レポートI

□探索物件in岐阜
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レポートNo.32:久々利城跡

所在地:岐阜県可児市久々利→地図






県道84号を可児から土岐へ向かう途中、日本初のロックフィル式ダムである小渕ダムの手前に久々利の集落があります。

その久々利地区にある可児市郷土資料館の目の前にそびえる山が久々利城跡です。

創築は南北朝期で、築城者は土岐伊予守頼清の四男、土岐三河守康貞です。
康貞は豪勇をもって聞こえ悪五郎を名乗っていましたが、1353年に討死してしまいます。
その子行春から久々利氏を称し、子孫は代々悪五郎を名乗りました。

天文年間は斎藤道三の隠し子と言われている烏峰(金山)城主斎藤大納言正義に属していましたが、天文17年(1548)、時の城主三河守頼興は正義を久々利城に招き酒で酔わせて謀殺しました。
これは正義の名声と勢力の拡大を恐れた道三の命というのが通説ですが事実関係は不明です。

その後頼興は、織田信長が美濃を支配すると信長が東濃支配のリーダーとした森可成に属しましたが、可成が戦死し長男の長可となったころから疎遠になり、本能寺の変後若い長可を侮り謀反を企てようとして、天正11年(1583)正月長可の策略により謀殺されました。
それは頼興がかつて正義を殺害したのと同じ、酒に酔わせて殺すという方法でした。
因果ですね。
頼興殺害と同時に待機していた別動隊により久々利城は不意を突かれ落城、以降廃城となりました。
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