この物語は、一人の少年の恋慕から始まった。





最初は大嫌いだった相手。仲間という間柄の筈なのに、敵視していた相手。信用なんて欠片も出来なかった相手。ケンカばかりを繰り返していた相手。



嫌いだから、常に警戒していた。暇があれば、妙な動きを見せないかどうかずっと見ていた。彼の言動にいちいち突っかかった。行動にいちいちケチをつけた。その度にケンカになった。口論になった。








――そして、どんどん好きになっていった。









常に彼を見ていたから、意外な一面を知った。笑顔を知った。優しさを知った。葛藤を知った。一途だと知った。強さを知った。心を知った。




今まで見えなかった色々な部分が見えてきた。そしてその一つ一つに強く惹かれた。自分には無いものばかりだったからだ。だんだん嫌悪は消えていった。それとは逆に、どんどん慕う想いが強くなっていった。









少年は、いつの間にか彼しか見えなくなっていた。









だけど同時に気付いてしまった。この想いが絶対に報われないことを。少年は、彼が自分を嫌っていることを十二分理解していた。常にいがみ合い、口論を成し、互いに嫌悪を剥き出しにし続けてきたのだ、当然のことだ。少年の心から既に嫌悪は無いが、彼は違う。彼は少年に嫌悪しか抱いていない――しかしこれは少年の思い違いであり、実際の彼は少年に嫌悪すら抱かず、ただただ『無関心』であったのだが…それをこの時の少年は知らない――それが覆る可能性は皆無だった。







少年は出逢いから今までの自身の言動をひどく悔いた。報われないと知った想いを消し去れない自身に腹が立った。その想いに惑わされ、彼と思うように接せられなくなった自身の弱さに嫌気が差した。












それでも――少年は彼が好きだった。











悔いは、腹立たしさは、嫌気は、全て涙となって少年を襲った。少年は弱かった。肉体的にも、精神的にも、まだまだ未熟だった。涙を流しても楽になれないことを知っていても、溢れる涙を止める術を知らない少年にはどうしようもなかった。涙は無意味に流れ出るだけだった。






彼に想いを受け止めてほしかった。同じ気持ちになってほしかった。他人に見せる笑顔を、自分だけに向けてほしかった。報われないと痛感していながら、少年は報われたいと願っていた。









『彼』は、そんな少年の苦悩が理解出来なかった。だから、さっさと忘れてしまえと促した。しかしその言葉は悉く拒まれた。少年は想うことをやめようとしなかった。自分が辛いだけだと分かっていながら、募る恋心を膨らませるばかりだった。『彼』もまた涙をした。少年の幸せを願っていながら、幸せにしてやれない自身の無力さを嘆いて。








青年は、ある日偶然少年の涙を目の当たりにした。恋慕を知っていながら涙を知らなかった青年は、しかし何も言わず受け入れた。少年の気持ちを否定しなかった。その恋慕を見守るだけに留めた。『彼』の気持ちを蔑ろにする結果になってしまったが、青年は自身の考えを改めなかった。出来るだけ側につき、少年を微力ながら支え続けた。『彼』とも言葉を重ねた。知らなかったことをたくさん知った。それでも青年の気持ちは変わらなかった。









その恋慕から道を踏み外したのは、当事者である少年だった。周りに甘えているばかりではダメだと悟った少年は、想いを告げることはしないまま、彼との関係を元の形に戻そうと目論んだ。以前の自分の姿を取り戻そうと躍起になった。…しかし、それは誤りだった。してはいけないことだった。彼が発したたった一言で呆気なく挫折した少年は、絶望の淵に立たされた。そして少年は、愚かにも選択した。――死を。






しかし少年は死にきれなかった。『彼』の働きによって、死を望んだ命は繋ぎ止められた。しかし少年は、目覚めることを拒んだ。目覚めたくないと願った。目覚めたところで、居場所なんて無いと決め付けた。それが許されない逃避だと、少年は理解していたけれど。…けれど少年は、そうしないと自分が壊れてしまうと信じ切っていた。








