短篇集

□朧月夜
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  〈ある朧月夜〉


「・・・・・おこしやす」

島原・櫻屋の一室で   

椿は現れた客人へ丁寧に 

頭を下げていた。


もう随分、島原のしきたり

にも、慣れているようだ。

そこへ、襖戸から姿を  

見せたのは一・・・。


「一・・・いいよ、


そんな無理して京弁


使わなくても」


この間、あっさり椿に  

振られたはずの藤堂さん。

ニコッと商売道具の笑みを

浮かべる椿に、照れている

のか、手を頭へ回し


つぶやきながら腰を下ろした。


「・・・そやかて、これが

島原での決まりやさかい」

椿は、藤堂さんへ酒を  

つぎながらに答える。


最初の頃が、嘘のように 

慣れた手つきであった。


「ここの暮らしには、


もう、慣れた?」


酒をつがれつつ、


藤堂さんが尋ねると、  

椿はスッと目を伏せた。


「一・・・慣れるも何も、

これしか、生きていく道が

あらしまへん。嫌でも、


つろうても、うちには


この道しか、ありまへんのや」


「一・・・・・」


藤堂さんの言葉が止む。


きっと、今までに経験した

ことのない出来事にあって

いたことだろう。


そして、その中に


うれしかったことが一体


いくつあったことか。 


そんなもの、数えるほど 

しかなかったに違いない。

すると、藤堂さんは懐から

あるものを取出し、椿へ 

差し出した。


それは、綺麗に服紗で  

包まれている。


椿は、小首をかしげた。


「・・・なんどすか?」


「・・・服紗を


解いてみてくれない?」


藤堂さんは、


恥ずかしいのか、言うと 

同時に杯の酒を一気に飲み干した。


よくわからないと思いつつ

椿は、包まれた服紗を解いてゆく。


現れたのは一・・・。


「一・・・っ、これ」


「一・・・香木の櫛・・。

行き道に、見つけて


それに、〈椿の花〉が


彫ってあったから・・・。

どうかなと思って・・・」

解かれた服紗から、香木の

良い薫りが、部屋へと  

広がってゆく。


そして、椿はその櫛を  

頭につけ、


「一・・・ありがとう」


と、微笑んだ。


すると、藤堂さんは   

傍らに置いていた刀を手に

立ち上がった。


「え、もうお帰りどすか」

椿が驚いて顔をあげる。


「一・・・ちょっと、


野暮用でね。余り、長くは

いられないんだ」


隊の規則では、無断での 

外泊は好ましくない。


故に、帰らねばならなかったのだ。


尚も、哀しげな眼をする 

椿を、藤堂さんは一時  

胸に抱き、


「・・・また、来るね」


とだけ、つぶやき、椿の 

言葉を待たずして、去って

いってしまった。


一人残された、椿が   

見つめる窓には、苦しくも

綺麗な朧月一・・・。

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