※赤司が終始酷い人


※黒子と降旗がひたすら可哀想


※なんでも許せる方のみどうぞ





















最初に言っておきます。この物語は、誰も幸せになれない不幸な悲劇です。身勝手な願望、臆病な泣き虫、無力な片思い。登場人物全員がエゴイストでありペシミストであるが故に、紡がれる物語は必然的に悲劇へと変換されてしまうのです。





もしもこの物語を喜劇に転換させられるのならば、誰でもいいです、力を貸してください。あの人が止まるなら、彼が泣かないなら、僕が諦められるなら、方法は問いません。手段なんて選んでる場合じゃないんです。このままじゃ、手遅れになる…壊れてしまう。










――あぁ。壊れてしまうのは、あの人か、彼か、僕か…一体、誰なのでしょうか。























彼――降旗君が僕の部屋を訪れる理由は一つきり。それ以外の理由で彼が僕の部屋に一人で訪れたことは無い。同じ大学・学部に所属していて、同じバスケサークルに所属していても、放課後を共にしないためだ。休日も然り。僕と降旗君の繋がりは、大学という閉鎖的空間が大半を占めている。



残り僅かな繋がりは、降旗君からの一方的な訪問である。鳴り響くインターホンに読書を中断し、足早に玄関を開けた先に降旗君が居れば、僕は「またか」と思ってしまう。いつもいつも同じ理由を持って、僕の元へ訪れる降旗君。同じ理由だと分かってしまうから、僕は決して彼を追い返さない。そんな行為は、彼の傷をより深めてしまう要因になることを痛感しているからだ。







…そもそも、扉を開けて、僕の顔を見た瞬間に大粒の涙を零して泣いて縋りついてくる降旗君を、どうして追い返すことが出来ようか。




「毎回毎回、君も懲りませんね」




狭いキッチンで手早くインスタントコーヒーを入れて、ソファに身を沈める降旗君に差し出した。泣きはらした顔をしながら、それでもなんとか涙を止めた降旗君は、カップを素直に受け取って上擦った声で「ありがとう」と言う。今日は存外早く泣き止めたようでホッとする。いつもの彼は、まるで幼子に戻ってしまったかのように泣き続けて…それで終わってしまうから。彼が落ち着きを取り戻して、ようやく会話が成立する頃には、いつも赤司君が迎えに来てしまう。僕は言葉を、降旗君は涙を、互いに押し付けて、終わってしまうのだ。



この調子なら、会話するのには充分な精神状態だ。今日は押し付けるだけでなく、ちゃんと互いの意見を交換しなければ…そう考えながら彼の隣に腰掛けて、自分の分のコーヒーを啜る。









大学に入ってから、降旗君は泣き虫になった。原因は、赤司君。あの人の今の行動は、僕にはとても理解出来ないもの。降旗君だって、理解出来ちゃいないだろう。だから彼は泣くのだ。確かに愛し合っている筈の二人は、他でも無い当事者により、その恋を理不尽に掻き乱されて、荒らされて、平穏を取り上げられてしまったのである。





磁石のS極とN極のようにピッタリ離れずいるかと思えば、N極同士で相反するように距離を開かせる赤司君と降旗君。この場合、S極とN極、両方の顔を持ち合わせているのは赤司君だ。両面を巧みに使い分けて、くっついては離れてを繰り返し…結果、降旗君をズタズタに傷付ける。







そして、降旗君は泣く。泣くことしか出来ない降旗君は、その涙の捌け口に僕を選ぶ。どうして僕なのか、聞いたことは無い。ただ同じ大学に通っているからというだけかもしれないし、家が近いからなのかもしれないし、信頼されているからなのかもしれない。何が正解かは分からない。でも、理由がなんであれ、降旗君は僕を頼る。僕には、赤司君にしか見せたくないであろう弱い部分を、惜しげもなく晒してくれる(その事実が嬉しいと思ってしまう自分が、僕は嫌いだ)。





