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「…ねみぃ」

電車の中で、背の低い八田は精一杯背伸びをしてつり革に掴まりながら、ひとつ大きな欠伸をした。
少し早めではあるとはいえ、通勤時間の電車内は比較的混雑している。
近くにいた新聞を広げているサラリーマンにじとり、と視線を向けられる。
近くで欠伸したのが気に入らなかったのか批難するような視線に多少萎縮しつつも、そっちだって新聞広げてつり革にも掴まらないで邪魔になってんじゃねえか、なんて心中で悪態を吐く。
朝からお袋におつかいは頼まれるしオッサンには睨まれるしついてねーな、なんて溜息を吐きかけたとき、駅に着いたわけでもないのに誰かが移動してくる気配がしてちらりと視線を向ける。

「あ、やっぱり。八田くんだ」

近付いてきた女性と顔を鉢合わせて、予想外の人物に、え、と小さく声が漏れた。

彼女、ヒロインさんは昔この辺りに住んでいた頃に近所に住んでいた6歳年上の人で、小さい頃鎌本と一緒によくお世話になっていた。
うちの両親とも顔見知りだ。
上級生と喧嘩してお袋に怒られて家出(というほど大したものではないが。)したときなんかには、必ず探して迎えに来てくれて一緒に謝ってくれた。

懐かしい記憶を掘り起こしながら、まだこっちに住んでたんだな、ってちょっと胸が暖かくなった。
家族の前では区別するために“美咲くん”と呼ぶのに、人前では俺のことを気遣って“八田くん”と呼んでくれるところも変わってない。

「ヒロインさん、久しぶり、です」

「何年ぶりだろ、6年ぶり?7年ぶり?わー、大きくなったねえ。これから学校?」

学校、という単語を聞いて再び気持ちが、ずしり、と重くなる。

「…ああ、まあ、」

「へー!私も電車通だから一限あるときはまた会えるかもしれないね!」

「あ、いや、俺はいつもはチャリなんスけど、」

「そうなの?」

ちらり、とヒロインさんの視線が下りて校章を確認する。

「でも、日向中ってチャリ通OKだったっけ?」

いや…と八田が言葉を濁すと、察したように、ふーん、と流してくれる。

昔からそうだ、この人は。
俺が誰かから責められるようなことをしたときも、この人だけは俺のことを責めなかった。

ちょうど学校の最寄り駅に着いたので、学校に行きたくないような、この場にも居たくないような、もやもやする気持ちでヒロインさんに、じゃ、とひとこと言って逃げるようにドアへと向かった。
ホームが見えて降りようとしたところで、八田くん、と声を掛けられる。
何スか、と聞きながら振り返ると、手首を掴まれる。
驚いて、え、と声を漏らすも、ヒロインさんはそのままじっと見つめてくるだけで何も言おうとしない。
次第に恥ずかしくなってきて、かーっと顔に熱が集まってくる。
身体が硬直して縮こまるように腕を引くものの、離してくれる素振りはない。
あの、と抗議しようとしたところで、背後でドアの閉まる音がした。



「ああーっ!」

時すでに遅し。
どうすんだよ、これ…間に合わねえぞ、とがっくりと肩を落として零すと、目の前にいたヒロインさんは、楽しそうに笑い始めた。
最初は声を押し殺したような声が次第に、あははは、と遠慮のない笑い声になってきて、掴んでいた手首をするりとあっけなく解放して腹を抱えて笑う。
一通り笑い終えたのか、目尻に溜まった涙を指先で拭いながら、そのまま楽しそうな笑顔を向けてくる。

「ねえ、八田くん。海に行こうか」



制服だと目立つから、と途中の駅で一旦電車を降りる。
この駅は着飾った女性が多いから、どうも苦手だ。
萎縮しながらヒロインさんに付いて歩いていると、慣れているのか迷うことなくさくさくと歩いて建物の中へと入っていく。
普段なら絶対立ち入らないような女性向けの服や装飾品が並べられたガラス張りの建物の中で、メンズ服の置いてある階に辿り着く。

すごく居心地が悪い。

ぱぱっと服を見繕ってくれたらしいヒロインさんに手渡され、あっち、と試着室へと促される。
着替えて試着室から顔を出したら、次はこれ、と今度は違う服を手渡されて、うえ、と嫌な呻き声が漏れてしまった。
心底嫌そうな顔をしてるだろう俺に楽しそうな顔を向けて笑いかけてくるヒロインさんは、もしかしたら性格が悪いのかもしれない。


