みじかいの

□完全無欠の迷宮
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玄関のフローリングが小さく音を立てる。

駆けだしそうになる足を懸命に抑えて、なるべく大きな音を立てないよう気をつけながら、リビングの扉を開けると、ソファの上に毛布の塊が一つ。

「結子(ゆいこ)、俺だよ」

そう声をかけると、ゆっくりとだが、毛布の中から彼女が顔を出した。
何度もこすったのだろう。すっかり赤くなってしまった目元と、両目をうっすら縁取るクマが、下手な化粧のように映る。
俺の顔を見て、ほっとしたような表情を見せた彼女。
ソファの上から足を下ろして立ち上がりたいのだろうが、緊張の糸が切れた身体は上手く言うことを聞いてくれないようで、すぐに傾いでしまう。
俺はそれを極力力を込めないようにして受け止め、再度ソファに寝かせた。
目だけで動かないよう告げると、足早にキッチンへ移動して、ホットココアを作ってやる。
暖かいものを口にすると落ち着く人間の心理は馬鹿に出来ない。
傷ついた彼女を癒すという役は大きすぎて、俺の肩だけには乗りきらないのだ。



「……バレ、てたの…昨日、鷹也(たかや)くんと会ったの……」

ココアを数回口に運んで、彼女はぽつりぽつりと言の葉を漏らす。
湯気のたつマグカップを支える両の腕が、あんまり細々しくて白いものだから
俺の眼はついに正視を拒んだ。


その片方に色濃く残る真新しい赤紫も、見えていない振りをした。

「結子、やっぱり…」
「ちがうの、彼は悪くないの。私が、軽はずみなことしたから…」

もともと穏やかで優しい性格の彼女は、こういうとき必ずあいつを庇う。
傷つけられているのは自分だというのに、先に傷つけたのは自分だと思っているのだ。
身体に痛みを負いながら、心にまで痛みを抱えようとするその姿は
何よりもあいつを盲目的に想っていることの象徴に思えてならない。

「本当は優しい人なの。あたし分かってる。
 だけどあたしが彼の嫌がることをするから、彼が怒るのは当然なんだよ」

違う。あの日彼女を呼びだしたのは自分だ。軽率なのは自分の方なのだ。
いっそあいつが俺を殴ればいいのに。
あいつが彼女の望むあいつになるなら、何度だって殴られてやるのに。
だがもしそうなったら、彼女は今度は俺のために傷つくだろう。
俺が傷ついたのは自分の所為だと、自分を責めるのだ。

「………結子…、俺はもう、ここに来ない方が良いかもしれない」

これ以上、あいつが彼女を傷つけないように。彼女が自分を傷つけないように。
俺は身を引くしかないと思った。それが非情な決断であることを知りながら。
しかしその言葉を聞いた瞬間、彼女は細い腕を宙に泳がせ、俺のよれたパーカーの裾を予想以上の力で掴み、そして

「…いや……!!」

今にも泣きだしそうな顔で、予想外の言葉を紡いだのだ。

「鷹也くんに、いっぱい迷惑かけてるのは、分かってる…
 だけど鷹也くんが居なくなったらあたし、あたしは………」

俯いたまま、掠れ声でそうすがる彼女。こんなに儚く脆い存在を、もう突き放す気にはなれなかった。



一度拒絶しようとした手に、今度はめいっぱいの慈悲をのせて
可哀相なほど縮こまった背中をさする。
しばらくたってから小さく鼻をすする音が聞こえてきて、ああ、また泣かせてしまったと
ぼんやり思った。

「…ごめんね鷹也くん……ごめ、んね……」

気付けば背中を撫でていた手は、幼子(おさなご)をあやすように叩くものに変わり
腕は体をやんわり抱きしめるような形になっていたが、彼女が何も言わないので
そのままでいることにする。
俺自身恋人でもない男がこんなことをするのはどうかと思ったが
こうさせているのが今まで生きてきた中で数回味わったことのある、かの燃えるような熱情でないことを悟ると、気にならなくなった。
昔悪友たちに、「鷹也には母性がある」とからかわれた時のことを思い出す。
これが俗に言う母性なのだろう。胸の奥からじんわりと暖かいものが滲み出てくるような、この感情が、きっと。

「ご、めんね………」

幾度目かの彼女の謝罪は、俺にではなく彼女自身にでもなく、あいつに対しての謝罪のように聞こえた。
彼女は何も悪くないのだが、だからと言って一慨にあいつを責める気にもなれない。
これほどまでに彼女を蝕んでしまったことは確かに許しがたいことだ。
しかし俺は、俺からも彼女からも許しを請おうとする切実な謝罪を知ってしまっていた。


そう、ちょうど今の彼女のように謝り続けるあいつを。






俺達はいつからこうなってしまったのだろう。
抱きしめる彼女の細く柔らかい髪に落ちた滴を見て、初めて自分が泣いていることに気付いた。
気付いてしまうとどうしようもなく哀しくなってくる。
こんなはずではなかったのに。
彼らはただ幸せになりたかっただけで、俺はただ彼らの幸せを願っていただけで
その気持ちのどこにも間違いはなかったはずだ。
間違いがあったとすれば、彼の愛の方角。
そればかりは俺にも彼女にもどうすることも出来なくて
彼女はひたすら自分を責め続け、俺はそんな彼女と、彼女を傷つける度に傷ついていく彼を支え続けるしかない。


「…分かった。俺はどこにも行かないよ、結子。
一緒に考えよう。結子と、あいつが幸せになれる方法を、考えよう」

涙声のままそう言った俺に、彼女はしっかりと頷いた。












完全無欠の迷宮 







どこまで遡(さかのぼ)っても、俺の犯した間違いが見つからない
彼女にあいつを紹介したことも、あいつと出会ったことも、後悔はしていない
ならばどうして俺達はこんなに苦しんでいるのだろうか
どうして俺達はこんなところで彷徨っているのだろうか

この迷宮の出口は、何処に










Fin.









100713


これは今年の春off誌に載せたものなんですが
公の場に出していいものなのか本気で悩んだ一作でした(ぇ
落ち着いていたはずのダーク路線が再来したことに戸惑いが隠せない。
しかしこの話は一度書いておきたかった。皆さん、DVは駄目です。




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