「懲りないよな…オレ…」





自嘲するように笑って、降旗君は静かにコーヒーを啜る。泣いていたことにより腫れている目元が、とても痛々しく思えた。






素直で、甘えたがりで、臆病で、弱虫な彼は、いつもいつも赤司君を信じている。その信用が裏切られ続けているというのに、彼は同じ轍を踏む。本当に、懲りない。これが普通の恋人なら、とっくに愛想を尽かしている状況なはずなのに。






だが、赤司君に依存するようになってしまっている降旗君は、赤司君を切り捨てられない。だから縋ってしまう。見限れない。だから信じてしまう。その先に待ち受けているのは裏切りと絶望であることなんて…そろそろ学習してもいい頃なのに。





「君だけがそうやって泣いてばかりなのは、恋人同士なのに理不尽過ぎます。そうやって泣くぐらいなら、別れてしまうべきです」
「はは…黒子はハッキリ言うよな、いっつも…」
「嘘は嫌いなんです。それに…降旗君がそうやって泣く姿を、もう見たくないんです」
「………」





僕はカップを握る。不釣り合いだ、と思うのだ。こんなにも一途で純粋な降旗君と、あんなにも自分勝手で非情な赤司君とでは。未だ、僕にはこの二人がどうして惹かれ合ったのかが分からないのだ。彼らのインスピレーションのバグだったのではないかとすら思う。








高校時代は、こんなことは無かった。二人は確かに真っ当な恋愛をしていたはずだ。赤司君は本当に降旗君を大事にしていたし、降旗君もこんな風に泣きはらした表情をすることなんて無かった。仲睦まじく、たまに喧嘩をして、仲を深めて、幸せそうで…(だからこそ、僕は彼を諦めようと思ったのに)。










大学に入ってからだ…二人の何もかもが捻れてしまったのは。二人の何もかもが歪んでしまったのは。二人の何もかもがズレてしまったのは。





「…降旗君が、赤司君を信じているのは分かっているんです。だからこそ、君は泣くんですから」





そう、分かっている。赤司君への愛がどれだけ深いものなのかぐらい、分かっていないわけじゃない。今まで何度も何度も、思い知らされたのだから。










降旗君の目に、僕が映っていないこと――









「でも…それでもっ、僕は君に泣いてほしくない。君には笑っていてほしいんです。赤司君を想っているだけで…どうして、君が泣かなくちゃいけないんですか…」
「黒子…」
「っ…」





あぁ、情けない。どうして僕が泣きそうになっているんだ。違うだろう、ここで僕が泣くのは間違いだろ。僕が泣いたところで、優しい降旗君を心配させるだけだ。なんの解決にもならないじゃないか。僕が涙を零したところで、何が変わる? 降旗君は笑える? 赤司君が元に戻る? …有り得ないこと。僕如きの代償を払っても、変わることは何も無い。





無意味な涙を零さないよう、僕はキツく唇を噛む。コーヒーの水面に、僕が映っている。泣きそうな顔をした僕が、僕を見ていた。





「ごめんな、黒子」





ハッと顔を上げる。降旗君が、さっきまでの僕と同じようにコーヒーの水面を見つめていた。――ただ、僕と異なるのは、降旗君がポロポロと透明な雫を零している、という部分だけ。




瞳から溢れた涙は頬を伝い、パタパタと落ちていく。数滴がコーヒーに溶け、小さな波紋を浮かべては消えていく。僕は自分のカップをテーブルに置いて、降旗君に手を伸ばした。しかし、この手でどこに触れるべきか分からなくて…結局その手は、どこに触れることもなく、僕の膝の上に戻って拳を作ることとなった(意気地無し)。





「黒子は、優柔不断なオレをいつもちゃんと叱ってくれるから…それが、有り難くて…だからいっつも、辛くなったら黒子のこと頼って……っでも、そうだよな…人が泣いてるとこなんか…見たくねぇよな…っ…」
「…そう思うなら、泣き止んでください、降旗君」
「ぅっく…ごめ…無理…」
「……火傷しちゃいますよ」




