薫
□泣かないでベイビー〜旅立ちの日に
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短い家族旅行の後、千夏たちはアメリカに帰っていった。三月は慌ただしく過ぎ、気付けば新生活は間近に迫っている。
「お兄ちゃん、お風呂どうぞ〜」
「…お前はまた…」
人の気など知らない呑気な薫。彼女は今夜も無防備に、濡れ髪のままリビング入ってくる。風呂上がりの柔らかい髪の香りに、無性に腹が立った。
「風邪引くぞ」
「大丈夫。今日あったかいもん」
「そういう時ほど危ないんだ」
「ふふ、お兄ちゃん過保護だよ」
タオルを乗せたままの頭をかき回すと、薫がくすぐったそうに笑った。
(くそ…可愛い…)
笑顔一つで簡単に気持ちを乱され、数年ぶりの片思いに、散々振り回されている。
「――今度の日曜、買い物どこに行く?色々揃えないといけないだろ」
話を変えようと、引っ越しの話題を持ち出す。
「ん…」
頷きながらも薫は浮かない顔をしていた。
「どうした?」
「…ねえ、お兄ちゃん。やっぱりやだ。引っ越ししたくない…お兄ちゃんとずっと一緒にいたらダメ?」
薫はそう言って、不安そうに瞳を揺らした。
「休みの日はちゃんと家事もするし、家賃も払うから…お願い」
「…駄目だ」
心を鬼にして、首を振る。
「そういう問題じゃないんだ。いつまでもこのままってわけにはいかないだろう」
自制心は強いほうだとは思うが、万一のことがあっては取り返しがつかない。ただでさえ希薄な二人の関係は、薫の全面的な信頼で成り立っているのだ。
「本当の兄妹じゃないけど、お前のこと、ちゃんとしてやりたいと思ってる」
薫には、他に近しい身内がいない。
今、薫が頼れるのは自分だけ。
これからもずっと、薫のことを守っていきたい。だから、必要なのはこんな欲に満ちた想いではなく…――。
「――でも…っ」
泣きそうに顔を歪め、それでも涙を堪える薫がいじらしくて、可愛くて…。だが、どうすることも出来ない。
「…あそこは大家さん夫婦も隣に住んでいるから、安心できる。淋しいのは最初だけだ。お前なら、すぐに友達も出来るだろ?」
そう。薫はもうすぐ新しい生活を始める。つらい思いをしてきた薫に、充分学生生活を楽しませてやりたい。
このまま自分のテリトリーに閉じ込めて置きたい欲求と、自由に羽ばたかせてやりたい想いと…――。
相反する思いは胸に秘め、薫の頭を軽く撫でた。
「すぐに慣れるよ」
「…うん。わかった」
薫は俯き、それ以上は何も言わなかった。
薫は部屋に入り、ベッドに寝転んだ。枕元のぬいぐるみを抱き寄せる。
大きなクマのぬいぐるみは、ホワイトデーのお返しにと緋村がくれたものだ。クリスマスに贈ったキーホルダーと、同じキャラクター。
呑気なその表情を見るたび、緋村は薫に似ているとからかった。
もうすぐ、そんな些細なやりとりも出来なくなってしまう。
もう、今までのように傍にはいられない。
頭では分かっていたのに、目前に迫った別れに感情が付いていかない。
「離れるなんて、やだ…」
誰より薫のことを考えてくれる人。
我儘だとわかっていても、その優しさに縋ってしまいそうになる。
ずっとこのままでいたい。一緒にいたい…。
口に出せない思いが涙に代わり、柔らかい布地に吸い込まれていった。