しかしその逃避も、長くは続かなかった。目覚めを拒み始めて幾日経った時だろう、『彼』が泣きながら、少年を外に押し出したのだ。青年が以前少年と重ねて見た、あの涙を流しながら、『彼』は少年の逃避を終わらせた。抵抗は無意味だった。少年は、目を背けていた現実に向き合うことを余儀無くされた。



しかし残念なことに『彼』の涙は、少年の心を動かすには役不足であった。だから、逃避は現実にまで及んだ。――[嘘]いう形で。







ニセモノの笑顔。ニセモノの言葉。ニセモノの記憶喪失。全てを嘘で塗り固めて、少年は何もかもをニセモノに変えてしまった。
 






嘘を貫いた。嘘だらけになった。嘘しかつけなかった。嘘で彼に接した。嘘で青年に接した。嘘で仲間達に接した。一つ嘘をついてしまうと、次の嘘も易々と出てきた。嘘を纏うことにより、彼とも普通に言葉を交わすことが出来た。








しかし少年は楽になれなかった。嘘をつく度、いつも心がキリキリと痛んだ。自分がついた嘘は自分をいつも傷付けた。夜になると一人でただただ泣いた。自分の愚かさを嘆いた。腕に刻まれた自傷の跡を包帯越しに掻き毟り、滲んだ血を見てはまた泣いた。





そして――偽れない想いを、暗闇の中にポツリポツリと吐き出した。














――終わらせなければならなかった。このままでは何も進まない。何も戻らない。終止符を打たなければならない。他の誰でもない、自分自身の手でだ。苦しみに打ち勝てず、嘘で何もかもを囲っていた少年は、嘘を止めることを決意した。これ以上の嘘で、自分の心を痛めつけることに耐えられなくなったのも理由の一つだ。








逃避行はもうおしまい。エンディングを迎えなければならない。次に進むために。――未来を手に入れるために。







そのために、この物語は…終わるのだ。








――――






涙で時折言葉を詰まらせながら、ヘッポコ丸は全てを打ち明けた。破天荒への恋慕も、自分自身の弱さも、支えてくれた邪王やソフトンのことも、破天荒に晒した涙の訳も、自傷の経緯も、目覚めてから嘘をつき続けた理由も……何もかもを、洗いざらいぶちまけた。嘘も偽りも混ぜず、真実のみを全て明かした。






ソフトンも破天荒も口を挟まなかった。相槌も打たなかった。ただ黙って、ヘッポコ丸の告白を聞いていた。




「ごめんなさい…」




全てを話し終え、またヘッポコ丸は謝罪の言葉を口にした。全く止まる気配の無い涙は、ヘッポコ丸の瞳も頬も盛大に濡らしている。




「こんな、俺の身勝手で、みんなをっ、巻き込んでっ…ぅ…ごめっ、なさっ…」





引きつった嗚咽で言葉を途切れさせたヘッポコ丸。袖で何度も拭って涙を止めようとしているが、そんな程度で涙は止まらない。既に袖は涙を吸い過ぎてしとどに濡れてしまっており、涙を拭うには不向きだった。







ソフトンは迷っていた。抱き締め、慰めてやりたい衝動に駆られたが、ヘッポコ丸の側に行っても良いのか、行動に移し倦ねていた。側に行ってやり、抱き締めてやれたとしても、なんと言葉を掛けてやれば良いのかも、分かっていなかった。破天荒は動かない。言葉も発さない。ただ難しい顔をして、ヘッポコ丸を見据えるばかりだ。










破天荒は、ヘッポコ丸が眠っている間に、ヘッポコ丸を愛することを決意した。誰にも揺るがせなかった強い意思で、彼自身がそう決めたのだ。…けれど、全てを打ち明けられた今、破天荒の決意は揺らいではいないだろうか。ソフトンはそれを危惧していた。破天荒がなんのアクションも起こさないから尚更、ソフトンの不安は掻き立てられた。