今にも手から滑り落ちそうになっていたカップをそっと取り、僕のカップに寄り添わせるように置いた。空いた両手でゴシゴシと瞳を擦る降旗君。あまりに乱暴な手付きを見かねてハンカチを差し出そうと思ったけれど、生憎ポケットにハンカチが入っていなかった。仕方無くティッシュを箱ごと差し出して解決とした。




ズビズビと鼻を啜りながら、降旗君は涙を止めようと努力している。しかし二度目の涙腺の決壊を止めるのは容易では無さそうで、溢れる雫は止まるところを知らない。抑えきれていない嗚咽に、僕の心がツキツキと痛んだ。











僕は逡巡する。今ここで、泣き震える降旗君を抱き締めて想いを告げたら、彼は僕を見てくれるだろうか。赤司君に囚われている心を、救うことが出来るだろうか。彼に笑顔を贈ることが出来るだろうか。…僕自身に赤司君以上の魅力があるなどと、驕っているわけでは断じてない。ただ傷心に付け込めば、僕にも可能性があるんじゃないかという…あぁ、なんと浅はかで、卑怯な考えだろうか。










仮に…それで降旗君の意識を変化させられたとしても、それが降旗君自身の幸せに成りうるのか…僕には読めない。気持ちが揺れ、僕に靡いてしまったという事実を、後からひどく悔いる事になるかもしれない(降旗君が僕に靡いてくれるかはさておいて)。








赤司君への愛を完全に断ち切れるかだって分からない。降旗君の赤司君への愛がとても強いものなのはよく知っている。前述通り、何度も何度も思い知らされてきたのだから。降旗君が簡単に心変わり出来る人だったなら…きっと今、こんな風に泣いてはいないだろう。












結局、思考を巡らせたって無駄なのだ。降旗君は何があっても赤司君を好きなままでいるだろうし、赤司君も降旗君を手放さないだろう。もしも降旗君が赤司君に愛想を尽かし、離れることがあったとしても、赤司君は彼を追い掛け、そしてまた捕まえる。簡単に思い描けるそんなビジョン。どうやったって、彼は赤司君から逃げることは出来ない。





僕が赤司君に何を言っても余裕でかわされてしまう。僕が降旗君に何を言っても変わらない。僕はなんの影響も与えられない。僕は所詮第三者で傍観者。それ以上にも以下にもなれはしない。





「………」
「っ!? …くろ、こ…?」





涙でぐしゃぐしゃの降旗君を抱き寄せ、僕の胸元に顔を押し付ける。降旗君が困惑しているのが、その声色から簡単に読み取れた。そりゃあ誰でもいきなり抱き寄せられれば、驚きますよね。


そのままで、僕は言う。





「これで、君の泣き顔は僕には見えませんよ」
「ぇ…?」
「止められないなら、我慢しないでください。そのまま、全部吐き出してしまえばいいんです。…その方が、降旗君も楽になれるんじゃないですか?」






どうせ気持ちが変わらないのならば、せめて…目一杯泣かせてあげるのが、僕に出来る唯一の優しさなのではないだろうか。彼の泣き顔は見たくないし、泣いてほしくないのが本心でも…それは僕が望んでいるだけの話。降旗君はそうじゃないかもしれない。








僕の言葉が有り難いと言った降旗君。叱ってくれるのが有り難いと言った降旗君。安い同情でも軽率な慰めでもない、僕の身勝手な感情で構成される叱咤。それが有り難くて、頼ってしまうと言ってくれた降旗君。そう言ってもらえただけで充分だ。僕の我が儘を押し付けて、吐き出すはずの感情を抑制させてはいけない。








思えば…降旗君は、いつも僕の所に来て、ようやく泣けているように思う。泣きそうになりながらも泣けない顔をしながら、僕の元へ訪れてから、やっと吐き出せている…そんな印象を受ける。




誰かに受け止めてほしいと…降旗君はそう願ったんだろう。意識的なものか無意識的なものか…どちらにせよ、孤独なまま涙を流すことに、降旗君は耐えられなかったんだろう。だから降旗君は僕の元へやってくる。そして、泣く。やっと吐き出せた涙を駆使して、思う存分泣いて、泣いて、泣いて――また、赤司君を待ち続けるのだろう。