「この服、このまま着ていってもいいですか?」

数着試着してやっとヒロインさんのお気に召すものが見つかったらしく、はいもちろん結構ですよ、こちらへどうぞ、と店員に促されて会計をするためにレジへと向かう。
俺が財布を取り出そうとすると、私が払うから、とヒロインさんに制止される。

「いや、でも、」

「いーの、いーの。大人の財力舐めないでよね?」

ノリノリでウインクしてみせたヒロインさんに閉口していると、ピッと音がしてレジに商品の合計金額が表示される。
それを目に留めて、明らかに足りないだろう財布の中身を確認することもできず、こんな高い服、と抗議しても、お姉さんに任せなさい、とか、今日の記念に、とか言って結局きいてくれなかった。



季節はずれの、海開き前の砂浜を歩いている人はほとんどいない。
たまに犬の散歩をしているらしい近所の住人とすれ違うか、ジョギングしている人とすれ違うか、それぐらいだ。
ざあ、と波打つ音とともに風に乗ってやってきた海の匂いが鼻を掠めた。
きらきらと太陽光を反射する様は夏の風景と変わらないものだが、身体に吹きつける風はまだ少し肌寒かった。
人もまばらな平日の昼時。
ヒロインさんは駅を出てからと変わらない足取りで真っ直ぐ海辺へと歩いていく。
そのまま海へ入ってしまうんじゃないか、と思って焦りかけたときに、さくり、と足を止めた。
そうしてそのまま徐ろに、海のバカヤロー!、とドラマみたいに大声で叫んだ。
吃驚して、恥ずかしくて、思わず周りをきょろきょろと確認してしまった。
幸いにも誰にも見咎められていない。

「何やってんスか、ヒロインさん!」

「え、だってせっかく海に来たんだもん」

けろっとした顔で当然のように言ってのける。

「八田くんはやらないの?」

「やらねえよ!」

えー…?とぼやきながら不満げな視線を送ってくる。

「…やらねえからな」

ぶう、と子供みたいに頬を膨らませる彼女がなんだか新鮮で、視線が釘付けになる。
呆けたように口を半開きにして眺めていると、彼女がふいに膨らませていた頬を自分で風船を割るみたいに指先でついて、ぶはっ、と息を吐き出したものだから、思わず吹き出してしまった。
そのまま、はははっ、なんだそれ、と笑い転げていると、ヒロインさんも嬉しそうに笑顔になる。
ほんの少し肌寒いだだっ広い砂浜で、二人きりで飽きるくらいに笑った。



「もうこんな時間かー」

端末を眺めながら続けて、もう帰らなきゃね、とヒロインさんが呟く。
その言葉で思い出したように、一気に現実感が身体に戻ってくる。

ああ、そうだ。
今日は平日で、明日からはまた学校で、本当は今日も学校に行かなきゃいけなくて…

ズル休みしてしまったことが罪悪感となって、ずしり、と嫌な重さを感じさせるように圧し掛かってくる。
そうですね、とも、いやだ、とも言えなくて、黙ったまま陰鬱とした気持ちでじっとりと足下に視線を落としていると、しゃり、と砂を踏みしめる音をさせてヒロインさんが近付いてくる気配がした。
ふいに手の平に何かが触れて驚いて顔を上げると、ヒロインさんと目が合った。
ゆっくりと優しく俺の手を掬い取った彼女の手は、戸惑うようにそのままやんわりと握ってくる。
真面目な顔のような、無表情のような、うまく感情の読めない顔で、彼女はゆっくりと口を開く。

「…一緒に、このまま二人で、駆け落ちしない?」

その言葉に、彼女の表情に、強烈な引力のようなものを感じて、一気に周りの雑音は遠のき、視線は彼女に釘付けになる。
海風にさらさらと髪が靡いている。
心臓をガッと鷲掴みにされてしまったようで、瞬き一つできない。
呼吸すら忘れてしまったみたいだ。

この人は、俺と同じで、このクソッタレな世界に辟易しているんだろうか

「なんてね」

ふっ、といきなり顔を緩めてそう言った彼女は、風で随分乱れてしまった髪を手櫛で梳きながら口角を上げて笑顔を作った。
なんだか、影のあるような笑顔だった。
いつの間にかするり、と彼女の手は離れてしまっていた。
全てに現実感がなさすぎて、彼女の手の感触すら、もうすでに思い出せそうになかった。

彼女の隣を歩くには、俺じゃ役不足だったのか



ただ漠然と、早く大人になりたいと。

そう思った。






あとがき(memo8/3)
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