「ヘッポコ丸」





その刹那、破天荒がヘッポコ丸の名を呼んだ。開いた距離を物ともさせないハッキリとした声音で、その名を呼んだ。





その声に、ヘッポコ丸はびくりと肩を震わせて破天荒を見た。泣きはらして痛々しい赤になってしまった瞳で、破天荒を真っ直ぐに見つめた。





「その言葉に、嘘は無いんだな。全部…それが、真実なんだな?」






破天荒の声は柔らかかった。責めてもいないし、軽蔑してもいない。見放してもいない。







まるで恋人に向けるかのような甘さを纏った、響きだった。








喉が引きつって声が出せないのか、ヘッポコ丸は何度も首を縦に振ることで肯定の意を返した。破天荒はそれを見て、「分かった」と柔和に頷いた。





「今からそっちに行く。だから…逃げるな」
「ぇ……あ…」
「頼むから、」






逃げないでくれ――







その響きは、懇願のそれに一番近かった。破天荒は拒否を許さないニュアンスでそう言い含ませてから、ゆっくりとした足取りでヘッポコ丸へと近付いていった。ソフトンはその後ろ姿を何も言わずに見送った。破天荒の魂胆は分からなかったが、ソフトンは悟ったのだ。これで、全てが終わると。





今まさに、破天荒がヘッポコ丸に答えを示そうとしているのだ――と。








ソフトンは踵を返した。もうこれ以上二人の行く末を見守る必要は無いと判断して。ここからの展開に、ギャラリーなど無粋だ。ここから先は、破天荒とヘッポコ丸が結末を紡ぐ。ソフトンはイレギュラーだ。ならば、退散するのが好ましいだろう。






ヘッポコ丸は、逃げなかった。破天荒の気迫に押されて下がりそうになった足を懸命に押し止め、破天荒のことを待っていた。瞬きの度に溢れる涙を、もう拭いはしなかった。…それでも、破天荒との距離がだんだんと縮まっていくにつれ、俯き視線を逸らしてしまったけれど。








破天荒がヘッポコ丸の側で立ち止まるのと、ソフトンが階段に続く扉を閉めたのは、ほぼ同時だった。
 






屋上で二人残された破天荒とヘッポコ丸。破天荒は片膝を付き、俯くヘッポコ丸を覗き込む。まさかそうして視線を交差することになるとは思わなかったのか、ヘッポコ丸は驚きで小さく体を震わせた。でも、もう視線は逸らせなかった。破天荒の金色の瞳が、あまりに真摯に、ヘッポコ丸を見つめていたから。





破天荒を見下ろすというこのアングルは、ヘッポコ丸にとってとても新鮮だった。いつも見上げてばかりで、その遠い眼差しに恋い焦がれて…だけど、届かないことを知っていたから、ただ眺めるだけだったその瞳。






強い意思を秘めた金色の瞳が、ヘッポコ丸は大好きだった。その大好きな眼差しが、自分を射抜いている。その事実に、ヘッポコ丸はまた涙が込み上げてきたのが分かった。悲しみ故ではない。喜びで、だ。





「っ…はてん、こ…」
「なんだ?」
「…ぅっ…ごめん…ごめんなさいっ……俺、おれ…」
「バーカ、なに謝ってんだよ」






破天荒が苦笑し、また流れ始めた涙を優しく拭う。切望して止まなかった破天荒の温もりを不意打ちで与えられた事実に、ヘッポコ丸は何故だか無性に泣けてきてしまい、殺しきれない嗚咽混じりに泣き声を屋上に響かせる。












――もう何もかも、諦めていた。










ヘッポコ丸は、全てを明かしてしまえば、破天荒は自分を軽蔑し、二度と言葉も交わしてもらえず、目すら合わせてくれなくなるだろうと思っていた。自身が犯した罪にはそれが相応しい罰だと、諦め、受け入れる覚悟も出来ていた。






それなのに、当ては外れ、破天荒は蔑視することも罵ることも無く、優しい笑顔を向けて、触れてくれる。その事実が、ヘッポコ丸は堪らなく嬉しかった。






想いなんて、もう実らなくていい。元の…ケンカばかりを繰り返していたあの頃にさえ戻れれば、もうそれ以上は何も望まない。無い物ねだりは、もうやめるから。だから、だから――