これは言わば、降旗君のガス抜き。ならば、僕の勝手な願望でそれを妨げるのは戴けない。降旗君のためを思うなら、今は…好きなだけ泣かせてあげなければいけない。





見たくないなら見なければいい。そのためには隠してしまえばいい。これほど単純な話、無いんじゃないでしょうか。





「君には笑っていてほしいんです。そのためには、涙は妨げにしかなりません。全部全部、捨ててしまえば…そうすれば、笑えますよね? 降旗君」
「っ…卑怯だ、そんな言い方っ…」





縋りつくように背に回された降旗君の腕。より密着する互いの体。胸元が冷たく濡れていく。それはきっと、降旗君の涙。――降旗君の、想い。




震え始めたその背を優しく撫でて、僕は敢えて更なる涙を促す。必死に声を抑えようとしている降旗君を瓦解させるように、何度も何度も背を撫でて、僕の心音を聞かせるように頭を抱く。与えるのは安心感。それが齎すのは…慟哭。






「ひっ、ぅ…うぁ、ああぁぁ――――!」






決壊した降旗君の叫びを、僕は静かに受け止めた。これが、降旗君がずっとずっと我慢して溜め込んできた想いならば…思う存分、吐き出させてあげればいい。それを受け止めるぐらい、なんでもない。これが僕の…捌け口としての僕の、役割。









大丈夫です、降旗君。君には僕が居ます。赤司君が君を置き去りにして、不安に苛まれて、泣きたくなったなら、いつだって僕に頼ってくれればいいんです。君が泣かないようになるまで、まだまだ時間が掛かるなら…僕はどれだけの涙でも、受け止めてみせます。そうすることで君が笑えるなら…本望です。



――だから、どうか…。













泣き疲れてソファで眠ってしまった降旗君にそっと毛布を掛けてあげる。頬に残った涙の筋をそっとなぞりながら、僕は拳を握り締めた。湧き上がってくるのは紛れもない憤怒。向ける相手は勿論、赤司君。







洗面所に移動して、扉をしっかり閉める。そして携帯を取り出し、アドレス帳から赤司君の番号を選んでコールを飛ばす。わざわざ部屋を移動したのは、これから成される会話を、降旗君に聞かせないため。降旗君に気付かれないよう、考慮して。





『……やぁ、テツヤ』






数コールを経て、赤司君の声が聞こえてきた。あまりにいつも通りすぎるその声音に、僕の怒りがフツフツとその温度を上げていく。

平常心を心掛け、僕は口を開く。





「赤司君、今何処にいるんですか?」
『さぁね。何処だと思う?』
「僕としては自宅に一人で居てほしいところですが」
『そう。じゃあ、そういうことにしておこう』





何が『じゃあ、そういうことにしておこう』なんでしょうか。赤司君の言葉は甚だ理解出来ない。しかし同時に、僕は悟った。直感した。証拠なんて無いけれど…確信するだけの根拠はあった。





その言葉は嘘だ。赤司君は自宅になんて居ない。あまつさえ、一人ですらないだろう。恐らく――認めたくなんてないけれど、それが一番有力な可能性――今、赤司君は…。





「また、女の人と居るんですか」






それは問い掛けではなく、ひどく断定的な言い回しだった。疑問符すら付かない、事実であるという個人的解釈から成る決め付けだった。






内心では…こんな言い方をしたけれど、にべもなく突っぱねて欲しかった。明確な否定が欲しかった。だから僕は、勝手なことだと分かっていても、期待してしまった。赤司君が、女の人と一緒には居ないと、ただ一言述べてくれることを――





『どうしてそう思うんだい?』
「ただの勘ですよ。…それで、実際の所はどうなんですか?」
『お前の想像に任せるよ、テツヤ』





クスクスと、赤司君が笑う。僕の言葉を本気で取るつもりが無いらしいということを、僕はようやく理解した。携帯を握る手に力が籠もる。今すぐにでも怒鳴りつけて電話を切ってしまいたい衝動に駆られる。降旗君は僕がもらうと発破をかけてしまいたくなる。…けれど、例えそれを実行に移したところで、それが根本的な解決にならないことなど、僕は分かっている。





