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□小さな事務局員と小さな時間
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春も随分近づいてきた。
もうマフラーも必要ないくらいの気温だ。
心なしか梅のつぼみも膨らみ、鳴らすヒールの音も軽やかに響く。
深呼吸すると、うっすら湿った柔らかい空気が肺に滑り込む。

そっか、春が来たら、社会人になってもう二年も経つんだ。
かなり仕事にも慣れてきた。大変なこともたくさんあるけれど、やりがいもある。
大きな企画も丁度区切りがついたし、心の荷が下りた気持ちだ。
今日はどのバスソルトを使おうか、そんなことで頭がいっぱいだった。

軽やかに足を進めて、もう自宅の前。
玄関ドアには花のリースが飾ってある。白を基調とした冬をイメージしたものだ。
そうだ、そろそろ春用のものも探してこなきゃ。また直さんをショッピングに誘おうっと!

鼻歌交じりに部屋のドアを開けて、閉めて、鍵をかけた。


その瞬間。
ぞくっとした嫌な雰囲気が背筋をかすめた。自分の家とは思えないほどの居心地の悪さ。
まるで誰かがいるような。
この感覚はいつだったか、あの時、そう、大学の卒業式の帰りと同じ…
気のせいでは、ないみたいだ。


「こんばんは、篠宮優」


背後から聞こえた女の子の平坦な声にびくりと肩が震えた。
春の兆しなどどこへやら、その瞬間あの時の記憶がフラッシュバックする。
薄ら寒いネオンの輝く会場が。

恐る恐る振り返るとそこにいたのは、黒い服をまとった少女。
前より少し背が伸びた気がする。でもその表情は以前と変わらない。にこりともせず、ただこちらを見つめていた。


「LGT事務局の者です」
「あなた…どうして…!?」
「招待状をお持ちしました」


少女は質問には答えず、懐から取り出した黒い封筒とDVDをそっと机の上に置いた。
心臓が高鳴る。見なくたって分かる。あれは私宛なのだと。
喉から溢れ出た言葉は思っていた以上に震えた。


「私は、私たちはこの前のゲームで勝ったのに、まだ同じことをするの?」
「はい。欲望がある限り、ライアーゲームは続くのです」
「……私は絶対に参加しません」
「そうですか。でも、それは出来ません。今回の主催者は貴女に会いたがっているのです」
「…この封筒を開封しない限り、強制参加にはならないルールのはずですよね?」
「その封筒を捨てたところで、また新しいものが届きます。主催者はどんな手を使ってでも貴女をゲームに参加させます」
「私は参加しません!帰って…」
「今回の集合場所は、」
「帰ってください!」

思わずその背中を押した。
「…っ」


そしてはっと我に返る。
そこにいたのは、転んでしまって床に手と膝をついている女の子だった。表情は見えない。
ただ、私が押して転ばせてしまったのだということは分かった。


「ご、ごめ…大丈夫!?」
「平気です」
「今絆創膏持ってくるから、」
「必要ないです」


少女はさっと立ち上がって、家のドアに手をかけようとした。
私の言う通りに帰ろうとしているのだ。


「ま、待って!」


そう言って手首を掴んで制すると、彼女は冷たい視線をこちらへ向ける。上目遣いされているのはこっちなのに、なんだろうこの迫力は。
思わず手を離しそうになる。
でも、だめだ!
ちょっと怖いけど、直さんだったらきっとそうすると思うから。


「とりあえずここに座って!」


半ば強引に机の椅子に座らせる。
そんな時にも少女は眉をひそめることもせず、ただ無表情を貫いていた。

バッグを漁り、絆創膏と消毒液を探す。
邪魔な資料の束を手にとって、外へと押しのける。
探し物は化粧ポーチの隅に追いやられていた。
茶色の絆創膏が5つに、少し小さめの花柄の絆創膏が1つ。
花柄の絆創膏、そういえば桐生さんにあげようとした時に拒まれたものだ。まだそのまま入っていたみたい。それから茶色のものも用意するようにしたんだっけ。
女の子だし、大丈夫だよね。むしろそのほうが嬉しいだろう。事務局の人だっていっても、まだ年端もいかない女の子なんだから。