「――きらわ、ないでっ…」





お願い、嫌いにならないで。こんなちっぽけで、弱くて、最低な俺を、嫌いにならないで。




好きになって…なんて言わないから。だから、嫌いにだけはならないで。勝手なことを言ってる自覚はあるよ。でも、嫌われたくないんだ。お前に嫌われるのだけは、俺…耐えられないんだよ…。







泣き声に染まった訴えを、破天荒は終始涙を拭ってやりながら聞いていた。相槌も打たず、口も挟まず、また黙ってヘッポコ丸の言葉を噛み締めた。





その無言をどう解釈したのか…ヘッポコ丸はまた「ごめん」と謝罪を繰り返した。





「勝手なこと、だって…分かってる…。で、も……っ…俺は、お前が…破天荒のことが…」
「分かってる。散々聞いた」





突如、破天荒がヘッポコ丸の腕を下から強く引いた。突然のことにバランスを崩し、ヘッポコ丸はその場に座り込む形になってしまう。逆転する視点。少しばかり高い位置にある金の双眼を見上げ、ヘッポコ丸は泣き顔のまま困惑した表情を作る。





破天荒は、自身が掴んだヘッポコ丸の腕に視線を落とす。偶然なのかなんなのか、破天荒が掴んだのは自傷の痕がくっきり残る左腕だった。包帯を巻かれたその腕はひどく細く、華奢な印象を与える。この包帯の下に隠された傷は、破天荒が原因だ。破天荒がそうさせた、破天荒が贖うべき傷だ。




ヘッポコ丸も破天荒同様、掴まれた腕を凝視する。看護士に包帯を替えてもらう時に嫌でも目にする切り傷――と呼称するにはあまりに重く、深い疵――は、目にする度に、自分の弱さを自身に知らしめた。あれだけのやり取りでここまで思い詰めた自分の脆弱さに腹が立ったし、悲しくもなった。あまりに軽率で早計だったと、今は深く反省もしている。この傷が原因で、仲間の輪を歪に捻ってしまったことも承知している。







謝罪するべき相手は、破天荒やソフトンだけでは収まらない。ボーボボにも、ビュティにも、首領パッチにも、天の助にも、田楽マンにも、同様の言葉を伝えなければならない。





「お前が、」






傷を眺め、暗い気分に沈み込んでしまいそうになった時、破天荒が閉じていた口を開いた。ヘッポコ丸は傷から視線を外し、破天荒を見る。破天荒は未だ、傷を眺めたままだ。





「初めて俺に涙を見せた時…俺は、悩んだんだ」
「…なや、む…?」
「…今からは俺が謝る番だ、ヘッポコ丸」






傷から視線を外し、破天荒は真っ直ぐヘッポコ丸を見つめる。真剣味を帯びたその金の瞳にヘッポコ丸は気圧され、息を詰めた。






何を、謝られるんだろう…検討がつかないわけではないが、それはこの場面で謝罪される程のことではないように思う。あの発言は、破天荒に非は無い。捉え方を間違えた自分に全ての責任があるのだから…と、ヘッポコ丸は思っている。破天荒が重荷に感じる必要なんて、無い。





スッ…と伸びた破天荒の手の平がヘッポコ丸の銀髪を撫でる。その手を下ろさないまま、破天荒は重い口をそっと開いた。






「お前の想いは、ずっと知ってた。知っていながら…俺は、知らないフリをしてた。見ないフリをしてた」
「っ……!!?」







破天荒の言葉に、ヘッポコ丸は驚きで目を見開いた。全く予想していなかったからだ。破天荒が、前々から想いを見透かしていたなんてことは。



ヘッポコ丸の予想の範囲外だったのだ。






「お前は、俺がお前のこと嫌ってると思ってたらしいけど…そうじゃない。俺はお前に好きだとか嫌いだとか、そんな感情は抱いちゃいなかった。やたら俺に刃向かってくるガキだって…それぐらいにしか思っちゃいなかった」