僕の期待は容易く裏切られた。どうして赤司君は――勝手な物言いだと分かってるけれど――期待通りの返答を与えてくれなかったのだろう。与えてくれれば、僕の心はこんなにも荒んだりしなかったはずなのに…。




「…また、降旗君が来ていますよ。さっきまでひどく泣いていました。今は眠っていますけれど」





蟠りを抑え、本題を切り出す。脳裏に過ぎる、泣きじゃくっていた降旗君の姿。赤司君も、少しは僕のこの胸の痛みに共感してくれないだろうか。…恋人のことなんだから、分かってくれると思うのだけど…。





『そうか』





僕の言葉に対する赤司君の返事は、至極単純で簡潔なもので。しかも、いくら待ってもそれ以上の言葉は聞こえてこなかった。








普通、こんなことを聞かせられれば、少しは狼狽するだろう。もっと掛ける言葉があるだろう。それなのに何も無い。赤司君はたった一言で済ませてしまった。恋人が泣いていたと聞いて、どうしてそれだけで済ませられるのだろう。理解に苦しむ。あんなことを繰り返していると、恋人に掛ける言葉なんて浮かばなくなってくるのだろうか。









頭が痛くなってくる。この頭痛の原因は、間違いなく怒りからだった。僕は携帯を床に叩きつけてしまわぬよう自分を抑える。あまり冷静さを欠いてしまったら、まともな話し合いなど出来ないのは明白だったから。





「いい加減にしてください。何度降旗君を傷付ければ済むんですか? どれだけの我慢を強いればいいんですか? いつまで降旗君は泣き続けなければならないんですか?」
『さぁ。一体、いつまでだろうね』
「…ねぇ赤司君、君は降旗君をなんだと思ってるんですか?」
『決まっている。光樹は僕の恋人だ』
「っふざけないでください!!」





なんでもないように言ってのける赤司君に、僕の怒りはついに臨界点を越えてしまった。冷静さを欠かないようにと思っていた矢先に、荒げてしまった声。狭い洗面所にこだます怒声。ハッとして口を押さえても、もう後の祭り。出て行った言葉は戻りはしない。





ソッと扉を開き、リビングにいる降旗君の様子を窺う。幸い、降旗君は今の怒声で目を覚まさなかったようで、相変わらずスヤスヤと寝息を立てていた。








僕はホッと胸を撫で下ろす。僕と赤司君が電話で話していることを、出来れば知られたくないのだ。…降旗君にとっては、有り難迷惑でしか無いでしょうから。





『光樹は起きなかったかい?』




僕の狼狽を見透かしたように、赤司君が笑いを含んだ声音でそう言った。それを聞いて僕は悟る。赤司君は、降旗君にこの会話がバレても構わないと思っているのだと。もしかしたら、僕に声を荒げさせるためにわざと煽ったのかもしれない。僕の深読みに過ぎないかもしれないけれど…赤司君なら、それぐらいのことはやりかねない。











特に今の――降旗君と付き合っていながら、浮気を繰り返す赤司君なら。














扉を閉め、それに凭れるようにその場にへたり込む。なんだか脱力してしまったからだ。携帯だけは取り落としてしまわぬよう、手の平から力を抜かないよう気を付ける。





「…赤司君。君は、降旗君を恋人だと思ってるんですね?」
『そうだよ』
「じゃあ、どうして浮気を繰り返すんですか? 君のその軽薄な行為が、降旗君をどれだけ傷付けているのか…分かってるんでしょう?」
『テツヤ。僕は別に、光樹を傷付けるつもりなんてこれっぽっちも無いよ』
「それは散々聞きました。僕が聞きたいのは、そうする理由なんです。赤司君が降旗君を傷付けるつもりが無いという綺麗事になんて、僕は興味が無いんです」






何度となく繰り返された質問。何度となく繰り返された問答。僕が納得出来る答えを、赤司君が提示してくれたことは一度も無い。いつもはぐらかされ、かわされ、有耶無耶にされてきた。














