幼い頃、勝呂は傷付きやすく、泣きやすい子供だった。それは幼いが故の純心さが、色々なことを素直に受け止め、それを易々と傷へと変換させ、あまつさえそれを心中に蓄えてしまうからだった。





『祟り寺』






物心ついた頃から、勝呂を蝕み続けたこの言葉。この言葉は鋭利な刃の如く、幼い勝呂の心を容赦なく切り捨て、そして抉っていた。大事な家族を、門徒のみんなを、侮蔑して侮辱して侮慢して、貶めて辱めて蔑視する、まるで呪文のような言葉。どこに行っても誰に会っても絶対に吐き掛けられたこの言葉に、勝呂は何度傷付いて、涙を流してきただろう。





「違う! 祟り寺なんかやない!」





幼い勝呂がどれだけ強く主張しようとも、他人からの評価は変わらなかった。『祟り寺の子供』だからと、同世代の子供たちに難癖をつけられることも少なくなかった。その度に勝呂は暴力に訴え、間違いを正そうと躍起になった。しかしそれで払拭が叶うはずが無く、勝呂の心も全く晴れなかった。結局その行為は虚しさが募るばかりで、余計に勝呂の傷を大きくするだけだった。







傷付きやすい子供だった。泣きやすい子供だった。――そして、早く強くなれることを願う子供だった。









そんな勝呂を幼少期からずっと見てきた志摩は、自分の無力さをひどく嘆く子供だった。







根が面倒くさがりな志摩は厄介事に自ら首を突っ込まない主義であったから、明陀がどれだけ蔑まれようとも聞かないフリが出来たし、飄々とかわしてしまえたけれど、勝呂が傷付き泣いている姿を見て見ぬフリが出来るほど非道でもなかったし、器用にも出来ていなかった。






毎日とは言わずとも、短い周期で勝呂が泣いている現場を発見してしまう志摩は、いつもどうすればいいのか分からず困惑し、己の無力さを噛み締めていた。








「泣くことありまへんえ」と慰めたって、きっと勝呂は泣き止まない。「今更気にしたらあきまへん」と諭したって、きっと勝呂は聞き入れない。それが分かっている志摩は、いつもなんの言葉も掛けてやることが出来なかった。なんにも出来ない自分自身が大嫌いで、情けなくて、醜いとさえ思っていた。







幼い志摩は、大人達がとても羨ましかった。それは、彼らの大きな手なら大事な勝呂を優しく撫でてやれるし、大きな体なら大事な勝呂を優しく抱き締めてやれるからだった。自分がそうしてやりたくても、小さな体躯ではあまりに役不足だった。それが歯痒くてならなかった。







早く大きくなりたかった。大好きな勝呂を守れるように、早く大きくなりたかった。




その耳を塞いでやれれば、低俗な輩が吐く言葉から守ってやれる。たとえ聞き入れてしまっても、なんでもないように抱き締めてやれる。傷付いて泣いてしまっても、全ての涙を拭い去ってあげられる。そんな大人に、志摩はなりたいと常日頃から思っていた。








しかしどんなに願おうと、それが叶うことは決してない。今の志摩は、ただの無力な幼子でしかなかった。それが歯痒くて悔しくて、泣きたくなんてないのに泣き出してしまいそうだった。








けれど、泣いている勝呂の隣で同じように涙を流していては、『守りたい』という言葉が形無しである。だから志摩は込み上げる涙をいつも押し殺していた。嗚咽すらも漏らさなかった。我慢の際に拳を強く握り締めるせいで、いつも手の平は爪の跡が残っていた。





全てを堪えるように、隠すように。涙を流す勝呂と涙を堪える自分自身のために、志摩はいつもささやかな魔法を掛けていた。






一体いつ、何で得た知識なのか、志摩自身も覚えていない。だけど勝呂も自分自身も慰める手段として用い始めた当初、志摩には躊躇いも疑問も何も無かった。






魔法――と称するにはあまりに稚拙なそれは『おまじない』と言った方が適切だろうか。方法は至極簡単で、泣き続ける勝呂に小さなキスを送るという、本当に単純なものだった。