『怠惰』――破天荒の性格を表すのに、これほど打ってつけな言葉はない。この性格が災いし、他人に何かしらの感情を抱くことを煩わしく思っていた彼は、ヘッポコ丸に限らず、仲間の大半に好意も嫌悪も抱かなかった。無関心だったのだ、誰に対しても。唯一、首領パッチぐらいにしか好意を全面に表していなかった。魚雷ガールぐらいにしか嫌悪を全面に表していなかった。それ以外には、どうしようもなく『無』であった。








その性格を悔やむことになったのは――ヘッポコ丸の涙がキッカケで。







「ごめんな。お前の気持ちは分かってたのに、なんも考えずにあんなこと言っちまって、お前を泣かせることになって。…俺は、そこでやっと、焦ったんだ」






互いの関係の修正。それに伴って必要になってきた、想いへの答え。





「けど…答えを出す前に、お前は腕を切っちまった」
「っ…」
「責めてる訳じゃねぇよ。さっさと答えを出さなかった俺に、罪は十分にある。ごめんな」
「っ…違う…そんなの、違う…!」





罪はある――その言葉を、ヘッポコ丸は強く否定する。新たな涙で頬を濡らしながら、ヘッポコ丸はブンブンと首を振った。







「俺が腕、切ったのはっ…俺がっ、弱かったからでっ…」
「ヘッポコ丸…」
「勝手に好きに、なったくせっ、に…ぅっ……勝手に、傷付いて…泣いて……ごめん…弱い俺が、全部、悪いんだよっ…!」






嗚咽で喉をひきつらせ、途切れ途切れになりながらも、ヘッポコ丸は破天荒の言葉を否定し続けた。全ての責任は自分にあるのだと、自分の弱さが原因なのだと、引け目を感じる必要など無いと、強い泣き声で否定し続けた。








互いに謝ってばかりだ、この二人は。互いに否定してばかりだ、この二人は。互いに先に進めないのだ、この二人は。







「ストップ」







ヘッポコ丸の言葉を、破天荒は遮った。その、すっかり弱々しくなってしまった体躯を抱き締めることで。




「ぁっ…」




か細い吐息を漏らし、ヘッポコ丸は沈黙する。愛し、焦がれて止まなかった破天荒の腕に包まれて、早まる動悸を自覚しながら、ヘッポコ丸は沈黙するしかなかった。







――ヘッポコ丸を抱く破天荒の腕の力はあまりに強くて…震えて、いたから。






愛する人に抱き締めてもらえている。その事実に歓喜するよりも前に、ヘッポコ丸は困惑し、混乱した。破天荒の突然の行動の真意と、震えの訳が読み取れなかったからだ。正常な機能を失った思考回路でグルグル考えるが、そんな状態で何が思い付くというのだろう。ヘッポコ丸はなんの答えも導き出せないまま、大人しく破天荒の腕に収まっているしかなかった。





「謝るのは、もうやめだ」







耳元で直接吹き込まれる破天荒の声音に、ヘッポコ丸は小さく身を震わせる。恥ずかしさと、くすぐったさと、未だ燻る困惑が、ヘッポコ丸の精神を過敏に逆立てる。






こんがらがった思考回路が導き出すのは、ただただ当惑のみ。だって、おかしいじゃないか。こうして抱き締めてもらえるような、優しい声を向けてもらえるような、そんな状況ではないことは確かなのに。ヘッポコ丸がしでかしたことは、破天荒から嫌悪を向けられてもなんら不思議ではないことなのに(嫌われたくないと願っていても、嫌悪を抱かれるのは致し方ないと痛感はしているのだ)。だから、この状況はあまりに理解し難く、破天荒の言葉の意味だってしっかり反芻出来ない。








謝るのをやめるのは、破天荒なのか、ヘッポコ丸なのか…。お互いがお互いに、もう謝ってほしくないとは思っている。でもお互いがお互いに、謝り足りないとも思っている。…まるで、ヤマアラシのジレンマを見ているかのようだ。適度な距離を測り倦ねている……そんな不器用さが二人から醸し出されている。