降旗君は知っている。赤司君が浮気を繰り返していることなんて、とっくの昔に気付いてる。













何を隠そう、降旗君が僕に教えてくれたのだ。赤司君の浮気を。降旗君が初めて僕に泣きついてきた日、彼はとっくに事実に気が付いていた。彼の話が、僕は俄かに信じられなかった。でも、降旗君が嘘をつくはずがない。だから、僕もそれを事実として受け止めるしかなかった。















降旗君は赤司君から離れなかった。ショックを受け、惜しげもない涙を流しながらも、赤司君を待った。それが一過性のもので、必ず自分の所に帰ってきてくれる筈だと…無い自信を振り絞って、強く信じていたから。




その信用は保たれ、赤司君は降旗君の所に帰ってきた。浮気を謝罪し、変わらない愛の言葉を降旗君に囁いた。途端笑顔に戻る降旗君を見、僕は安堵した。あの浮気は、赤司君の気紛れ…遊びでしか無かったのだと思えた。…なのに。








抱いた安心感は一瞬で覆された。あろうことか、赤司君は浮気を繰り返した。しかも、それを隠し立てせず堂々としているのだ。降旗君にバレるのが前提であるかのような所業。降旗君の涙を煽り、心を傷付け、与える愛を途切れさせた。








その度に僕に泣きついてくる降旗君。その度に赤司君を問いただす僕。その度に何も明かさず、降旗君にそぞろに愛を囁く赤司君。






「意図を教えてください、赤司君。浮気を繰り返し、降旗君を傷付け続ける理由を」
『………』
「お願いします。じゃないと――」






じゃないと、の後に続ける言葉を発するのに、抱いた僅かな躊躇い。言っても良いことなのか、一瞬、判断に迷った。しかし僕は、その小さな小さな躊躇を頑張って頭から消し去った。そして息を一つついた後、





「――僕が、降旗君をもらいます」





と、赤司君に宣言してみせたのだった。











赤司君には、僕の想いはとっくにバレている。だから、充分に意味は伝わる筈だ。降旗君が僕を選ぶ筈無いと分かってるけれど…僕が本気であることぐらいは、赤司君に知らしめることが出来るだろう。発破をかけるつもりは無かったとは言え、ハッタリとして使うぐらい罰は当たらないだろう。







沈黙が流れる。僕の宣言の後、赤司君が何も言わないためであり、僕が言葉を続けなかったためだ。僕は単純に、赤司君からの返答を待っているだけなのだが…赤司君が沈黙する理由とはなんだろうか。僕の宣言が効を成し、赤司君に焦燥感を植え付けてくれたのならなんの文句も無いのだが…。





『…面白いね、テツヤ』





数分間の沈黙の後、赤司君はそう言った。





『そんなことを言ってまで、理由が知りたいのかい?』
「…そうです」
『へぇ…』





赤司君の声音が、悦を含んだものに変わった。ふと僕は、もしも今目の前に赤司君が居たとして、平然と発破をかけることが出来ただろうかと考えた。そんなことを考えたのは、今の赤司君の声音が、あの時と同じ色に染まっていたからかもしれない。








WCの開会式の日。火神君にハサミを突き付けた、あの時と同じだ――








導き出された答えは『NO』。きっと僕はそんな赤司君を前にすれば、文句を言いこそすれ、発破なんてかけられなかっただろう。そんな確信を抱く程、今の赤司君はあまり良い状態では無いのだ。





『――いいよ』





悦を含んだ声音のまま、赤司君は言った。末恐ろしい何かを感じながら、しかし僕は何も返せなかった。





『お前の必死さに免じて教えてやる。僕はね、テツヤ――光樹に愛されてる実感が欲しいんだよ』
「………はぁ?」





素っ頓狂な声が上がる。勿論僕の口からだ。






『僕が離れても、理不尽な行いをしても、光樹が変わらず僕を愛してくれるのか…僕はそれを確かめてるんだよ』
「ちょ…ちょっと待ってください。それ…本気で言ってるんですかっ?」






訳が分からない。混乱して正常な思考が働かない。赤司君の言葉を何度反芻しても、全然…全くもって理解出来なかった。










降旗君に愛されてる実感? 降旗君が赤司君を愛しているか? 降旗君の想いの深さ? 赤司君の浮気行為は、それらを確認するための作業だったと…そういう意味…なのだろうか…?