涙が止まるおまじない、といつも志摩は言って勝呂にキスをしていた。その小さな唇を泣き腫らした瞼に、擦りすぎて爛れた目元に、涙が絶えず伝い続ける頬に、何度も何度も寄せていた。









このキスにどんな意味が含まれているかとか、志摩には関係なかった。勝呂が泣き止んでくれるのなら、おまじないの根本的な部分を蔑ろにする事への後ろめたさなんて、これっぽっちも無かった。







このおまじないは意外に効果があって、勝呂の涙はしばらくするとあっさりと止まるのである。擽ったさからか恥ずかしさからか、涙が自然と引っ込んでしまうようであった。勝呂の心中は相変わらず悔しさやらなんやらが燻っているけれど、それを涙として吐き出すのはこのおまじないのお陰でせき止められるようだ。






キスをしている間に、志摩の涙も完全に奥のほうに引っ込んでしまう。唇を寄せている間に、荒ぶった心が平静を取り戻してくれるようなのだ。








ホンマにコレは確かなおまじないや、と幼い志摩はいつも思っていた。





「あ、坊泣き止んだ」
「うっさい。こんなんされたら、泣いてるんがアホらしゅうなるだけや」





目元に残る雫を乱暴に払って、勝呂は口元を歪めて笑おうとした。この行為が志摩なりの慰めであることは熟知していた勝呂(無論、志摩が自分自身をも慰める意味を含めていたことは知らなかった)。そのささやかな礼として笑顔を向けるのが「もう大丈夫」だと安心させるのに最適な方法だと勝呂は思っているのだが、しかし泣きはらした後で笑顔を作るのは難しい。心中が未だ平静を取り戻していない状態なのだから尚更だ。





だから、いつも勝呂が志摩に向ける笑顔は歪なもので、笑顔と称するにはあまりに不出来なものだった。






志摩は、勝呂が作る歪な笑みをいつも見ないフリをする。無理な笑顔なんて見たくないと思っているし、歪であることを敢えてからかう程無神経でもなかったからだ。





「そないにずっと泣いとったら、いつか干からびてまうんとちゃいます?」





見ないようにあくまでも自然に視線を外しながら、志摩はからかうようにそう言った。





「アホ、干からびんわ。それに…俺は、まだなんも出来てへん」





小さな拳をグッと握り、勝呂は言う。





「俺、早よデカなってサタン倒す。そんで、寺継いで明陀立て直すんや。『祟り寺』や言うた奴らの鼻、あかしたるねん」
「はは…坊の夢はデッカいですなぁ」
「なんやねん、志摩も俺を笑うんか!?」





志摩の軽口が癪に障ったらしく、勝呂が憤る。今まで何度となく門徒の者達から笑われてきた勝呂が抱く夢。それをまさか、こうして隣にずっと居てくれる志摩にまで否定されてしまうのか…と、勝呂は憤る傍ら、悲しくもあった。





しかし志摩はそんな勝呂を見て「まさか」と小さく笑う。






「俺みたいになんの夢も持っとらん奴からしたら、坊はホンマに立派やなぁ思ただけどす。変態やとは思いますけど、バカになんかしてまへん」





笑顔のままで志摩は言う。そして勝呂の小さな手を、志摩の小さな手が包み込んだ。





「ねぇ坊。俺もその夢に、一口乗らしてください」
「は…?」
「一緒にサタン倒しましょ、っちゅーことですわ」
「……アホ」






この頃の志摩はサタンの力も、サタンによって齎された『青い夜』がどんな惨劇だったかもあまり把握出来ておらず、だから勝呂が語るこの夢がどれだけ絵空事で子供染みているかなんて、全く懸念することなんて無かった。だからこそ、こんなに軽々しく言えたのだ。共にサタンを倒そうなどと。幼いが故の純粋さと無知というものは、時に眩しすぎて直視出来ないものがある。