「俺が伝えたいのは…本当に伝えたいのは、『ごめん』じゃないんだよ」






吐息混じりの掠れた声。あまりに弱々しい声。ヘッポコ丸はその声を聞いて、破天荒が泣いているものだと思ってしまった。狼狽し、破天荒の顔を見上げようと身を捩った――その時だった。

















「好きだ」















その言葉が、吐き出されたのは。








「え…?」






ヘッポコ丸の思考は完全にフリーズした。破天荒から放たれた言葉があまりに信じがたく、受け入れがたいものであったためだ。









ヘッポコ丸は知らない。ヘッポコ丸が眠っている間に、破天荒が既に想いの整理をつけていたことを。結論を出していたことを。だからヘッポコ丸にとって、その言葉はまさに青天の霹靂だったのだ。あまりに嘘臭く、夢のような言葉だったのだ。





「……うそだ」





それ故に、ヘッポコ丸は拒絶した。破天荒の言葉を拒み、破天荒の言葉を絶った。また溢れ始めた涙には、一体どんな意味が詰まっているというのだろう。






喜びも。

怒りも。

哀しみも。

楽しみも。




当てはまるようで、当てはまらない。









ヘッポコ丸の拒絶など計算の内だったのだろう、破天荒はその呟きを聞いても動じなかった。また泣き始めてしまったその体躯を抱き締め、「嘘じゃねぇ」と囁いた。





「嘘じゃねぇんだ。俺はお前が好きだ。…好きなんだよ」
「や……そんな…うそだ…うそだ…うそなんか、いらないっ…」
「…嘘じゃねぇよ」
「違う、嘘に決まってる…好きになって、もらえるところなんて…俺には無いんだっ……同情なんか、いらねぇよっ…!」





ヘッポコ丸はバタバタと破天荒の腕の中で暴れた。その腕から逃れようと足掻いた。これ以上、この温もりに包まれているのは耐えられないと言わんばかりに、嫌だ嫌だと首を振りながら破天荒の腕を叩き、引っ掻き、押し退けようとした。






しかし破天荒は、頑なにその腕を解こうとしなかった。寧ろ腕の力をより強め、ヘッポコ丸の動きを抑制した。どれだけ叩かれ、引っ掻かかれ、血が滲んできても、ヘッポコ丸を離そうとしなかった。







破天荒は直感していた。この腕を解き、ヘッポコ丸を逃がしてしまえば、この想いが伝わることは二度と訪れないことを。今まで築いてきた何もかもが崩れ、元になんて戻らないことを。









犬猿の仲にも戻れず。




ましてや、恋人にもなれず。








全てが終わってしまうのだと…そう、直感していた。





「同情なんかで好きになるほど、俺はお人好しじゃねぇよっ」
「うるさいうるさいうるさいっ!! そんな…嘘なんか……絶対、信じないっ…!!」






泣き声でヘッポコ丸は叫ぶ。半狂乱になって頑なに全てを拒み、否定し、逃げようと躍起になる。破天荒の言葉にも耳を貸さない。何もかもを、彼は信じられなくなってしまっていた。






それだけ、破天荒が発した想いに不信感を抱いているという事。自分を責めすぎているが故、ずっと望んでいたはずの言葉でさえ、心が弾き飛ばしてしまうのだ。だから暴れる。掻き消そうと焦る。無かったことにしてしまいたくなる。取り消されることを願っている。







――その思惑を打ち破るのは、破天荒だ。








「っ…いい加減にしろ、ボケが」







忌々しくそう言い放ったかと思ったら、あろうことか破天荒は、ヘッポコ丸の耳にガブリと噛み付いた。多少力はセーブしたようではあるが、それでもかなりの痛みがヘッポコ丸の痛覚神経を通じて与えられた。落ち着かせる意味合いがあったのだろうが…なんという荒技だろうか。