――そんなの。





「バカですね赤司君」





僕は言った。





「本当に…バカです」





重ねてもう一度。僕が赤司君に「バカ」などと言う日が来るなんて、思ってもいなかったのに。



本当に自然に、その言葉はポロリと零れて、落ちていった。




『手厳しいね、テツヤ』
「そんなことしなくても、降旗君は赤司君を愛してますよ。確かめる必要だって、そもそもありません」
『テツヤにとってはそうでも、僕にとってはそうじゃない。こうでもしなければ、確かめられない』
「…僕には、理解出来ません」





そして、多分――





「降旗君だって、理解してくれないと思います」
『そうかな? 僕は分かってくれると思うけれど』
「それは赤司君の驕りです。事実、降旗君は理由が分からないから、泣いているんじゃないですか?」
『だが、その涙こそ、光樹が僕を愛している証だ…そう思わないかい? テツヤ』
「………」







絶句するより他にない。とりあえず、赤司君の感性がひどく歪みきっているらしいというのはよく分かった。そして、僕の理屈が赤司君にはてんで通用しないということも。






これ以上僕が赤司君の心情を理解することは出来ない。なら、僕が出来ることは、もう限られている。





「……ねぇ、赤司君」





僕は充分に間を空けて、言った。





「いつになれば、そんなことを…浮気を止めるんですか?」
『………』





赤司君は答えない。それは答え倦ねているというよりは、勿体ぶっているかのような沈黙だった。それはつまり、赤司君の中ではとっくに答えが出ているということ。憶測でしかないけれど。








すんなり答えない理由とは一体なんなのか――考えるけれど、僕にはどう足掻いても導き出せそうにない答え。だから僕は早々に諦め、追求する道を選んだ。





「赤司君、どうなんですか?」
『………』
「…赤司君?」
『――扉を開けろ、テツヤ』





そう言い、プツリと切れてしまった通話。僕は携帯をポケットに仕舞い、足早に玄関に向かった。リビングを通る時に見た降旗君は、未だソファでスヤスヤと眠ったままだった。よっぽど疲れているのかもしれない。






肉体的にも。そして――精神的にも。







降旗君を起こすことなく玄関に向かう。勢い良く扉を開けると、私服姿の赤司君が、なんでもないような顔で其処に立っていた。一体、いつから居たのだろうか。






「…赤司君」
「光樹を迎えに来たよ」
「…僕に嘘をついたんですか?」
「何処にいるか、僕は明確な答えは言っていなかったと思うが?」
「……入ってください」




体をずらし、赤司君を中へ招き入れる。こんなやり取りするだけ無意味だし、今は夜中だ。廊下で話していたら近所迷惑になってしまう。あまり御近所さんに認識してもらってないとはいえ、妙な噂を立てられるのは嫌だった。






中に入った赤司君は真っ直ぐにリビングへ向かい、すぐにソファで寝こけている降旗君を見つけたようだった。しかし降旗君を起こすでもなく、床に腰を下ろし、優しく髪を撫でてあげていた。たったそれだけなのに、降旗君の表情が柔らかくなったように見えたのは…僕の目の錯覚だと、思いたい。





「光樹は無防備だな。いつテツヤが狼になるかも分からないのに」
「心外ですね。僕は獣ではありません」
「あんな発破をかけておきながら、よく言えるね」
「…質問に答えてください、赤司君」





僕は立ったままで、赤司君を見下ろしたままで、話を蒸し返す。『いつ浮気をやめるのか』――それに対する答えを、まだもらっていない。答えを聞くまで、僕は引き下がらないつもりでいる。