そして勝呂も、志摩の言葉を撥ね退けることはしなかった。初めてだったからだ。己の夢を笑うことも無く、受け止めてくれた存在が。賛同してもらえたことが、純粋に勝呂は嬉しかったのだ。止まった筈の涙がまた溢れてしまうのではないかと疑いたくなるぐらい、鼻の奥がツンとして痛かった。それが溢れないように堪えたままで交わされた小さな指切りは、勝呂と志摩、二人だけの秘密だった。










しかし、志摩自身が勝呂の夢に賛同しているということを、言い触らすことは無かった。同じ志を持っていることを、誰にも話すことは無かった。それは勝呂が「志摩まで笑われる必要なんか無い」と、己を取り巻く柵(しがらみ)から志摩を出来るだけ遠ざけようとし、尚且つ志摩にも固く口止めしていたからだった。志摩は気にしなくて良いと言ったのだが、勝呂は頑として聞き入れようとしなかった。







門徒を――志摩を家族のように大事に思ってくれている勝呂だからこその気遣いが志摩は嬉しかったけれど、本音を言えば、どこまでも巻き込んで欲しかった。無知から見出した志とはいえ、この頃の志摩は本気だったのだから。







けれど、そんな勝呂の気遣いを軽々しく無碍にすることも憚られ、数度の説得が空振りに終わってしまって以降、ずっとそれに甘んじ、日々を過ごしてきた。










相変わらず『祟り寺』という呪文はついて回った。勝呂は相変わらず悔し涙を流していた。そんな勝呂を、志摩は相変わらずおまじないで慰めていた。







勝呂の夢がどれだけ無謀なものなのか、成長するにつれてお互い理解していった。理想だけでは図れない程に高次なことなのだと、痛感していった。







それでも勝呂の信念は揺らがなかった。けれど、志摩は――志摩は?









そうして日々を過ごしている内に、勝呂の涙の数は徐々に減っていった。望んでいた強さを少しずつ得ていき、体つきもしっかりしたものになっていった。成長しているのは志摩も同じであったが、それに差異が生じているのは明白だった。







志摩が、あれだけ守りたいと、包み込んでやりたいと思っていた勝呂の方が、志摩よりも逞しく育ったのである。合わせた手の平のサイズに、僅かながら明確な差が出てしまった時、志摩は思わず「あーあ」と零した。中学校生活もあと残り僅かとなった、三年生の秋口だっただろうか。





「なんやねん変な声出して」
「坊の方がデッカいな〜思ただけです〜」
「そんなん当たり前やんけ、俺は鍛えとるし。お前もデカなりたかったら真面目にトレーニングしぃや」
「そんなん俺のキャラちゃいますもん」






手を離し、そのままコロンと芝生に寝転ぶ志摩。昼休み中の現在、芝生が広がるだけでベンチも何も無い、故に生徒達からはたいへん不人気なこの中庭に人影は一切無く、教室の喧騒から切り離されたここは異様な程に静かだ。夏の名残を残した芝生は青々としていて柔らかく、志摩の体を易々と受け止めた。






見上げた太陽の光が眩しい。しかしその眩しさも随分弱くなった。残暑も終わり、少しずつ輝きを落ち着かせていく太陽を眺めながら、もうすぐ秋やなぁとぼんやり思った。











鍛錬は、あまり好きじゃない。面倒だし辛いし、果ての見えない何かのために足掻くのは性に合わない。それに、そんなに必死にならずとも、対価は付いてくるものだとなんの根拠も無いながら思っていた。





しかしその結果は言わずもがな…理想からかけ離れてしまった二人の立ち位置が確立しただけだった。











――もう、『守りたい』っちゅー理想を持つんは、おかしいんかな…?




