お題―恋する動詞

□18.触れる
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※剣路が生まれたときのお話。作中でお乳の話題が出てきます。ちょっと生々しいかな?とも思うのでご注意ください。






「薫殿…大丈夫でござるか?」
遠慮がちに入ってくる夫に、出産を終えたばかりの薫は嬉しそうに手招きした。
「剣心、見て見て。ちっちゃいのよ〜。可愛いでしょ」
にこにこと笑う薫は疲れは見えるものの、いたって健康そう。上気した頬も幸せそうに輝いていた。
「無事でよかった…おつかれさま」
「…うん」
「あれあれ、仲の良いこと」
そっと唇を合わせた時、産婆の女性が入ってきて、二人は慌てて体を離した。

安産だったこともあり、体の回復も早そうだと安心したのだった。
しかし、次の日から薫の様子が急変した。

「うっ…、ひっく…」
「薫殿、泣いて…?!どうしたのでござるか?」
「おややが、おややがいない…」
「おややならここにいるよ?」
そう言って赤子を抱き上げてみせるが、薫は泣きながら首を振る。
「違うの、ここにいないの…。ずっと一緒だったのに…」
そう言って、薄くなった腹部を示して泣きじゃくる。
「離れ離れなんて、淋しい…」
「――は?何故…?!」

「ああ、赤ん坊を産んだ後はよくあることですよ。気持ちが高ぶってるからね」
産後の薫を心配してきてくれた近所に住むおちかは、からからと笑う。
「そういうものでござるか…」
「そうそう。すぐに落ち着くから、あんまり心配しなさんな。それよりお乳の出はどうですか?」
「いや、それがあまり…」
「お乳が出ないと坊やもよく眠らないでしょ。もらい乳の当てならあるからいつでも言ってくださいね」
おちかは、内容が内容だけにしどろもどろの剣心を笑いながら、いろいろ助言をくれる。女親を早くに亡くした薫を心から心配してくれているようだった。
「あ、そうそう。お乳が出るようになるいい方法がありますよ…―――」


三日もすると彼女の言ったとおり、薫の気鬱は治まった。けろりとして、妙の差し入れてくれた牛鍋を嬉しそうに口にする。
「なんだ、元気そうじゃねえか。食い過ぎんなよ、ブス」
「もう、弥彦!」
心配が故の悪態だとわかっているので、薫も叩くふりだけして笑う。
「――あ、いたっ…」
「薫殿?」
「あ、…。張っちゃったみたい…飲ませてくるから、二人で食べてて」
恥ずかしそうに赤子を抱いて立ち上がる薫に、剣心の顔も赤らむ。やれやれと弥彦は夫婦のやりとりにため息を吐いた。


そしてその夜のこと。
薄明かりの中、薫は布団に横たわっていた。
「恥ずかしい…」
「そんなことを言っている場合ではないよ」
剣心は厳しい顔で、胸元を隠す薫の手を退かす。着物の前を押し広げて、張り詰めた乳房に用心深く触れた。
「こんなになって…」
「やっ…、痛い…」
涙目で訴える薫にため息を吐く。
「――食べ過ぎでござるよ、薫殿」

熱を持ち、かちかちに固くなった胸を濡らした手拭いで冷やしてやる。
「だって〜、牛鍋おいしかったんだもの」


夜中に苦しそうに胸を押さえる薫に気付いた時は、心臓が止まるかと思った。慌てて産婆やら医者やらを呼んだ結果は乳腺炎。牛の脂が乳を詰まらせたのだという。
とにかく冷やして赤子に吸わせなさいと、薬を処方された。

「それにしても、薫さんは乳の出があんまり良くなかったのにねえ。まあちょうど出始める時期と重なったのかもしれないね」
そう、産婆が首を傾げながら帰っていくのを夫婦は赤面して見送った。

「―――こないだ剣心にしてもらったのが効いたのかしら」
「―――あれは、薫殿があんまり泣くから…」

三日前、なかなか思うように乳が出ないならもらい乳を頼んだらどうか、と言った途端、薫は大泣きしたのだ。
「――母親なのにお乳をあげられないなんて…!なんて駄目な母親なのかしら…。ごめんね、坊や…!」
「す、すまない!そんなつもりでは…」
(これはもう、手が付けられない…)
ある意味強敵との戦いよりも気が張る。
泣きじゃくる薫を必死で宥め、その時おちかにもらったもう一つの助言を思い出した。
「そういえば、おちか殿が乳が良く出るようになる方法があると言っていたな…」
「――それ、教えて!」

その時は二人とも大真面目だったし、邪しまな気持ちなどなかったのだが、後から思い出すとかなり恥ずかしい。
「明日になったら教わった湿布を作るから、少しは楽になるよ」
「ありがと。迷惑かけてごめんね」
「なんの。それにしても、母親というのはなかなか大変なものでござるな」
「ほんと。こんな時、母さんが元気でいてくれたらなって思うわ」
「…そうでござるな」
薫の不安や心細さは男の剣心には踏み入れないところにある。
布団の中の薫に寄り添い、片肘をつく。近くなった薫の目がふわりと微笑んだ。
「ねえ。わたしたちもきっとこんな風に大きくしてもらったのね」
赤ん坊の一挙一動に右往左往して。はらはらと見守って。
胸に込み上げる想いは言葉にならなかった。だから、ただ一言つぶやく。
「ありがとう、薫殿」





おしまい

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