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□カウンターのあちらとこちら
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「桐生さん?」
強気でくりくりした目をして、覗き込んできた。それを見て思う。

俺たちはカウンター越しの関係なのだ。所詮そういうものだ。
でも今なら、きっと、手を伸ばせば届く。

「きゃっ!」

ソファに追い詰め、押し倒す。

「お前がやられそうになってたのは、こういうことだよ」

関節に力を込める。軋む音が聞こえてきそうだ。篠宮の手首が圧迫されて白くなっていく。俺の手の形に。
ああ、そうだ、俺の形。歯型を付けて、痕を付けて。胎内も俺の形にしてやればいい。
そんな考えが頭の隅で芽を出した。
咄嗟に否定する。そんなことはしない。するわけがない。こんなのは脅しに過ぎない。
布の擦れる音が背筋を駆ける。
熱情なんかこれっぽっちもない、けれども確かに、微かに震えた息が部屋中を埋め尽くす。
なんだやればできるじゃん。色気、あるんじゃねえの?ほんの少しな。少しだけ。
そう、少しだけなら、いいだろう。
ただ少し、脅かすだけだ。

「やめ…、っ!」

制止も聞かずそのまま頭を篠宮の胸に埋める。心臓の音。
聴診器を使った時と同じくらいはっきり聞こえる。こいつの命の音はやけに速い。
そうさせているのは自分だ。そう思うと加虐的な気持ちが湧いてくる。

「き、りゅうさん、」

これ。この目。絶望に脚を突っ込んだ目。
同じものを、今まで何回も見てきた、気がする。
乾いた自分の唇を舌先で舐めると、まだ何もしていないのに、篠宮の身体が跳ねた。

「お前が知らなかっただけだろ」

首筋に舌を這わせていく。コロンだろうか。石鹸の香りがする。
痺れを切らしたように、噛み付いたり、吸い付いたり。冷えた首筋がどんどん熱を帯びてくるのを口内で感じる。

「桐生さんは…本当は優しいんです。今だって」
「はぁ」
「自分からこんなことしてまで、世間知らずな私に、危ないんだよって…教えてくれてるんです。」
「意味わかんない。篠宮くんの頭の中はふわっふわしてるねぇ、本当に」
「だから私は、こんなの、平気です」

篠宮の頬に涙が伝った。
思考が断絶されたかのようだ。指すらも動かなくなってしまった。泣いてるくせにやけにはっきりした口調で言うもんだから。
…何が平気だよ。そんなわけないだろう。
組み伏せた体勢で首に顔を埋めたまま、聞く。どんな顔をしているのか、あまり見たくなかった。

「お前にわかるの」

どっちが本物のそいつかなんて。そう聞く前に篠宮は即答してきた。

「分かります」
「…もうやめたら、そういうの」

そういう知ったかぶり。そういう優等生じみた言葉。もう沢山だ。

「桐生さんはこんなことする人じゃありません」
「現に俺はこういうコトしてるけど、どうなの。そこらへんは。篠宮くん」
「私は、」
「世の中、そんなもんなんだよ。じゃあ、篠宮には人の裏表が分かるのか?出来ないだろ。寧ろ人より出来ないだろ。なあ、どうして分かるんだよ」

それでも篠宮は言うんだ。俺の責め立てる声なんてなーんにも聞こえてないかのように。繰り返し、繰り返し。

「分かります」
「…うそつくなよ」
「分かります」

俺の背中に腕を回してきた。
そろりと、でも確かに。
服越しに伝わってくるそいつの手の感触は、ただただあたたかかった。きゅう、と抱きしめられる。後頭部にも手が回ってきた。ゆっくりと俺の頭を撫でる。
俺は口をつぐみ、篠宮の声を聞くことしか出来なかった。

「桐生さん、私は平気です」

いつまで経っても読めない奴だ。なんなんだろう、こいつは。どうして俺はこんな気持ちにならなきゃいけないんだ。

「……帰って」

口から出てきたのはひどく低く掠れた声だった。上着を篠宮の顔に向けて投げる。

「わ、っぷ」

自身のパーカーを探る。入っていたポケットマネーを力任せに握り潰し、篠宮の胸元に押し付けた。もう終電もギリギリの時間だ。タクシーでも捕まえてさっさと…そう、逃げるように、帰れ。
篠宮は押し付けられたそれを見て更に顔を歪めた。涙が新しく溢れて床に落ちる。何も言わなかった。罵詈雑言さえも。
金の握られた篠宮の右手が空を掻く。それを認識した瞬間に乾いた音が響いた。
パチン。
ふわりと金が宙を舞う。

「……」
「……っ」

涙で視界が滲んでいるからだろう。ただでさえ非力なこいつの平手打ちなんて、全然響かない。
バタン。
扉が閉まる。閉まった。
二人の間の扉が閉まった。二度と開くことはないのだろう。
床に散らばったぐしゃぐしゃの三万円をぼーっと眺めた。

パソコンの前に置かれた俺専用のグラス。ああ、さっき残したままだったっけ。残り少しの酒をふらりと煽る。
透明の液体が体を通り抜ける。喉が熱い。いつもの味が、いつものように俺を繋ぎ留める
…筈だった。
唇を離し息をつく。その時だ。
グラスの底に映った自分と目が合った。

「…は?」

不思議な感覚に捕らわれた。自分の目に吸い込まれるような錯覚。例えるなら風呂場の渦潮を覗き込んでいるように。
ぐるぐるぐるぐる。
今まで色んなことがあった。今までの俺の人生にはこんなのより余程深刻なことが沢山あった。
けれど、自分は今までこんな、
ここまで酷い顔をしたことがあったっけ?

吸い込まれる。
そう思ったその瞬間、

「っあああああああああ!」

グラスを壁に投げ付ける。
ガラスが弾ける。盛大な音と共に。
収まらない。荒い息。目の前が点滅する。
破片を右足で踏みつける。
踏みつける、踏みつける、踏みつける。

痛い。心臓の奥が痛い。
頬の衝撃は前やられた時のほうがよっぽどでかかった筈なのに痛い。痛い、痛い、痛い。
もう無理だ。
見て見ぬふりをしたっていつもの酒を呑んだって何の効果もない。何の歯止めにもならない。
どんな策も無意味だ。認めてしまった。もう遅い。映光彬彬な未来など望めない。
最初からそうだった。最初から決まってた。
…そう決まっていたのに。

「は、っ…はぁ…」

いつまでそうしていただろう。
破片が全部粉末状になった頃、ソファに倒れ込むように座った。
脚を投げ出し、頭を抱える。

何故だろう、少し笑っていたような気がする。逃げ出したのはどっちだか分かりゃしない。そのままずっと床を凝視し続けた。このまま朝まで、そうしていたいような気分だった。



所詮そういうものだった。
カウンター越しの関係なのに手を伸ばしてしまった。
本当に馬鹿なのは、きっと俺の方。



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