「志摩? 寝るんか?」
「寝まへんよ。坊と一緒に居るんに、寝てまうんなんか勿体無いですやん」





そうは言ってみたが、秋口の過ごしやすい気候は眠気をよいしょっと引っ張りあげてくる。昼食の後だから尚更だ。『腹の皮が張ると目の皮が弛む』とは、はてさて誰の言葉だっただろうか。少しだけ重くなり始めた瞼を誤魔化すように乱暴に擦り、志摩は勢い良く体を起こした。眠いのは眠いのだが、勝呂に伝えたことに嘘は欠片も無い。だから無理矢理眠気を飛ばすために頭を数度振る。それにより、髪に張り付いていたらしい草がパラパラと地面に散った。





「別に寝ててもえぇで。ちゃんと起こしたるさかい」
「だーいじょーぶです。坊と話しとったら眠気なんか吹き飛んでまうし」
「嘘くさいのぉ」
「ひどいなぁ坊は。えぇからえぇから、なんや話しましょうや」
「話言うたかて…こない改まってする話なんか無いやんけ」






困ったように寄せられた眉を見、それもそうやなぁと志摩も納得する。毎日毎日一緒に居るのだから、今更固く構えてする話など無いのである。





ならば、残りの時間をまったり過ごそうと思い当たった志摩は、「じゃあ一緒に日向ぼっこしまひょ」と言って再び芝生に横になった。寝てしまうのは勿体無いとは言ったが、することが無いなら寝てしまうのが無難だ。一緒に昼寝するのも悪くないだろう。





寝転んだ志摩をキョトンと見つめている勝呂を見、志摩は「ほら坊も」と自分の隣の空きスペースをポンポンと叩いた。それでようやく勝呂も志摩の隣で横になった。それを満足そうに見て、また太陽と空を眺めることに意識を戻した。










流れる雲に半分だけ隠されてしまっている太陽に、先程も言ったように夏のような強い輝きは無い。十月に入り、その輝きが軽減されるのに比例して、纏わり付くような暑さは随分と緩和された。その代償に訪れた朝と夜の冷え込みによる温度差が辛いけれど、昼間は穏やかな気候に恵まれてとても過ごしやすい。何をするでもなくこうして日向ぼっこに投じるには持って来いの気候である。








そういえば最近は、こうして勝呂とぼんやりすることが少なかったな、と志摩は思う。勝呂は日々自分を鍛えることに余念が無く、勉学だとかトレーニングだとかに執心していた。普段も昼休みは昼食なんかおざなりで済ませ、予習・復習に時間を費やしている。今日こうして志摩と共にのんびりしているのは、志摩が無理矢理に近い形で連れ出したからである。








――坊は必死になりすぎなんや。








父や兄に振るわれる教鞭を悉くかわしてトレーニングを疎かにしがちな志摩と、ストイックに力を求めて自分を追い詰めていく勝呂。志摩からしたら勝呂がそこまで必死になる必要があるのかと疑問に思うし、勝呂は勝呂で志摩のあまりの不真面目さは怠惰の象徴だと辟易していることだろう。しかしお互い、今更何を言ったところで相手が変わるとは思っていない。だからそんなことを億尾にも出さず、志摩は勝呂の息抜きのために動くし、勝呂はそれに何一つ文句を零さず従ってくれる。





根を詰めすぎて倒れられたら困る。ただそれだけの理由だけれど、こうして時折ガス抜きをするための一時が心地良くて仕方なかった。







ここ最近は志摩もクラスメイトとの交友で時間が割かれ、勝呂のガス抜きに協力してやれなかった。だからだろうか、言葉を交わすよりも、こうして何もせずにまったりとした時間を敢えて過ごすことにしたのは。






しばらくの間、二人の間には沈黙が流れた。お互い何を話すでも無く、心地良いまどろみに体を預けていた。そんな沈黙が破られたのは、小さな寝息だった。




「坊? 寝てまったん?」





隣を見やれば、勝呂が空を見上げたまま目を伏せ、小さな寝息を立てて眠っていた。いつも寄せられている眉間の皺が取れて、その寝顔は妙に幼い。





「なんやのん、結局自分が先に寝てまうんやないですか」





クスクスと笑いながら頬をプニプニと突いてみるが、起きる気配は無い。どうやら本格的に寝入ってしまったらしい。まぁこの気候だし、眠気に負けるのも仕方ないだろう。






志摩は「しゃーないなぁ」と苦笑しつつ、自分の大して中身の入っていない鞄の中身をぶちまけ、空っぽのそれを勝呂の頭の下に敷いて枕代わりにした。そうしても勝呂は起きる気配は無かった。普段あんなにピリピリとした警戒心を纏っているくせに、ちょっと油断しすぎでは無いだろうか。






