みじかいの

□今日と共に死ぬ
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ぐす、ひっく、えぐ


繋いだ手は、彼女が俺の手を強く握り締めすぎるあまりにじっとりと汗ばんでいた。
このままでは滑ってしまうし、何よりあまり気持ちのいいものではないから
俺はさっきから何度も「一旦離そう」と促しているのだが、首を縦に振ろうとしない。


ぐす、ひっく、えぐ


土手のでこぼこした道をくだっていると、身長も歩幅も合わない俺たちの手は案の定
汗で滑り何度も離れかける。
その度、より強く結び直そうと慌てて縋りついてくるその仕草が、酷くいとおしかった。

俺はこの手を知っている。この手が初めて外気に触れたその日からずっと
俺はこの手を握りしめてきた。この手を護ってきた。


ぐす、ひっく、えぐ


「…志乃、もうそろそろ泣き止んでえな?」

結んでいる方の手を少し振ってみる。相変わらずの無反応。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を何度も何度も拭うから、袖は鼻水まみれ、目の周りは真っ赤
しゃあないなぁ、と立ち止まり、ぐずる目線を合わせるためしゃがみ込んだ。
突然のことに驚いた様子の顔を白いハンカチで拭いてやる。

「このハンカチ、母ちゃんが持たせてくれたんや
 大事な大事なもんやけんど、特別に志乃にあげような。母ちゃんには内緒にせえよ。」


ぐす、ひっく……


そう言うと、ようやく彼女は首を縦に振った。
しゃくり上げる規則的な音を止め、俺から受け取った真っ白のハンカチで顔を拭くことに専念する。
俺はその赤い顔がおおかた綺麗になったのを確認してから、自然と離れていた手を結びなおして
再び土手道を歩き始めた。


固く繋いだ手はそのまま、けれど真っ直ぐ前を見て。




家を出たときは茜色だった空に、朱塗りの大輪はもういない。
所々残る夕焼けの名残と、それを侵蝕してゆく夜の色とが中途半端に交ざりあって
なんとも幻想的な景色を創りあげている。

こんなにも美しいものか、と思った。

明日には自らの足で死へと向かわなければならない俺の上で、この空は、雲は
そんなこと関係ない、と言わんばかりに美しい。

少しずつ領域を増やしてゆく藍を、なかば睨むように見上げる
それは最期のときまで忘れないよう、強く強く瞼の裏に焼き付けるのに申し分ない風景だった。







俺に赤紙が来たのは3日前で
親父の配属された部隊が襲撃された知らせが入ってから2週間後のことだった。
大黒柱を失った家族が、やっと安定し始めた矢先の召集。
ちっぽけな、だけど大きな意味を持つその紙を握り締めたお袋が、俺に背を向けて
肩を大きく震わせて泣いていた光景は忘れられない。
お袋は家族の誰よりも明るくて、強かった。そのお袋が涙を流すところを、俺はそのとき初めて見た。


3日後、家を出たその瞬間
俺は親父とお袋の息子でなくなり、3人の弟妹たちの兄ではなくなるのだと
国を護るために戦う、一人の兵士になるのだと悟った。
そのことに寂しさは覚えたものの、苦しみには感じていない。
この国を護ることはすなわち、何より大切な家族を護ることに繋がる。
だがせめて、別れの時間までは良い息子、良い兄でいたいと思った。
戦争が続けばやがて次男三男も徴兵されるだろう
母と志乃の生活も苦しくつらいものになっていくに違いない。
そんな彼らに少しでも希望を与えるために、頼もしい兄の背中を残そうと思う。
かつて戦地へ向かう親父の背に、希望を感じたあの日のように




俺が戦場に向かうことに、次男と三男は割りと早い段階から納得の意を示した。
一度親父を送り出しているのがあったのか、はたまたいつかこんな日がくることを予想していたのか
しかし幼い末の妹、志乃は話を聞いた瞬間見事に臍を曲げてしまって
口をきくことはおろか、ろくに目も合わせてくれなくなった。文字通り一方的な無視である。
親父を送り出すときも多少駄々をかねたが、ここまで酷くはなかったと思う。
どうすることも出来ず途方にくれる俺を見て、次男が大きな溜息をついた。

「あんちゃんはなぁ、お国のために兵隊さんになるんやで。お国と志乃を護るために行くんや
 いつまでもふてくされてあんちゃん困らしたらあかん。」

彼はそう言って志乃を叱ったが、彼女だってなにも俺を困らせたいからむくれているわけではないことを
俺は知っている。だからそれ以上咎めさせはしなかった。

志乃は怖いのだ。父親を失った場所へ、兄である俺を送り出すことが
そしてやがては自らの命をも奪うかもしれない戦争を、志乃は誰よりも恐れている。




出発前日の夕方。いまだ仲直りできずにいる俺たちを気遣って
お袋が玄関先に嫌がる志乃を引きずってきた。

「とうぶん会えんようになるねんから、散歩くらい行っときぃ。」

このまま別れるなんてことにはしたくないと思っていたから、お袋の厚意に感謝した。
志乃お気に入りのあの土手を歩こう。夕陽を見ながら、秋茜を探して
たとえ機嫌が直らなくても、最後にめいっぱい兄貴らしいことをしてやれればよいのだ。







ぐるりと回って戻れるようになっている散歩コース
足取りは既に帰路にある。
兄妹水入らずの時間もあとわずかということだ。
あっという間の貴重な時間を、有意義に使えないまま戻ってきてしまったような気がして
ふいに後悔の波に飲まれる。が、志乃は

「…あんちゃん、戦争に行っても帰ってきてな?また土手にお散歩行こな?
 父ちゃんみたいに、知らんうちにおらんようなったりせえへんとって?
 あんちゃんが帰ってきたらー…川原のシロツメクサで、指輪とかんむりを作るんや
 そしたらあんちゃんは王様で、志乃はお姫様やで!」


そう言って無邪気に笑った。






今日が終わり明日が来ることを、今初めて切実に心苦しく思う。
国なんかのためじゃなく、ここで愛するものたちだけを護れたらどんなにいいだろうか

何も知らない妹の質問には答えず、代わりにその小さな手を、強く強く握り締めた。



それは俺の手に志乃の痕跡を刻み付けるのではなく、どちらかといえば
志乃の手に、俺が今ここに在(あ)った証拠を遺す行為だった。



















愛するお前はせめて息災で


さよなら、さよなら、さよなら










Fin.









100219

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戦争はよくないですよ

友人に真顔で
「やっぱり哀しい話の方が面白い」と言われてしまった
地味に落ち込む
明るい話が上手く書けるようになりたいです





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