降旗君の髪を撫でていた手を止め、赤司君は僕を真っ直ぐに見上げてきた。相変わらずの、オッドアイ。強く鋭い眼光に身が竦む思いだ。それでも、屈する気は更々無かった。





「頭が高いぞ」
「このままでも答えられるでしょう?」
「…生意気になったね」
「赤司君のせいですよ」
「いいさ。そのままで聞けばいい。…だが、約束しろ」





赤司君は指を一本立て、言った。





「今から僕はお前が望む答えを提示する。だが、テツヤ、お前はなにもリアクションを起こすな。表情に出すことぐらいは許してやるが…言葉と行動に、くれぐれも出すな」
「………分かりました」






そんな条件を出される意味は分からなかったけれど、これを突っぱねてしまえば、赤司君は絶対答えようとしないだろう。なら、僕に選択肢なんて無い。その条件を飲み、甘んじて赤司君の言葉を待つだけだ。




僕が頷いたのを見て、赤司君はとても満足そうに笑った。そして――言った。












「――光樹が死を選ぶまで」









なんでもないように。当然だと言わんばかりに。ごく自然に。気軽に。



赤司君は、そう言ったのだ。





「光樹が、僕が側に居ないならと自らの死を望むまで。死ぬことで僕の気を引こうと思うまで。僕無しじゃ生きていけないと乞うまで。僕はその瞬間が訪れるまで、続けるつもりだ」





僕は動けなかった。声すら上げることが出来なかった。赤司君が僕に巻いた制約の鎖は、堅実にその役割を果たしていると言えた。







まさしく、キャパオーバー。もう、僕が理解出来る範囲を完全に越えていた。…どころか、理解したいとさえ思えなくなった。赤司君の歪んだ感性は、僕なんかが理解しようとしたところで、到底出来ないものだったのだ。









あまりに理不尽だと…思う。赤司君の中では、降旗君が死を選ぶのは必然。その日が来るまで、赤司君は絶対に浮気行為を止めないだろう。他の誰でもない、赤司君がそう言ったのだ。







赤司君の言葉はいつも正しかった。…だけど、今回のことは、正しくあってほしくない。じゃないと、降旗君があまりにも可哀想だ。愛しているのに、真摯な愛情は与えられなくて、死を選ぶのが正解だなんて…これを理不尽と言わず、なんと言うのか。










憤怒を飛び越え、僕の身を包むのは悲嘆。勝手に滲んできた涙は、容易く僕の瞳から零れ落ちた。声も上げずに泣く僕を見て、赤司君は一層笑みを深くした。





「光樹を奪いたければそうしてみろ。それでも正しいのは――僕だ」





赤司君はそう言うと、眠っている降旗君を背負って部屋を出て行ってしまった。扉が閉まる音。少しして、車のエンジンが掛かる音が聞こえた。その音はすぐに遠ざかり、聞こえなくなってしまった。部屋に一人取り残された僕は、無様に立ち尽くしたまま動けなかった。涙を流したまま俯いて、嗚咽を漏らす。そんな自分が、ひどく滑稽に思えた。












何も、聞かなければ良かった…何も知らないままで、僕を頼ってくれる降旗君をただ慰めていれば良かったんだ。そうすれば、こんな思いをしなくて済んだのに。こんな虚しさを抱えなくて良かったのに。





「降旗君っ…」





膝を折り、床に頽れる。涙で霞んだ視界に映るのは、テーブルに取り残された二つのマグカップ。僕の分と、降旗君の分。






僕は自分の方のマグカップを手に取り、コーヒーを啜った。案の定すっかり冷えていたコーヒーはとても苦くて、僕の舌を強く刺激した。その苦さに、涙が更に込み上げてきた。マグカップを握り締め、僕は泣いた。理由の分からない涙が、僕の心を強く強く締め付けた。











僕じゃ、降旗君を救えない。僕の手じゃ、降旗君の涙を止められない。僕の想いは、降旗君には決して届かない――







「降旗君っ…!」









――あの儚い笑顔すら。






――いつか、血に塗れてしまうのでしょうか。



















――――
無力な愛の手
the GazettE/赫い鼓動

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