「俺相手やから? せやったら嬉しいんやけどなー」






勝呂の髪を撫でながら、寝顔観察に没頭することにした志摩。密かに気にしているらしい鋭い目付きは、眠っていることによって随分と弛んでいるように見える。加えて視界に入るのは、意外に長い睫だとかニキビ一つ無い滑らかな肌だとか、こうして距離を詰めなければ分からないような勝呂の良さばかり。その目付き故に敬遠されがちな彼だが、根は優しく人情に厚い。それを知っている人間は、はたしてこの学校に存在するのだろうか。






そんな思考に捕らわれながら観察を続けていると、見つけてしまった目の下の隈。色こそは薄いそれは、勝呂の日々の睡眠が十分では無いという事実を如実に表していた。








彼のことだ、どうせ連日連夜勉学に勤しみ、自分の休息を蔑ろにしているのだろう。





「ホンマ、変態やな、坊」






祓魔師になり、サタンを倒すという野望は未だ勝呂の胸中で燻り続けていて、それが、彼が自分自身を追い込んでいる理由でもある。故に、それが度を越えてしまわぬように自制することを、彼は知らない。どれだけ勉強しても渇望して、どれだけトレーニングしても渇望して、そうして自分の限界値を軽々踏み越えて尚、彼の心は満たされない。








焦っているのだと、思う。自分が大人になるための時間を過ごす中でも、確実に寺は退廃の一途を辿っている。恐れているのだと、思う。自分が時期当主に相応しい人間になる頃には、全てが手遅れになっているのではないかという、未来に。








しかしそんなものに焦りを覚えても、恐怖を抱いても、どうしようもないことぐらい勝呂だって分かっている筈だ。だけどその現状にもどかしさを感じているのも、事実だろう。





それらを誤魔化す為に、勝呂は勉学とトレーニングに没頭しているのだろう。こうして無防備に寝こけてしまう程に、自分の体を酷使して。







そんな彼にどこまでも付いて行くと、そんな彼をずっと支えていたいという、その想いは一度として揺らいだことは無い志摩。…でも、彼の野望を純心に応援することは、この数年で出来なくなってしまっていた。







兄達にも聞かされた。父にも聞かされた。勝呂の父――和尚様にも聞かされた。勝呂が抱く夢が、どれだけ壮大なものなのか。どれだけ実現不可能な事柄なのか。夢物語なのか。絵空事なのか。







志摩は幼いながらに、ひどくショックを受けたのを覚えてる。そんな無謀な挑戦に、自分は何も考えずただ同調してしまったのかと、ひどく憤ったことを覚えている。憤った相手は、言わずもがな自分自身だった。









自分がどれほど物を知らない子供だったのか、痛感した。自分がどれだけ無責任で軽率だったのかなど、『子供なんだから』の言葉で片付けられるほど軽いものでもなかった。









勝呂には申し訳ないと思っている。何も考えず『一緒に』などと口走ったくせに、事実を臭わせられてすぐに怖気づき、抱いた志を霧散させて、しかもそれに気付かれぬように巧妙に隠すことに奔走してしまったことに、多大な後ろめたさを孕んでいた。







きっと、いざサタンと全面戦争! という現場に彼と共に直面したならば、志摩は尻込みし、逃げ出すのだろう。勝呂を連れて、逃げ出すのだろう。「無茶や」と言って、「無謀や」と言って、彼から一世一代のチャンスを奪うのだろう。きっとそれは、勝呂をひどく傷付ける。明陀を破門にされて、一切の繋がりを絶たれてしまうかもしれない。








でも…彼には死んでほしくないのだ。討伐のチャンスを永遠に奪ってしまう結果となったって、一生会えなくなってしまったって、彼が生きていてくれるのなら、志摩は満足だと言い切れる。





