風姿華伝書

□華伝書98
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一もう二度と、あんな一


「一・・・正気か?・・」

「一・・・・・・・っ」


女将の足がもう一歩、下がった。


目の前の垣根越しにたつ


藤吉の目付きが途端に


変わり、右手が腰の刀の


鯉口をすでにきっている。

あと一歩。


女将が後ろへ下がれば


間違いなく刀を抜くつもりであろう。


天の月に雲がかかり


辺りが一瞬、暗黙となった。


と、その刹那一・・・・。

「っ、吉次さんっ!!!」

突如、女将の背後から


大声が響き渡ったかと


思うと、次の瞬間には


風ともとれる速さで誰がが

その横を走り抜けていった。


暗黙の中。


女将の耳に、ビュッと


刃の舞う音が伝わる。


そして、あっと声が上がる

頃には、藤吉とも吉次とも

呼ばれたその男は、言葉も

ないまま、家に提灯の火を

放ち、垣根を飛び越え


裏通りへと姿を眩ましていった。


ドタンッと、女将は力を


無くし、地に尻餅をつく。

「っ、お怪我はありませんか!?


女将さんっ!」ダダッ!!

その音に駆け寄ってきた


のは、沖田先生。


パチンッ!と抜いた大刀を

おさめると、急いで女将の

もとへと走った。


「・・よかった。お怪我は

ないようですね。これで


きっと、みつさんも


喜んで一・・・」


「っ。夕月はっ!いえ、


みつは今、どこに!?


どこにいてるんどすか!?

沖田はんっ!!!」


「えっ一・・・・・・?」

手を差し伸べる先生に


見向きもせず、必死に


尋ねる女将に何もわからず

ただただ、目を丸くする


のみの先生。


しかし、何やら女将の


様子に感付くと一・・・・

「・・・みつさんなら今、

祇園のお救い小屋で


お手伝いをしているはずです」


と、口を開いた。


(・・・何だろう・・・・)

何かが、先生の中で


糸を絡ませている。


先程、微かに聞こえた


女将の<藤吉>という声・・

<吉次>・・そして<夕月>。

「・・・女将さん、あの」

「ほ、ほな、私はみつの


とこへ一・・・・・」


「一・・・・・・・?」


その答えも疑問も聞けぬ


まま、そそくさと先生の


目から逃れるように


女将はその場から


立ち去っていってしまった。
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