椅子にちょこんと座った彼女に目線を合わせる。
アンティーク調の家具によく似合っていた。


「どこを擦りむいたの?」


そう尋ねると、彼女は思ったよりも素直に手を開いて見せた。
小さな手のひらにはじんわり血が滲んできている。
その傷に思わず声を漏らす。


「痛そう…ばい菌が入ると大変だから消毒するね
ちょっと沁みるかもしれないけど、ごめんね」


消毒液が伝っていく。
だが、小さな事務局員はどこまでも無表情で、じいっと自分の傷口を見つめていた。
握ったその小さな手は柔らかで温かくて、ああ、この子も人の子なのだと、実感した。


「ここら辺かな…」


ぺたり。
真っ黒な服に身を包んだ彼女の手のひらに、花が咲く。


「よしっ、これで大丈夫だよ」

彼女はその声に合わせて立ち上がった。
そうして私と少し距離があるところまで歩いていって、しゃんとした姿勢で聞いた。


「何故手当してくれたのですか」
「何故って、怪我してる人を放っておけないし、私のせいだし、」
「嘘です。貴女は一瞬迷いました。それなのに何故手当してくれたのですか」


この女の子はどこまで見抜いているのだろう。そう考えるとやっぱり少し怖い。
それなら、正直に伝えよう。


「…私の知り合いなら、誰でも分け隔てなく助けると思って。私もそういう人でありたいと思ったから」
「その知り合いとは、神崎直のことですか」
「なんで知って、って、当たり前か」


もう、私が知っていることは彼女も全て知っているのではないかという錯覚に陥る。
事務局にとって前ライアーゲームを潰した人だ。
そんな人のことを、この子が知らないはずがない。


「あの人のことは嫌いです」
「あなたたちにとっては一番の敵だもんね」
「そうです。でも違います」
「?」
「どちらにせよ嫌いです」


小さな女の子は淡々と言い、傷口を確かめるように一度手を握り、また開いた。


「貴女は本当に参加しないのですか」
「しない」
「何故ですか。勝てば莫大なお金が手に入るのに」
「それでも、私は参加しない」
「ですが、ほとんどの者は金で動きます。以前の貴女だって。」
「私は、」
「貴女も金に動かされて以前のゲームに参加した。招待状にあったでしょう。一度招待状を開封した後に拒否した場合は、一億円を返済の上さらに一億円を支払って頂きますと。
 あなたはそれが怖かった。十分に動かされています」
「た…確かにそうだけど」
「篠宮優、貴女は以前ゲームで勝った。圧倒的不利な状態からの逆転…今回の主催者はそれが見たいのです」
「今回のってことは、前の主催者とは違う人ってこと?」
「はい」
「でも、私はもうあんな思いは…したくない」
「篠宮優、これはチャンスなのです」
「へ…?」
「神崎直と同じことをすればいいのです。そうすればライアーゲームは消滅する。
 もう二度と立ち上がらせなくすることも出来るかもしれません」
「…!」


ライアーゲームを、無くす?
ぽかんとした私に、少女は諭すかのように呟いた。


「神崎直も愚かな参加者を何人も救ってきた。篠宮優にならそれが出来る。
 現に以前のゲームで貴女は秋山と共に18人の参加者を救った」


頭の中に声が響く。
救う、直さんのように、私も?
私になら、それが出来る…?

少女は私の横をすり抜けて、最後にこう言った。



「それでは、また会場でお会いしましょう」



ぱたんとドアが閉まる。
部屋に一人取り残された私は、封筒とDVDの前で立ち尽くす。
帰ったら使おうと思っていたバスソルトのことなんてすっかり忘れて。
一晩、ずっとずっと考えた。

そう、着信を伝える携帯の画面に気付くこともなく。

















―――
――――――





生暖かい風が頬を撫でる。


篠宮優を罠にかけることに成功した。
二度と開催されなくなるなんて有り得ない。
ライアーゲームは人の手を渡って続けられる。
今までも、これからも。

人は裏切り、傷つけ合うものだ。
そんな人間を助けることが、どれだけ愚かな行為なのか。
人を信じて破滅した馬鹿な私の母。無欲なお医者さん。大好きで、大嫌いだった。




嫌いです。
母も、神崎直も、篠宮優も、優しいから嫌いです。



「…貴女は優しいから、こんな簡単な罠に引っかかるのです。」



人は私を天才と呼んだ。IQ180超えのスーパー小学生、ノーベル賞は確実と。
最高学府主席の貴女には分かるだろうか。
いや、よそう。仕事はまだ残ってる。

開けた道に出ると、迎えの車が来た。



慣れた様子で乗り込む少女、
次は、世界に絶望した元お医者さんの元へ。







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