「って、ただの自己満やけどー」





勝呂を起こさないように小声でボヤく。そんな結果論で世界を計れるほど、志摩は大人ではない。きっとどんな未来を迎えたって、志摩は後悔する。己のエゴに勝呂を巻き込んでしまった事実に、志摩は一生後悔の念に苛まれて生きていくのだろう。






彼に付いて行くのなら、その場面に遭遇しても絶対に割り込んではいけないのだ。引き止めるなど、共に逃げ出すなど、言語道断だ。頭では分かっている。理解している。それでも本心は――たとえ勝呂に恨まれることになろうとも、彼を止めたいと、そこに行き着くのだ。なんとも単純な思考回路。なんて浅はかな思考回路。








――結局そこに、勝呂の意思なんて存在していないではないか。






「……ぁ…」
「? 坊?」






不意の小さな鼓膜の振動に、まさか起こしてしまったか…と慌てて顔を覗き込んでみるが、目を覚ました様子は無い。相変わらず、勝呂は夢の中にいるようである。








けれど…先程まで無かった眉間に深く刻まれた皺が、彼から安らかな眠りを奪っているのは明白だった。夢は夢でも、勝呂が見ているのは悪夢だ。






「坊?」
「…ゃ、ゃ……いくな……し、ま…」
「坊、どないしはったん? 俺はここにいますえ」






体を揺すって起こそうとしてみたが、効果は無かった。震える唇から零れる寝言に焦り、勝呂の手をギュッと握ると、弱弱しく握り返された手。閉じられた目尻から零れる涙。それが頬を滑り、志摩の鞄を湿らせていく。それを見て、志摩の顔も歪む。





「坊…」
「……ちが……たたりでら………ぃやゃ…や…」
「坊、大丈夫。大丈夫やから…」







握った手が小刻みに震えている。紡がれる寝言がまるで悲鳴のようで、勝呂が見ている夢がどれだけ彼に苦痛を与えているのか、感じ取るのは容易かった。頭が右に左にと行き来する度、鞄と髪が擦れてパサパサと音を立てた。彼の体を揺すり続けるが、依然としてその瞳が開かれることはない。







勝呂の涙を見たのは、久しぶりだった。中学に入学してから、志摩は勝呂の涙を見たことが無かったのだ。あれだけよく、泣いていたのに。あんなにも多く、涙を流していたのに。その記憶が間違っているのではないかと疑心を抱く程、勝呂は日々を堂々と生きていた。誰になんと言われても噛み付くだけで、涙を流すことは一度も無かったのだ。









ずっと自分を苛み続けた傷に、影に、ようやくうまく踏ん切りがつけられたのか…と、安心していたのに。








だけど、今、勝呂は泣いている。『祟り寺』と言われる夢を見て、志摩が離れていく夢に魘され、泣いている。堂々たる振る舞いはただの虚勢だったのだと痛感し、見抜けなかった己に歯噛みし、志摩は拳を握りしめた。










――これ以上、坊を苦しめんでや。








志摩は、勝呂の顔に唇を寄せた。幼い時分に、泣いている勝呂を慰めるために用いていたおまじないを、実行に移した。瞼に一つ、目元に一つ、頬に一つ。何度も何度も繰り返し、勝呂にキスを送った。でも、勝呂は泣き止んでくれない。目を開けてくれない。彼の心を、鎮めてやれない。





「なんでなんっ…」






志摩はひどく憤った。どんなに心を込めたおまじないであろうとも、勝呂にはもう届かないのか。涙は止めてやれないのか。





うわ言で紡がれる『いやだ』『たたりでら』『ちがう』『しま』『いくな』も留まることを知らず、その唇から零れ落ちていく。それを塞き止める手段を、志摩は持ち合わせていなかった。








今の自分では、もう勝呂の傷を癒してやることは出来ないのか。まだまだ子供の自分では…勝呂と同じ目線で世界を見通せない自分では、何一つとして彼の力になれないと、そういうことなのか。神に己の無力さを嘲笑われているようで、志摩は奥歯をギリッ…と噛んだ。