しかしそれが効を成し、ヘッポコ丸が痛みに呻き、暴れていた体を停止させた。破天荒はその隙をつき、少しヘッポコ丸から体を離した。








そして…間髪入れず、その唇を自身の唇で――塞いだ。





「んっ…!?」





驚きで目を見開き、ヘッポコ丸は固まる。抗うことも振り払うことも忘れ、唐突なキスを甘受した。重なった破天荒の唇は少しかさついていたが、柔らかく、暖かいものだった。





ただ、唇を合わせるだけの稚拙なキスだった。それ以上深くすることも無く、破天荒はそのまま動かなかった。触れていた時間はほんの数秒だっただろうが、ヘッポコ丸にとってその数秒は数秒ではなく、数分にもせよ数十分にも、もしかしたら永遠に続いてしまうのではないかと錯覚してしまう程、長く感じられた。





しかし、永遠に思われたその口付けは、破天荒が離れることであっさりと終息した。未だ事実が受け止められず破天荒を見上げるだけのヘッポコ丸と、そんなヘッポコ丸を真摯に見つめる破天荒。流れる沈黙。それを破ったのもまた、破天荒だった。






「俺は本気だ」







発された声は低く、ヘッポコ丸の腹の底に響いた。自然と震えた体。しかしそれは、決して恐怖からではなかった。






「本気でお前が好きだ。愛してる。そうじゃなきゃ、キスなんかしねぇ。嫌いな奴にキスしてやれる程、俺は出来た人間じゃねぇんだよ」






彼が誰彼構わず同情して慰めにキスをしてやるような殊勝な人格の持ち主ではないことなど、ヘッポコ丸はとっくに知っている。だから、嫌でも自覚するしかなかった。







――破天荒からの告白が、本物であることを。







「……で、も…」







けれど、ヘッポコ丸は躊躇う。本当にそれを信じていいのかどうか、決心がつかない。何も考えず、それを受け入れれば良いだけなのに…ずっとずっと抱いていた諦観が、邪魔をする。期待を抱くことを拒絶する。伸ばされた手を掴む勇気が、湧き上がってきてくれないのだ。






ヘッポコ丸が臆病になってしまっていることなど、さっきまでの強い拒絶を見ていればそれは明らかだ。その原因が今までの自分の行いであることを、破天荒は重々承知している。だからその逃げ腰を、破天荒は叩いてやらねばならないのだ。





「お前が不安になんのも分かる。今更俺がこんなこと言って、疑っちまうのもしょうがねぇと思う。…けど、俺はもう逃げねぇって決めたんだ。お前を愛するって決めたんだ。さっきも言ったが、俺はそこまでお人好しじゃねぇ。好きでもねぇ奴に好きなんか言わねぇし、キスもしねぇ。それをするのは…お前だからだ、ヘッポコ丸」





何時になく饒舌な破天荒に、ヘッポコ丸はただただ翻弄されるばかりだった。発される言葉一つ一つを噛み締め、反芻し、意味を理解し、飲み込んでいく。そうして徐々に、ヘッポコ丸の心は解きほぐされていく。抱いていた疑心が溶かされ、だんだんと体が弛緩していく。長く、多く張り詰めていた緊張の糸が緩み、少しずつ切れていくような感覚。





また、込み上げてくる涙。ここに来てから、もうどれだけ涙を流しているだろう。今まで流してきた涙を合わせたら、一体どれほどの量になるのだろう。分からない。最早数えるのも億劫だ。…そもそも、数えられるものでもないのだけれど。





「………ねぇ」






涙の滲んだ瞳で、ヘッポコ丸は破天荒を見つめる。泣き声で、ひどく聞き苦しいものになっている自覚はあった。それでもヘッポコ丸は言った。




それが――最後の、確認。





「俺……お前を好きなままで…いいの…?」
「…あぁ」
「好きって言って…いいの…?」
「…あぁ」
「……じゃあ」






クシャリ…と、ヘッポコ丸の顔が歪む。流して流して流して…枯れてしまうのではないかと危惧する程流れていった涙なのに、それでもまだ止まらない。まだ溢れてくる。拭うことすら忘れてしまったその雫はヘッポコ丸の頬に幾つもの筋を作り、顎を伝って落ちていく。


