暗黙

□暗黙:10
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暗黙:10
冷たい背は振り返らない



頬を流れる涙は渇き、涙の跡に残るのは肌が引きつる感覚だけ。
涙は乾く、消えてしまう。
それは虚構のように呆気なく、過去のように過ぎ去りながら。
涙のように消えていく母の後ろ姿を眺めていた。
そう、眺めていた。
他人事のように。

「私は‥‥」

ああ、そうだったね。
ねえ、お母さん。

「ただの道具なのね?」

特殊な力を持ち、全てを見通す目を持つ私が唯一知らないことは、私の自身の価値だった。

「ねえ、お母さん。最後に一つだけ教えて」

私は

「いくらだった?」

自分でも驚くほど冷静で無感動、事務的、そんな声だった。
そんな私の残酷な問いに最初で最後に振り向いた母は、遂に何も答えなかった。
けれども一番残酷なのは、貴女。



夢から醒めても覚醒しない頭。
ぼんやりと霞んだような、頭の奥に紫煙がかかったような、そんな心地悪さ。

「嫌な気分」

気持ちが悪い。

誰でも良い、この理不尽な気持ち悪さを、怒りをぶつけたい、そんな衝動に駆られていた。
彼女にしては珍しい感情を抱えたままで、同居人の居るであろう部屋への扉を引いた。
もっとも、彼が起きているか、はたまた外出しているかは甚だ疑問ではあるが。
ゆうるりとした動作で襖を開くと、見慣れた目に鮮やかな着物を纏った男が座っていた。

「顔色が悪いなァ?」

にやりと、ニヒルに笑う。
艶やかな笑みは彼にしか出来ない芸当だと思う。
そんな彼のいつもと変わらない姿を見ていたら、まるで淡雪のように苛々が消えていった。
そして残ったのは陰欝な気分だけだった。

「恐い夢でも見たかァ?」

茶化すようにくつくつと笑う高杉に、しかし彼女は俯いて何も答えない。

「‥‥どうした?」

「恐い、夢を見たの」

俯いたままで、答えた。
顔を上げる勇気は無い、どんな表情(かお)をしているか、自分でも分からないから。

「恐い夢だったの」

ぽつりと、先程と似たような台詞を繰り返していた。
壊れたような、電池が切れかかったような、そんなお喋り人形のように。

「恐い、夢‥‥」

本当は、恐くなどなかったのだけれど、「恐い」と一括り(くくり)にしてしまった方が楽だった。
恐いなんて、生易しいものじゃなかったのに、高杉の「恐い」と言う台詞に便乗していた。
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