「ひっ…ぃゃや…しま、いゃ…」
「もう…黙ってください、坊」






もうこれ以上、勝呂の痛苦の言葉など、聞いていたくなかった。聞かないフリをして苦しむ勝呂を放置することなど到底出来ない志摩は、全ての言霊を吸い上げてしまうかの如く、半開きの唇を自分のそれで強く塞いだ。他意なんて無い。もう、こうするしかないという、志摩の勝手な判断だった。エゴにまみれた、志摩の逃避だった。






無理矢理勝呂の舌を吸い上げて、好き勝手に絡ませて弄ぶ。絡まり合う唾液の音がやけに大きく鼓膜に届き、志摩の興奮を煽り立てていく。そんなことが目的ではないはずなのに、妙な気分になっていく。





「は…ふ、ん……」






空気を求めるように開かれる唇から熱い吐息が漏れる。口の端を伝う唾液が涙の跡に混じって斑点を作っていく。意識はないはずなのに、キスに順応している勝呂。そんな彼の様子に志摩は安堵する。この調子だと、もうすぐ目を開けてくれるのではないか…そんな淡い期待があった。






その期待は正しかった。繋がれた手の平から徐々に力が抜けていき、一度眉がギュッと寄せられたかと思うと、ゆっくりとその瞳が開かれていったのである。






「はっ…起きはった」
「はぁ…はぁ……し、ま…?」
「はい、志摩ですえ」
「俺…」






唇を離すと、勝呂は何がなんだか分からない、といった表情で起き上がった。どうやらキスされていたという認識は無いようだ。まぁ目を開けたその瞬間に唇を離したし、勝呂も完全に意識は覚醒していなかったし、当然だろう。その勝呂の頬には、涙の跡がまだくっきりと残っている。彼はどうやら、気付いてないようだけれど。






「坊、魘されてはったんよ。覚えとらん?」
「…覚え、とる。久々に、嫌な夢やったわ…」
「久々? 前はよう見とったん?」
「子供ん頃の話や…気にしな」
「そん時も、寝ながら泣いとったんですか?」





頬に残る涙の跡を撫でながら志摩が問う。触れた志摩の手に倣ってもう片方の頬に触れると、勝呂の指先もしっとりと濡れた。それで勝呂はようやく、自分が志摩に泣き顔を晒していたことに気付いた。





「あ…」
「坊、なんで教えてくれんかったん」
「…わざわざ、言うことちゃうやろ」
「俺は、一人夜中に泣いてる坊を一回も慰めてあげられんかったやんか」
「えぇんや、もう昔の話や」





気まずそうに目を逸らす勝呂。それにムッとして、無理矢理自分の方へ向かせた志摩。





「志っ…」
「そうやって一人で抱え込むんは、坊の悪いとこや。もうちょっと甘えること、頼ること、覚えた方がえぇ」
「…もう十分、甘えとるわ」
「俺はそうは思いまへん。坊の弱いとこなんか、俺まだまだ知らへんで」







涙の跡をゆっくりとなぞりながら、咎めるような口調で志摩はそう言った。未だ苦い顔のままで視線をあっちこっちに彷徨わせている勝呂に柔らかい笑みを向けて、志摩は額に小さなキスを送った。あぁそういえば、キスをする場所によって意味が違ってくると何かで読んだ覚えがある。確か額は友情で、それから…。







志摩はそう思想しながら、涙の跡が残る頬にも唇を寄せた。塩辛い雫が唇に付着した。それをぺろりと舐め取りながら、志摩は小さく笑む。









――このキスの意味に気付いてくれることは、きっと一生無いやろなぁ。







友情。厚意。憧憬。――そして、愛情。









幼い頃、『おまじない』の為に用いたキス。その場所によって意味が違ってくると知ったとき、全てが勝呂に抱いている想いに該当していた。それは偶然か、はたまた運命か…。








場違いな思考を振り払って、勝呂の体をギュッと抱き締めた。キスしたときもそうだったが、弛緩した体は全く抵抗する素振りを見せない。諦めているのか、委ねてくれているのか…一体どちらだろう。






