T

□内緒と書いて嘘と読む
1ページ/1ページ








季節はもう冬。
もう雪が降っているところもあるというから驚きだ。
今年はこっちでも雪は降るだろうか。
思いを馳せ震えながら桐生さんのお店に急いでいた時だった。

「あれ…?」
マスターさんだ。
こんな寒く暗い中。

私はマスターさんをカウンター越しでしか見たことがなかった。
なんでだろ。お買い物だったら他のスタッフさんが行く筈だし…
そう思い、特に深く考えることもなく私はそれに近づいていった。

ここがお店の裏口だろうか。
暗闇をすかし見る。
お酒が何本も入っていたであろうその山積みのケースの影から話し声が聞こえた。
一緒に話しているのはきっと女性だろう。

思考を巡らした瞬間に冷たい空気が首筋をかすめた。


「お願い、少しでいいのよ、ね!?少し話ができたらそれで…」
「困ります。もう来ないでくださいと言った筈です」
「あんたに何がわかるって言うの!!」
「お帰りください」
「あんたなんて…!!…っもういいわ!」


高い音程で罵るその声、ヒールの音が向こう側へと遠ざかっていく。
驚いた。
自分に向けられた敵意でないにしても思わず縮み上がってしまう。

ああ、そうだ、これを誰にも見せたくなくてマスターさんはわざわざ裏でお話をしていたんだ。
それなのに私はこんなところで肩身狭く何をやっているのだろう。

何も言わずに戻るべきか、でもそんなのって、…うだうだ考える自分が恨めしい。

「優ちゃん…?」
「!」

つま先のアスファルトを眺め垂れた髪に隠れていた筈のマスターの顔。
いつの間にかこちらを向き、私に視線を投げかけていた。


狼狽えても言い訳してもそんなの嘘だ。
そう思い、決心。
少し会釈をする。
思い切って気になったことを聞いた。
 
「あ、あの人は…?いいんですか?」

少し間が空いてマスターがぽつりと言った。
「ああ…あの方は、私の恋人だった人です」

「えっそうなんですか!?なら何で、」
追い返す必要なんて、
そう言いかけたところでマスターさんが寂しそうな表情を浮かべた。
その反応に何も言えなくなる。

「こういう職業柄…ってことですかね。色々ありまして。他のお客様のご迷惑になることもありますから」
「そう…ですか」

何があったのか私には分からない。何と言っていいか分からない。
いつも微笑みを絶やさないマスターさんにこんな表情をさせてしまったことが心苦しかった。私はまた余計なことをしてしまったんだ。

「お見苦しいところを見せてしまいましたね。
オーナーには内緒にしてもらえますか?
私、こんなことが知られたら、怒られてしまいます」

気持ちを切り替えるかのように小首を傾げるこの人のお願いを聞かない理由なんて一つも無かった。

「は、はい!分かりました!絶対言いません!」
安心してください!偉そうにもそんなことを口走ってしまう自分の口。
また嫌な思いをさせてしまっただろうか。私の駄目な癖。

だけどマスターさんはそんな私を見透かしたように入口へ手を向け促した。
「今夜は冷えますよ。さあどうぞ、早く中へ。
あ、一緒に戻りましょうか」


お仕事お疲れ様でした、オーナーももう来ていますよと言って微笑むマスターさんの顔は、いつもと何も変わらない。


ああ、よかった…
私も変わらない笑みを返した。


ホールへの扉をくぐりマスターが言う。
「いらっしゃいませ、優ちゃん」






(優しい嘘はたまた残酷な嘘)






[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