風姿華伝書

□華伝書92
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「ほぅ、お春さんゆうがか。


いい名じゃのう。わしは、

才谷梅太郎ゆうきに」


「・・・・・才谷はん?」

布団からようやく移動し、

僅かに照れたような様子で

坂本さんは偽名を口にした。


その名に春は、布団を


たたみつつ、首をひねる。

梅太郎ならまだしも、


才谷などという名字を


生まれてこのかた見たこと

も、聞いたこともないのだ。


「へぇ・・・なんや、


めずらしい、お名どすな」

しかし、だからと言って


問い詰める気も起こらず


春は坂本さんから視線を


そらし、もくもくと


布団をたたんでは押し入れ

へ片付けていった。


新入りとは言え、船宿は


これから夕方にかけて


目覚ましく忙しくなる。


一客にでしかすぎない


坂本さん(才谷さん)に


構っている暇など、今の


春にはない。


「一・・・・・・・・」


急に、黙り込んだ坂本さん

をよそに、春はてきぱきと

与えられた仕事をこなしてゆく。


敷き布団と掛け布団を


折り畳み、さっさと


押し入れへ詰め込み


その後は、女将である


お登勢に頼まれていた


部屋の掃除へと取り掛かっていった。


最近、坂本さん(才谷さん)

が部屋に籠もりっぱなしで

大した掃除もできていない

というので、せめて


はたきだけでもと


言い付かっていたのである。


パタパタとはたきが天井の

梁に積もった埃を落していく。


一・・・ふと、春風にのり

二階の窓から櫻と美ゆる


ほんのり桃色の花びらが


フラリと迷い込んできた。

春はつい、はたきをかける

手を止め、窓の外へ瞳を


向ける。


(もう、すっかり・・・


・・・春かぁ一・・・・)

と、一息ついた・・・その

時一・・・・・。


「・・・すまんねや・・」

思わず、春がビクッと身を

縮まず程、急に背から


低い声が響いた。


驚いた春は何事かと


振り返り


「・・・なんどすか?」


と、問い返す。


すると、坂本さんは


春を見上げ、バツが


悪そうにすごすごと


いかにもすまなそうに口を

開いた。


「わしゃ、おまんに嘘を


言った。わしの本当の名は

才谷じゃなく、坂本じゃあ」


「・・・坂本・・・?」


「そうじゃ、おまんも


聞いたことくらいあるじゃろ。


幕府のお尋ねもん、


坂本龍馬じゃき・・・」


「一・・・・・・・」


春はおし黙った。


女将から、この船宿には


訳ありの連中が泊りに来る

とは聞かされていたのだが

まさか、今巷を騒がせて


いる坂本龍馬だとは夢にも

思っていなかったのだ。


幕府が血眼になって探して

いる人物故、もっと


体つきのがっしりした


大男だとばかりに予想していた。


まさか、この優男が・・と

春は、再び坂本さんへ眼を

向けるとまじまじと


その顔を見つめる。


「なんじゃ、わしの顔に


何かついちょるがか?」


「い、いえ、今、巷を


騒がせてはるのに、


どうして名を証したんやろ

て気になって一・・・・」

その質問に、坂本さんは笑った。


「そんなのは簡単じゃき。

わしは人に嘘をつけられん

性分なんじゃ。仲間は皆、

偽名を使えといいよるが、

わしは出来る限り使いたくはない」


「一・・・・・・・・」


春は、坂本さんの瞳に


自らの瞳を重ねる。


その瞳は、目の前の春では

なく、もっと別の・・・・

遠い未来を見つめている


ように感じられ、なぜか


春の胸は、その瞳に


波立ち、柔らかな波紋を


幾度も広げていった。


「・・・人も信じられん


もんに人はついてこないと

思うからぜよ」


この一言に、春の気持ちは

一気に固まった。


「・・・すんまへん」


「え一・・・・・・・?」

「うちも《嘘》をついて


ました。うちの名ほんまは

春やのうて《龍》いいますのぇ」


「・・・・・・こりゃぁ、

魂消たぜよ。


お龍さんいうがか?


なんじゃあ、わしらは


似たもん同士じゃのう」


まるで、幼子のように


無邪気に笑顔を見せる


坂本さんに龍はいつしか


心がほぐれ、フッと


微笑んでいた。
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