「もっと俺を頼ってくんなまし。泣きたい時は素直に泣いて、寂しなったら甘えて、疲れたら休んで…俺に弱さを、もっと見したってください」
「っ…」
「俺はどんな坊やって好きですえ。強ぉあらなあかん理由なんて無いねん。弱さ見せたらあかん理由なんて無いねん。たまにはこないして…ガス抜き、しましょうや」
「し、ま…」
「な? 坊」
「…おお、きに」
「…そうそう、そうやって、いつでも泣いてえぇんです」







まぁそうやってすぐ泣かれたらおまじないの意味無いけど、と笑って、勝呂の顔を自分の肩に押し付ける。徐々に湿り気を帯びていく肩に愛しさを覚えながら、艶やかな黒髪を撫でる。すぐ側で聞こえる噛み殺した嗚咽は、勝呂が示してくれる弱さの象徴だ。それを感じながら、志摩は己の無力さを再痛感していた。









――昔の俺は、坊の何を見とったんやろか。









幼少期、泣いている勝呂を励ましていた。彼の夢に賛同し、同じ志を持った。誰にも知られないまま、その志は潰えてしまったけれど…でも、たったそれだけだ。自分だけが知っている勝呂なんて、ほんの一握りだったのだ。現に今の勝呂は、今まで見たことの無い弱さを明かした勝呂なのだ。




愚かな、幼い自分。無知な子供だった。何も知らなかった。知っている気になっていた。本質を見極められなかった癖に、何を得意げになっていたのか。





「堪忍、な……すぐ、止めるさかい…今は…」
「そんな気ぃ張らんでえぇんですえ? 今泣いとかな、坊また我慢するんでっしゃろ? やったら今のうちに、全部吐き出してまい」
「っ…かん、にん……!」






――堪忍、か……坊、それは俺の台詞ですえ。





勝呂の髪を、昔自分の兄がそうしていたようにクシャクシャと撫でながら、志摩も心の中で勝呂に謝罪した。







――ごめんなさい。知った風な口を聞いてしまったけれど、俺は貴方の心の痛みは半分も理解できません。貴方が抱く野望を純粋に応援する度胸もありません。そして…その野望を諦めさせる術すらも、思いつかないのです。




――今の俺に出来るのは、貴方が耐え切れなくなった時、稚拙なおまじないで貴方を宥めてあげることだけ。それ以外は何も出来ない、無力な存在です。傷付かせない術を知らない、全ての涙を拭ってやれない、包み込むように抱き締めてはやれない、そんな俺を、貴方は許してくれるでしょうか。



――その無力を振り絞り、こうして貴方が俺の肩で泣いてくれる時は、精一杯慰めましょう。どんな言葉でも掛けてあげましょう。この矮小な身で、貴方を力一杯抱き締めてあげましょう。不恰好でも、格好悪くても、貴方のためならば、体裁など捨て去ってしまいましょう。






「我慢なんか程々にしましょ。何言われたって、それを夢に見たって、俺みたいに受け流せるようになりましょ。そうしたら坊、傷付かんやんか」
「…っ…あ、ほ……できたら、苦労…せん…」
「…ホンマ、坊は変態や」







それもそうだ。そう出来るなら、とっくにやっている。出来ないから、勝呂は泣くのだ。志摩が知っている涙と、誰の目にも触れなかった涙と。両方を合わせたら、一体どれだけの涙を、彼は一人で流してきただろうか。最早確かめる術も無いそれを考えたところで、今の勝呂の涙は止まらないのだ。








勝呂の嗚咽のみが聞こえる中庭に、始業を告げるチャイムが鳴り響く。日常へと戻ってくるよう促しているようなそれは、高い警告音。夢の世界からその手を掬い上げるそれは、ある種の助力である。







だけど志摩も勝呂も、チャイムが鳴り止んでも尚、動こうとはしなかった。









志摩は、いつもより弱弱しく映る彼が自らの意思で離れるのを待ち続けていたからで。


勝呂は、いつもより広く感じる背中に縋るように腕を回して、己の涙が枯れてしまうのを待ち続けていたからだった。


























――――
君の痛みにかなわない
藍坊主/泣いて

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