その涙を晒しながら、ヘッポコ丸は言う。







「もう…片思いじゃ、なくなるの…?」
「…そうだよ」






破天荒はキツくキツく、ヘッポコ丸の体を抱き締めた。もう逃がさないと言わんばかりの、強い抱擁だった。






「もう絶対、お前を放したりしない。絶対に…泣かせないから」
「う…ぁ…」
「だから…聞かせてくれよ。お前の返事を」





聞かずとも、答えなど分かり切っている筈だ。今この場で誰よりも、破天荒がヘッポコ丸の想いを分かっている筈なのに。






それでも破天荒は言葉を促した。雰囲気で十分伝わっている想いを、明確に表すことを望んだ。






――それで、全て終わるのだと、破天荒が確信していたからだろう。








抱擁に応えるように、ヘッポコ丸も破天荒の背に腕を回した。皺が付いてしまうことも忘れて、ヘッポコ丸は強く破天荒の服を握る。その手が微かに震えていることに、破天荒は気付いていた。緊張…からなんかでは、無い。今更、ヘッポコ丸は緊張感など抱かない。もし抱くとしたら……恐怖心の方が、強いのではないだろうか。








気持ちを打ち明けて――拒絶される未来を想定してしまう、恐怖を。







だが残念ながら、ヘッポコ丸のその震えは緊張からでも、ましてや恐怖心からでもない。単純に、涙のせいだ。何もかもを飲み込んで流れていく、涙のせいだ。




その涙に負けないように、掻き消されてしまわぬように、流されてしまわないように、ヘッポコ丸は言葉を吐き出す。









「っすき…好きだよ…! っう…ずっと、ずっと、お前がっ…破天荒がっ、好きだよっ…!!」







――きっとこれで、この涙達ともさよならだ。悲しみで、嘆きで、諦めで、絶望で彩られていた涙達とは。これから先、この彩りの涙を流すことは無くなるだろう。もう、これほどにマイナスでしかない色彩はいらない。必要無い。








言葉にして、ようやく交わった二人の恋慕。遠回りをたくさんした。辛い思いをした。たくさん悲しませた。消えない傷を植え付けた。色んな人を巻き込んだ。諦めたくて、それでも諦められなかった。逃げ続けていた。数え切れない涙を流した。







でも…それも全て終わるのだ。全てを終え、二人はようやくスタートラインに立てた。二人の恋はここから始まる。長く険しい隘路を経て、互いの道は交わり、肩を並べて、手を繋いで、微笑みながら、これから進んでいくであろう。











抱き締めあったまま、二人は泣いた。ヘッポコ丸は声を上げて、破天荒は声を押し殺して、ただただ泣き続けた。二人を慰めるように、一陣の風が吹く。それは二人の間を優しく吹き抜け、犇めくように干されたシーツをゆらゆらと揺らした。



















青年が[涙見た日]、少年の恋は微かな変化を見せた。




裏側の存在を知り、[君とよく似た涙が見えた]と青年は痛感した。




変化を求めたことにより、[崩れ落ちる涙]はひどく冷たかった。




逃げの代償に、[君が見せた涙の意味]を受け入れなければならなくて。




弱い自分を責めて、[「僕の涙は見えますか?」]と期待して。




[泪さえ 凍てつく程]に鮮明な赤にまみれた。




眠る少年に[意味を成さない涙は無いから]と教えてやりたかった。




『彼』が少年の幸せを願って[流す涙に嘘は無い]と分かって。




[涙が抱えた愛しさ]は、嘘すら破ってその姿を現し。




たくさんの[涙の数を重ね]て、ようやく辛いばかりの片思いは…終わった。











もう、涙はおしまい。ここから必要なのは、二人の笑顔。…それから。







「愛してる、ヘッポコ丸」
「俺も…愛してる、破天荒」







二人が紡ぐ愛の言葉。














『涙シリーズ』完結









――――
涙の数を重ね
ナイトメア/時分の花



→『涙』シリーズ最終話。長く続いた片思いは終わりを告げ、二人の本当の物語はここから始まっていくのでしょう。最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。

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